ストレイト・ストーリー  

  監督:デイヴィッド・リンチ/
 脚本:ジョン・ローチ/メアリー・スウィーニー/
 出演:リチャード・ファーンズワース/シシー・スペイセク/ハリー・ディーン・スタントン/

 起伏はあれど どこまでものどかに続く一本道。
 両横の広い農地、トウモロコシ畑の緑と黄色・・・・・
 そうか、それでストレイト・ストーリーなのね、と思ったら、
なんと、この ’66年型の古いトラクターで560キロも離れた兄に会いに行かねばと決めた
頑固なおじいさんの名前が「アルヴィン・ストレイト」でした。
 そして実話でもありました。
 また、デイヴィッド・リンチ監督作の中では「エレファント・マン」につながる部分もあるような気がします。

 今の世の中、車なら一日走ればたどり着くところを、6週もかけて「自分自身で走らなければ!意味がない」と、
時速8キロで野宿しながら無事到着するまでのたんたんと時間が流れるお話ですが、
すっかりおじいさんの気持ちに入り込んで、心地よい満足感をもらいました。
一緒に住んでいる軽い知能障害気味の娘さんも、隣に住む食べて日光浴する太ったオバサンも静かにとけ込む、
広い大地のアメリカ中西部アイオワ(ローレンス)がドラマの出発地です。
 顔や指や首に深く深く刻まれた“しわ”の中に詰まった人生終焉に近い気持ちを、
本当にはわからないものだナァって、
つくづく思わされた映画でもありました。

 自分の人生の起承転結の「結」を情念の納得で結ばなくちゃいけないという、
頑なな決意のストレイトおじさん。
 映画を観ながら、
  『老人を取り巻く家族や地域や社会がほんとに彼らのやり残したものを阻害してるんじゃないか。
  いやいや、意固地なヘンコツさを持った人しか、
人生黄昏の黄金の味は知りえないのではないか』
 そんな想いがグルグル回りました。
 わたしが一番忘れられないおじいさんの表情は
あの「ミシシッピィ」川を渡る橋を越えるときの無邪気な歓喜の顔です。
 (あの顔は、やらせでもステキ!!)
 自分が住むアイオワ州を真っ直ぐ東へ500キロほど・・・・
川を渡れば仲違いしたまま10年もあっていない兄(ラルフ)の住むウィスコンシン州・・
そんな想いよりも、道中を成し遂げた満足感、開放感。
そして人生73年ではじめてミシシッピィを眺め、州を出るのかもしれない・・
いたずらっ子のような気持ちの高まりの頂点に、
思わずこちらも「橋桁にぶつかったりしないでねっ!」って
はらはらしちゃう。(笑)

 橋を越えてから、スタンドショップのバーで道を尋ねついでに、
長く絶っていたビールを一本飲むのですが、
「ビールは何にします?」
「ミラーライト」って云うときの表情も
頑なさの融解した穏やかな味があって、
そこの店主の老人も何だか一癖もって生きてきた人みたいで、
それでいて和ます雰囲気があり、
お互い喋らなくても通じるよって感じのやりとりが魅力でした。

 それもこれも、旅の途中下り坂でファンベルトが切れたりして助けてもらったり、
修理代金の値引き交渉をしたり
その地で出会ったあるおじいさんに“戦争中、仲間を間違えて撃ち殺してしまったことや、
その後呑んだくれになったことなんかを、
旅だからこそ話すことが出来た”ことで自己確認、自己融解が出来たのでしょう。

 やっとやっと、たどり着いた「ラルフ」のボロ家の前。
 歩行器で出てきた兄と両手に杖つく弟。
 「あれで来たんか」とボロトラクターに目を泳がせうなずく。
 涙ぐむその顔がまたまた朱玉で、うなりました。

 問いかけ、交わり、自分の心の魂を朱玉のごとく磨き上げていくこと。
それは死ぬまで、幾つになっても出来るし、
是非成し遂げたいものだと。
頑ななそして邪悪な心の筋力をうちやぶる高揚感を見せてもらったような・・・・・・
 
カビリアの夜
 
監督・脚本:フェデリコ・フェリーニ/出演:ジュリエッタ・マシーナ/
フランソワ・ペリエ/アメディオ・ナザーリ/1957年・イタリア/

 連休に自宅ヴィデオで観ました。
 貧しい時代のイタリア・ローマ郊外を舞台に「カビリア」という女性が、
売春婦をしながら自活している。
 仲間と賑やかに助け合いながらも、なんども貧しい男に騙され、
お金を巻き上げられながらも、
何とかこの生活から脱却したいという気持ちを失わない女性を演じる、
ジュリエッタ・マシーナの目、表情、身体の動き、しゃべり方に
躍動感があって誇りがあって、
最高に魅力的でした。
 どんなストーリーのリアルさよりも、彼女が全身で漂わす存在感そのものの表現が、
「カビリア」って哀しい女性を救っていました。
(彼女はフェリーニの奥さんらしいです)

いつかは、この地域から、この仕事から抜け出てやる!って気持ちのカビリア。
いつも騙される彼女を何かと気づかい、馬(競走馬)を一頭、一緒に買おうと
励まし合う隣人の女性も、惹かれる雰囲気を持っていましたネ。
 仕事の少ない貧しい時代、
結婚しそびれた女が自立していくことは大変難しい、生きにくい世。
 だからこそ、愛と希望を求め、すがり、
何度も何度も騙され金品を巻き上げられながらも、また騙される・・・・
 血のにじむ苦労で貯めた彼女のお金を、
悩みつつも奪ってしまわずにいられない貧しさに荒廃した男たち。
思い切りけ落とされ、どん底で泣き枯れて、
尚、しゃーないって笑って生きる女のしたたかさは
貧しければ貧しいほど、どこの國にも沢山あった気がする。
これほど透明感を湛える存在は こういう女性にしかないもの!!かもしれない。

 実は前日は、1947年黒澤明作品で「素晴らしき日曜日」ってのを観たのですが、
焼け跡もまだくすぶってる東京の若い恋人同士は
いい仕事もお金も、二人が暮らす家もなく、別々に居候している身。
たまにあう日曜日。ニヒルに虚無感を漂わす男に対して
今、今を明るく希望を持っていこうとする女を演じる若き時代の
「中北千枝子」がなかなか素敵でした。
 私の中では結構この二人(ジュリエッタ・マシーナと)がつながるんですよねぇ・・・・・
 泣くことや背中丸めちゃうことって、ある意味楽なのでは・・・・
笑うこと背筋をピンと伸ばす気持ちがいかにその人を救うか、
なんか改めて自分を引き締めた(!!のつもり!^_^;;)
古い作品ですがお気に入りマークの映画鑑賞でした。
 
パリでかくれんぼ

監督・脚本:ジャック・リヴェット/出演:ナタリー・リシャール/ロランス・コート/
マリアンヌ・ドニクール/アンナ・カリーナ/アンドレ・マルコン/ ’95.フランス

題名に惹かれて・・・・o(^-^)o・・・何かありそうでしょ?
パリの街で一人で生活する個性的で魅力的で、
一風変わった若い女の子3人が、交互に画面にでて、
ロランと云う中年の舞台美術家を接点に何となく交差していく、
ちょっとおしゃれな ものがたり。
何故かミュージカル調にシャンソン?で歌いながらセリフが回ったりもします。

ニノンは男と組んでスリのようなことをして生活していましたが、
別れて、バイク便の配達のアルバイトを始める。
気まぐれ気ままで踊りが大好きな女の子で、
あるときバイト先のレジが開いたままなのをいいことに、現金を半分近く抜き取ってしまう。。。

ルーヴェン・ルイーズは事故で5年間の昏睡状態から目覚め退院したばかりの子。
5年の空白を埋めながら、その間に亡くなった伯母の家に移り、
投資家のような仕事をして訴えられたこともあるような?
毎日電話をかけてくる父と離れて暮らしてみる。

イダ・マッソンは両親が里親であることから、愛情を感じつつも、
「おまえは誰か?おまえの体は?」と、ルーツにこだわり、
ラジオから流れた聞いたこともないはずの聞き覚えを体感する古いシャンソンに反応。
その歌手を捜す、
装飾美術館司書をしている子。

みんなそれぞれ状況も環境も違うけど、
わたしは何ものなの?と云う、自分探しをしている。

こう書いちゃうと身も蓋もないのですが、この辺の事情が、
少しずつ見えてくる場面運びがなかなかいいのです。(笑)

気むずかしく混乱しながらも、若い3人の女の子が青春を目一杯生きる様子を
軽妙に描き、
「僕だけが彼女を守れる」って思いこむ中年男ロランが
何となく浮いておかしくも、おしゃれに感じる、
華やかなパリというよりも
裏通りの普段着の、それでもやっぱりパリ〜〜って感じがあふれる映画。
 わたしは好きだな。                (2000.6.wowowにて)


 太陽は、ぼくの瞳  

  監督・脚本:マジッド・マジディ/
出演:ホセイン・マージゥーブ(父)/モフセン・ラマザーニ(少年)/
          サリム・フェイジィ(祖母)    1999/イラン/

  とにかく、映像の詩的な美しさと盲目の少年と姉妹、
そして祖母の存在が
見事に計算されとけ込んだ、
上手く言えないけど、自然界の持つ美と生きること
その重みを背負った人の
心根の凛とした透明感が、映像の美しをもって、リアルにマッチする素敵な映画です。

 北部の貧しい村から遠く離れた都会の全寮制の盲学校で
勉強していたモハマド少年に夏休みが訪れる。
次々お迎えが来てみんなが自宅に帰る中、いつまでたっても迎えに来ない少年の父。
 耳を澄まし、ベンチの腰掛け、「ア・・エ・・イ・・」とか声を出しながら
指先を動かし待つ少年。
(この彼の動作の意味が映像を見ている内にだんだんと解ってくる・・・・)
 その彼の耳に小鳥の鳴き声と巣からひなが落ちた音が・・・・・
 少年の指先は目であり触覚だ。
手探りで前に進み、そ〜〜っと落ち葉の下をやさしく探り続ける少年。
ひなを見つけたとき、雛の口に自分の指を這わせながらの歓喜の顔。
 モハマド役の少年が本当に全盲の少年だからこそ出来る心打たれる表情でした。
雛をワイシャツのポケットに入れ、何度も滑り落ちそうになりながら木に登って
巣を指先で探ぐりながらそっと戻してやった、達成感。
 自分は見捨てられるのではと云う不安=不信感を持ちつつ、
ジッと待つだけでない少年の心の動きが爽やか。
映像も少年に限りなく近づき、
見えない目で風を感じ、葉っぱのこすれる音を聞き、キツツキが木をつつく音・・・・・
そういう感じが私たちの顔面にも迫ってくる。
 ペルシャ絨毯の小さな織物や布地を持って売りついでに、いやいや迎えに来た父。
厳しい貧しい高地の村の炭焼きをしながら5年のやもめ暮らしの彼にとって、
目の見えない息子の存在は
自分を押しつぶす重荷でもある。
ギリギリの己の心の叫び(自分だって楽しみたい、笑いたい、妻が欲しい)は
息子の心の声を聞くことに蓋をしてしまう切なさ。
 帰る途中、休んでる川で冷たく澄んだ水の流れに手をつけ、
その感触と対話する息子の後ろ姿を見ながら、
突き落としたい衝動と戦う父。

 そんな彼らも父の炭焼き地から1頭の馬を借り、息子を乗せ、村に帰ってきた。
 中途で眺める村のある高地の山の美しさ!!
山を登る螺旋の細い道が何だか心打たれる美しさだ。
帰った彼を迎える姉と妹のあどけない歓び。
彼の手を引き走って畑の祖母に知らせに行く足取りのかわいらしさ。
 見事に綺麗に咲いた野草の花と祖母の顔が見る私の郷愁
(人としての原点の郷愁かもしれない)も誘ってくれる。

 点字を覚えることで己の世界を広め深めて成長するモハマドを見て、
もっと教育を付けさせたい祖母も、
ギリギリの生活の重みの中、自分の生活が欲しい息子を、
悲しい目で切り返すことしかできない。。。
 祖母のいない間に急いで息子を連れだし木工職人の盲人の下に
モハマドを預けた父だが、
祖母に死なれ、婚約者に約束を解消され、モハマドを家に連れ帰ることにする。
その途中吊り橋がくずれ、馬と息子が急流に流されてしまう。
 呆然と見つめ、とまどい、悩み、結局彼も「モハマド〜〜!!」と叫びながら
激流に身を投げ追いかける。
これはとてもリアルで、ビックリはらはらだったけど、これが必要な最後かどうか、
私にはよく解らない。。。

 この映画で初めて知ったのは
目の見えない人にとって、点字で心を反すうする作業が
いかにその心象風景を豊かにするものか・・・ってこと。感動でした。
 透明感あるこの映画は澱んだ現代人のそれぞれの心の澱に
一石を投げかけるものだと思えました。
    (7/1朝日シネマにて鑑賞)

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