ポール・コックス監督/出演:シーラ・フローランス、ゴーシャドブロヴォルスカ、 ノーマン・ケイ/'91オーストラリア *日本では出来上がって6年後に岩波ホールでロードショウ* 一言で云えば、78歳の主人公マーサ(肺ガン?を患っている)の 死を受け入れながらの生き方でしょうか。 今まで同様自分らしく生活を続けることにこだわり、ユーモアと明るさそして皮肉も交え、 自分らしい生き方を最後まであきらめない強い意志力を持った女性を ほんとにいとおしく描いた作品です。 マーサを演じたシーラ・フローランスは本当に癌を宣告され、 余命8週といわれてから、見舞いに来たコックス監督が彼女のため3日で台本を書き、 撮影は実質4週で撮った作品です。 マーサ=シーラ・フローランスという1人の女性で女優の最後の生き様が リアルにリアルに迫ってきました。 きれい事でもない、オブラートでくるんでもない生身の一人の女性が 圧倒する力と切なさの表裏で映像からグイグイ押し寄せてくる。 咳き込んで椅子に座り込むしんどそうな動きや、しわ深い顔や首・あばら骨のすける やせた胸の入浴シーンに終わりの近い人生を見せつけられる一方、 こぎれいな服をまとい、背筋を伸ばし口紅をひいた姿で近所の子供と遊んでる時の わくわくしたしぐさ、 年配の友人と散歩してるときの相手をいたわる姿、快活なおしゃべり、 隣の老人ビリーへの心配り、追い出そうとする家主に一歩もひけを取らない 凛とした強さ..... 人生の最後はこうありたい理想のようですが、 本当に明晰に終わりをむかえられたんです。 これから先日本でもこのように住み慣れた場所で自分を見失うことのない、 支援体制を含めた、納得できる死(=納得できる生)を貫こうとする人が 増えてくるのではないでしょうか。自分も少しでもこんな感じに近づけたら... と思います。 介護する側の人間としては、ホームに入居させようとする 息子に地域看護婦が言った「追い立てないであげて」を しっかりインプットしておきたいです。
(1997年カンヌ映画祭パルムドール受賞) 人生に疲れ人生をあきらめた中年の主人公=バディが 自殺予定の場所(丘の上のジグザグの道路ぎわの1本の木の横に掘った穴に 寝る凍死予定?)に執着し、もし自分が死んでたら 土をかけて欲しいとたのめる人=たのみたいと思える人を捜す話。 死の形のこだわりを通じ、この男に無意識に生へのこだわりも生まれるという 1日を描いている。 バディ演じるホマユン・エルシャディの無表情というか一貫した物憂げな表情が、 車の運転席での顔のアップで延々続く映画ですが、 不思議な存在感のある魅力的な人ですね。 生活音は流れるものの、バックに音楽もない中で ボソボソとぼくとつな響きで聞こえるイラン語の会話、 ジグザグみちを土煙を上げて何度も往復するボロ車、 それを遠くから写すと荒れ地に雑木林が、 モノトーンに近い映像で静かに流れる.... 見るものの心の奥深くゆっくり下りていく映像。 はたしてフィクションなのかドキュメンタリーなのか解らないような中、 ジグザグ道途中でのセメント工場の見張り台の青年との会話、 バディ=素晴らしいところだね 青年=土と埃だけですよ バディ=土は素晴らしい、すべては土から生まれる。 青年=すべては土に還るんですよ ... これを聞いて、ああ、死のうというとき何故場所と土をかけてもらう行為にこだわるのか、 監督の思い入れも含め少し解るような気がしました。 この作為的でない自然の土けむりに、撮るものと観るものの 静かな共鳴があるのかもしれないと感じました。 結局最後、砂掛けを承諾(手助けったって命を奪う手助けなんかしたくないよ といいながら)する 白血病の子を持つ自然史博物館に勤める老人の顔と声もいいです。 バディの自殺志向を何とかくい止めようとしゃべりすぎる言葉の多さが ちょっと気になりますが、 知り合って短時間で相手の気持ちを変えようとすればそれもあたりまえでしょう。 相手に必死で食い下がる優しさが身にしみます。 「夜明けの太陽を見たいと思わないか?赤と黄に染まった夕焼けを もういちどみたくないか?月はどうだ? ....目を閉じてしまうのか?...」イラン語の抑揚のない淡々としたしゃべりが、 心にジーンとこたえます。 キアロスタミ監督作品は去年テレビで「ともだちのうちはどこ?」を見たのですが、 郷愁を感じるというか、余分なものをはいだときの人間のありようを考えるというか、 自分の生地が何かを思い出させてくれるものがあります。
呉徳洙監督/映画「戦後在日五〇年史」制作委員会 |