板極道  
棟方志功著(中公文庫)

  先日デパートで行われた河井寛次郎&棟方志功展出口で買い求めた文庫本。
  明治36年生まれの棟方が60才の頃(70才で死去)刊行された彼の自伝です。
  自由人で奇人で天衣無縫でありながら、
出会う人たちに助けられ愛された人柄が文字の中にも踊るように感じられ、
いいものを読ませていただいたナァ・・・・・って、背筋を伸ばしたい感じです。(笑)

  棟方志功は日本の版画界に新境地を開いた
(本人は版画でなく板画=バンガという)
独創性のあるものすごい速力で筆や彫刻刀を動かす作家です。
青森の鍛冶屋の12人の子沢山の一人として生まれ、貧乏しつつ、周りの人に愛され、
 好きな絵で身を立てる気持ちを高めるまでが、
 特に、魅力的な文でした。

  序文を谷崎潤一郎が書いていますが、
谷崎の作品の「鍵」「瘋癲老人日記」の挿し絵を棟方が描いています。
その挿絵を座右において、
 時々開いてみては飽くことなく眺めているって書いてありました。
  その潤一郎が棟方を詠んだ歌・・・  
「眼病の棟方志功 眼を剥きて 猛然と彫るよ 森羅万象」
  私もテレビドキュメントかなにかで、ちょっと、
棟方の彫っている作業を観たことがありますが、
棟方が目の前に浮かんでくる歌ですね。

  彼は禅宗の信心深い祖母の影響(いつも祖母にくっついて出歩いたらしい)を
自然に身体にしみこませた人。 
  最初、洋画、油絵から入り、「雑園」で帝展に入選するも、洋画への疑問。
 『日本人の私は日本から生まれ切れる仕事こそ、本当のもの。
私だけで始まる世界をもちたい。こころの美、日本の魂や執念、
命がけのものをつかみたい』
 そう考えた彼は、昭和3年26才のとき、平塚運一氏の所へ版画(板業)を勉強にいく。
 『おごらず、てらわず、板画のやさしさ、親しさの中から本当の美しさが生まれる』
という信念で・・・・・

  心を打つものに出会うと、わき目もふらず、心をそこに寄り添わせ、没入し、
その真髄を己に内に取り込む力は
 やはり天才なのでしょうね。
 たとえば、最初22才の時。
青森弁護士会の全員のカンパと次兄と米屋の伯母の仕送りをうけ、
青森日報社の福岡氏に、当時の洋画壇ボスの
 「中村不折」先生への紹介状をかいてもらい、上京し、先生を真っ先に訪ねたときです。
 御妹さんより「あなたのような紹介生がぜんこくからいっぱいくるのよ」って
 玄関払いされるのですが、その時、その邸宅にある書道博物館に入り、
部屋の真ん中に横たえてある石像
 (首も腕も足もないギリシャ彫刻の女の臥像)に驚嘆。
吸い寄せられ、声をあげ叫びだしたい衝動に駆られる。
  その時、『絵の勉強というものは人の言葉や情では得られない。
あなた自身が先生になり弟子になること。
絵は口を利くものではないから心を聞かなくてはいけません』といってるように聞こえ、
この石像が最愛の慈愛をもって東京第一歩を迎えてくれたと、後々、入選したときも、
 この像の前に報告に来る。
こう云うように、なにかから、あるいは出会う沢山の人の姿や言葉からよいものを選び、
 自分のものとする姿勢にとても真摯です。
  ほんとうに、爪の垢ほどでも、見習いたい、
今の時代にも通用する大切なものだと思う。
  うれしいとどんな大先生にも幼児のごとく抱きついて気持ちを顕わにする所が
きっと愛された所以でしょうね。
 そんなふうに、大胆さと繊細さ、豪放さや無垢な姿を思い浮かべ、
また作品を眺めてみたいと思う、そんな自伝でした。
 


不倫と南米 
吉本ばなな著/幻冬舎

  たまたま本屋を覗いたとき、
表紙の装画(タンゴダンスを踊る南米っぽい濃い絵)が目に入った。
 そうそう、先日の新聞の書評に
「ばななさんの一皮むけた短編集」って書いてあったなと手に取ったら、
絵と写真がいっぱいで、楽しめそう・・・・って買っちゃいました。(笑)

 アルゼンチン(ブエノスアイレス)を舞台に交差しない旅行者たちの7話
(電話、最後の日、小さな闇、プラタナス、ハチハニー、日時計、窓の外)が
収められています。

 旅行しながら、カメラマン、イラストレーターと物語を紡ぎ出すなんて、
なかなかおしゃれな企画で、そうやって書けるばななさんも成長しましたね。
 南米の香りもちょっぴり嗅いで、ワインが美味しくなるような、行ってみたくなるような、
人のあったかさを感じるようなお薦めの一冊です。
 7話のうち、私のもっともお気に入りは、「小さな闇」です。
 ブエノスアイリスまで、観光でも出張でもなく、
大好きなクラシックギターを買いに来た父。
それに3年前、癌でなくなった母。映画で観た「エビータ」の墓を一人訪れながら、
その静かで広い墓地の中で、死者に近づき、心を泳がせる娘。
『平和すぎるほど平和なわたし(娘)の家族の小さな闇が、
この墓地にある静けさと同じくらい
歴史を秘めて豊潤なものだった』
 そのように語る健康な娘心を、“EVA PERON”と書かれたエビータの墓写真や、
マリアや十字架でデフォルメされた納骨堂や建物付きの墓
写真と併せ南米の風や陰影を感じながら楽しめる小品です。

 通勤の途中で1話ずつ楽しむもいいかもしれませんよ。(笑)

 ダロウェイ夫人  
ヴァージニア・ウルフ/丹波 愛・訳/集英社

 
今から75年前=1925年、58才で入水自殺するウルフが
その16年ほど前に書いたもので、
訳もよくて、気に入った本です。
 42才のウルフが52才のダロウェイ夫人を創作し、
20世紀初頭のイギリス上流社会の華やかさとかげりや、
第一次大戦後の精神疲弊などを、
多様な人物が交差するロンドンのリージェント公園と
ダロウェイ家のパーティーに集まる人の人間模様を織り交ぜ、
内奥する精神世界に生きた作家の瑞々しい言葉が踊る作品です。

 当時の6月の新緑まばゆく、日が長いある一日の早朝から夜のパーティーまでを
時間の経過と共に
またそれぞれの人間の過去の追憶を
今日の今の「瞬間=とき」に重ね合わせたりしながら、
人や時間や想いが錯綜してなかなかおしゃれな構成です。

 華奢で美しく、素敵な装いの出来るクラリッサ・ダロウェイ。
リチャードという温厚で下心なく行動する保守党の政治家である夫と
数人の召使いを持ち、
彼らや犬たちにも思いやりの態度で
接しようと心がけながらも、生活の真ん中にぽっかり空虚があるような心の苦しみ。
 少し前、猛威を振るったインフルエンザが元で心臓を痛めたこともあり、
気遣う夫に寝室まで別にされ、狭い静かなしわ一つないシーツの掛かったベットが
クラリッサの生きることのむなしさを助長させ、ふと、
18才の頃の、恋人ピーター・ウオルシュから今の夫リチャードに
心を移し替えた頃を懐かしんだりする。

 一方、公園近くを妻と散歩するセプティマス・ウォレン・スミスは年の頃30才。
青白く神経質そうで、若い妻は、はらはら孤独に付き添う、ホントは陽気なイタリア人だ。
「僕は自殺する」と云う言葉と訳の分からないつぶやきに、相談する人もいない外国で、
医師の薦めにしたがって気持ちを外に向けさせようと、辛い試練に立ち向かっている。
 セプティマスは世界大戦で戦死した大好きだった上司の死に、
動かせなかった己の心に苦しむ「戦争神経症」である。
 にもかかわらず、医師は気の持ちようとして、彼を理解しない。
 セプティマスの苦悩はウルフの苦悩でもあったのでしょう。
 公園で、あるいは自宅のソファに横になって語る彼の言葉はどれもこれも透明で深い。
 たとえば:
  神々しい慈悲心、恵み深さ、僕を容赦し、僕の弱さを赦した。
僕は休息しながら待っている。
人類に対し再び深遠な事実を伝えるその時を。
  僕は高いところに横たわり、世界の背に乗り、大地は僕の下で振動している。
赤い花が肉体を貫き葉が頭の辺りで音を立て、
  音楽がここまで登ってきて岩にぶつかり音を立て始める。
車のクラクションが岩にはねかえり、分かれ合一し円柱となり賛歌に変わる・・・・

だからこそ、本当に死んでしまったこの青年に対し、ダロウェイ夫人を通し
ウルフは
  「思いがけず何かの事故の話を聞かされるとまず体で感じてしまう。
ドレスが燃え上がり、体が焼ける感じ。
  死は挑戦だ。死には抱擁がある」
  「威圧するやつらが人生を耐え難いものにする。彼がそうしたことを、
命を投げ出してしまったことを嬉しく思う」なんて吐かせるのだろう。

 も一人わたしがハートをドキドキさせた人物。
 「ミス・キルマン」
 ダロウェイ夫人の美しい一人娘、エリザベスの歴史の家庭教師をしている。
見かけはダロウェイ夫人と正反対。
 自尊心が傷つけられるほどの貧乏と不運を前に、力と沈黙で立っている
偏屈になって苦しむ女性。
ダロウェイ夫人を
「愚か者!間抜け!悲しみも歓びも知らぬ者!人生を無為に過ごす者!」と
こき下ろしながら、
ちっとも幸福でない自分の憤怒を神に祈ることでおさめている。
 無神論者のダロウェイ夫人もキルマンを
「娘を宗教に引っ張り、自分を無能者として見下す平凡で醜い女」という憎しみの心で
見つめている。
 このどこまでも交わることのない二人の女性の苦悩を客観視することは出来ないな。
 人生は屈辱と断念であり、年を重ね、ものを観察することも悪くはなく、
あるがままの人生の受容も今を生きること。
 
 この作品、数年前に映画化されており、7月くらいにwowowで
放映予定があるらしいので、
ちょっと楽しみにしています。

 十二の遍歴の物語  
 G・ガルシア=マルケス著/旦敬介訳/新潮社
 
 蒸し暑くって、だるくて、眠くて(^_^;;*)・・・・
 そんなとき、ちょっとピリッとエッセンスの効いた短編集って楽しいです。
 この「十二の遍歴の物語」は、様々な事情、理由で ヨーロッパに来た
ラテンアメリカ人の身に起こる
奇妙でちょっと異空間的なお話集です。

 発想が新鮮で翻訳物でも言葉がおもしろい。
 あの例の「百年の孤独」の作者ですが、脈々とつながっているテーマがありますね。
 「自分の魂を売らないで生きる」・・・・・簡単そうでとても難しい・・・・
あふれかえる情報化社会で、
どっか一点でいいから、わたしも安売りしない
心を持ち続けたいな。。。o(^-^)o

 一番始めの短編。
 「大統領閣下、よいお旅を」 

 コロンビアの ころころ変わる政権の ある一人の失脚大統領。
 カリブ海に浮かぶマルティニーク島に逃亡し、14才年上の妻と
細々と暮らしていたが、
その妻も亡くなり、最近、どこと特定できない体の激痛に不安になり、
痛みの原因を調べにジュネーブまでやってきた。
 ジュネーブは数多くの著名人が人知れず暮らす都で、かれもまた、
「我が生涯最大の勝利は人から忘れられるのに成功したこと」
「自分はわが国が生んだ最低の大統領」
・・・そういう思いを反すうする、悲しみと気品を背負った初老の男だ。
 オメーロは、同じ郷里出身でずいぶん前、ジュネーブに来て、
いまだうだつの上がらない病院救急運転手だ。
 堅実な妻の支えの下、このお忍びで検査に来た元大統領に近づくことで、
いくばくかのお金(仕事)が手に入らぬものかと、頭を巡らし、
密かに彼をつけて、観察していた。

 そんな大統領とオメーロ夫婦の、次第に出来ていく異国での不思議な、
それでいてしっかりした心の繋がりが
何とも云えず、あったかい。
 おろかさ、弱さと共に、したたかさ、残酷さ。それでいて、何ものにも負けない
強さと思いやり。
オメーロの妻ラサラの根っこの太い目。
  「強い男っぽい、そうした神から与えられた力を、見せかけを繕うために
すっかり無駄にしてしまった」。
  「くそったれ あの哀れなじじい あんなひどい人生なんて!」
そういいながら、付き添い看護婦代節約のため、自らが泊まり込んだり、
マルセイユから船で帰国する彼のため
子どものための貯蓄をおろして出してあげたり・・・

 「我々を救いうるものは何もない」
 「敵と敵の間に生まれた子どもたちの大陸。
混血という言葉は、涙を 流された血と混ぜるという意味。
  そんな混ぜあわせからいったい何を期待できるというのか?」。
こんな老いた悲しい大統領が自国でもう一度改革運動を考えるのは 
彼女の魂のおかげ?

 この他、「聖女」「ミセズ・フォーブスの幸福な夏」なんかがとてもおもしろかった。

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