ベロボディアの輪(シベリア・シャーマンの智慧) 
オルガ・カリティディ著/菅靖彦訳/角川書店

 ロシアの若き精神科医である女性(オルガ・カリティ)の
尋常ではない体験(心の宇宙から古代へワークし、接触や治療をする)を通し
ヒーラー(治療家)へと、自己形成を深めるシャーマン学習。
 心の癒し旅とシャーマンとの関わり、精神科医としての仕事等を書き記した、
えっ、ほんと?の、不思議に惹きつけられるノンフィクション。

 自分の心を真摯に見つめ、集中力のすごい彼女。
 精神科医という職業において、
患者の精神を正常に戻す薬も医術も即効性の手術の方法も存在しない
欠如感、無力感もあった。
 両親も医師。父方の祖母も医学博士でありながら、
カークスにいる母方の祖母の宗教行事的雰囲気にも触れて育った下地もあり、
時間や空間の境界を突破して数千年前の古代の儀式やセレモニーからも
学ぶ力と向き合う機会を得た。
 そんな彼女が、先住民の儀式や治癒の儀式について学び、
それらを従来の治療法にとりいれることによって新しい形態の治療法を
見いだし、成果を上げ、自己形成を深めていく。
 アルタイの村に住む老婆シャーマン「ウマイ」とオルガの厳しくも深い信頼関係。
そして何としても伝達したい
古代からの叡知。
そのギリギリの交流の様が夢のように伝わって来て、その体験が解らないなりにも、
あったかい流れのように感じて不思議です。
 オルガが感じる聖なる知識への渇望は、すべての人間のこころにも 
埋もれている衝動でもある。
 誰でも磨けば持っているはずの心の宇宙!
そう云われるとワクワクドキドキするけど、その感覚・脈動を実際体験することは
難しいでしょう。
 だからこそ、シャーマンの「ウマイ」の言葉。
    「わしらは身体を持ってこの世に生きている間に、二つのものを
作り上げる仕事をゆだねられている」
    「第一はわしらが住む現実を作り上げること」
    「第二は自分自身を組み立てること(内なる自己の探求)」
    「この二つのバランスをとって(自分自身の現実を組み立てる大切さを
受け入れる術を学ぶ)
     外の世界との仕事を探求する」
 
 自分なんか、もう人生を半ばうっちゃってるような、気力的体力的にも、
もう、自然体で行こうかなって、力を抜いてさぼり気味の
心根に、この「ウマイ」のことばが、何となく、心に突き刺さります。
 それにしても、シャーマン的日本人も どこかにいらっしゃるのでしょうか??


ゆめはるか吉屋信子 
上・下/田辺聖子著/朝日新聞社 

 多感で純粋な少女時代の感性を終生大事にし、
少女たちにエールを送り続けた作家「吉屋信子」
 戦争中、女学校生時代を送った田辺聖子は、彩りも夢も希望もなく、本も少ない中、
後生大事に「吉屋信子」の
少女小説を抱えて空襲時に避難をした人。
 そんな田辺聖子の想い:
 「デビュー以来一貫してかわらぬ信子の、女性擁護、女人賛美、男権思想への反発。
女・子どもの読む通俗小説という、
その印象だけで通俗小説研究を怠り、侮蔑してきた
高慢な従来の文学史を今こそ改めるべきではないか」

 田辺さんのその思いが深く感じられ、
また大正・昭和の混乱期の手紙、雑誌類を丁寧にしかも
膨大な量を調べられた様がよくわかる。
また、当時の文壇界の人模様(相関図??)や
時代の尖兵として文学が存在していた当時の様子がわかって、
大変おもしろかった。
 近々是非図書館で「吉屋信子全集」を借りてきて是非読んでみようと思いました。

 ***吉屋信子の「花物語」 <少女画報連載は大正5年〜13年> 
初版:大正9年/5巻57編/
     田辺聖子によれば、
    この物語が多くの少女たちに喜びで迎えられた手近なわけは、
    <少女が主人公であり、しかも近代的知性と感性を有する少女であったこと> 
    <高等女学校が良妻賢母を指導理念としていたとしても、
     女子学生の抑えかねるエネルギーは、新しい時代の波動を敏感な肌に感じ、
     よく効く鼻で社会の陋習や旧弊をさぐりあてた。
     そういう彼女らの正義感に、吉屋の「花物語」が
     共鳴した。
 吉屋信子自身、女学生時代から少女雑誌への投稿マニアで、
多く採用されるうちに名前を少しずつ覚えられ、
上京し、作家として育っていった人である。
 個と個が対等に理解と愛を共有することを主要テーマに、
異性愛よりも、女同士の友情、愛に主眼をおいて、
誰も踏み込まなかった分野を考え実行した人でもある。
 吉屋自身<清新な家庭小説><女のあらまほしい生き方、好もしい女人像>を
描くことにすべての力を注いだと云っている。
 大正の文学界のアナーキー思想やプロレタリア文学等に組みすることはせず、
文学仲間とわけ隔てなくつきあい、人当たり面倒見もよい人だったようである。
おしゃれで長身。断髪の頭に洋装(カッターにネクタイなど・・)

女性記者の金子しげりの女学校時代の同級生で、女学校の教師をしていた
3歳年下の門馬千代とは、
終生人生を共にし、支え合った。

 この時代の有名女流作家「田村俊子」「松井須磨子」「岡本かの子」「野上弥生子」
「宇野千代」「平林たい子」「林芙美子」「中条(宮本)百合子」「三宅やす子」「壺井栄」
「与謝野晶子」「佐多稲子」・・・・・・
いっぱいいろんな名前が出て、あっ、この人と
こういう交流やエピソードがあったんだって思うと
なかなかおもしろくて、
またゆっくりいつか、その人たちのも 読んでみようと思ってしまいます。

 百年の孤独  
G・ガルシア=マルケス著/鼓 直訳/新潮社

 南米コロンビアの「とある 若者何組かの家族」が
新天地を求め長旅の果て、「マコンド」という村を作り上げた。
 その最初の長とも云えるホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ夫婦から
6代で消滅するブエンディア家をおいながら、
作家自身が小さい頃、祖母より聞いた民話(寓話)をからませている。
歴史と空想(幻想)の世界が妙にマッチして
惹かれる小説です。
 占いや魔術が活きているよな、超自然と生の懸命さがミックスされたような
不思議さもあります。

 ラテンアメリカでは、この登場人物の一人一人が
読者自身と重なったり身近な誰かと重なったりして、圧倒的人気で読まれた
黙示録的作品みたいです。
 わたしにとって
「アンデス、コンコルドの音楽、高い山々、コーヒー、移民、ゲリラ、植民地・・・・・」
そんなとぎれとぎれの言葉だけのイメージが、
おぼろげにも、なぁんとなく1つの線につながった作品でした。

 ホセ・アルカディオ・ブエンディアは仲間の信望厚い、賢者ですが、
新しいもの不思議なもの好きで、常に開拓、冒険、
発明の妄想、悪夢にとりつかれたような男。
 その男といとこ同士で結婚したため、まわりの親戚から
「豚のしっぽのはえる子どもができる」と忌み嫌われ、一緒に流れてきたウルスラ。

 彼女は夫の奇矯な振る舞いにカッとなりつつ、夫そっくりな子どもや孫に、
数限りない犠牲を払いつつ、
「まぁ、見ておいで。よそではみられないくらい、この変人ぞろいの屋敷を、
立派な、誰でも気楽に訪ねて来れる家にしてみせる」
 そのたくましさで100歳以上をボロボロになって生き延び、家系を憂うのですが…

 現実と非現実が巧みに錯綜し、奇怪な雰囲気ながら、それぞれの人生が、
妙に迫り、胸が痛くなる。
 子どもや孫が代々同じ名前を付けたりするので
家系図を横に置いて読まないと、混乱しますが、
3代目のアルカディオ(政治の左右抗争で銃殺刑死)の、
惨めな人生から救ってくれるのは軍服に象徴される権威と尊敬という、
孤独さも印象に残りました。
 お腹の中ではいろんな想いがうずいていますが、上手く書けない。
 ラテンアメリカの人って陽気かなって思ってたけど、
植民地時代と内紛時代の深い傷が心底を被ってる感じがしました。
ジプシーのメルキアデスも深い・・・・・・

夏の約束
藤野千夜著/講談社

 いい作品よ〜〜。
これこそ究極の優しさよ〜〜って、一人わめいてますが(笑)
なかなか同調者が現れません。^_^;*)
 めげずにお薦めのわけ:
 @まず集中すれば、1時間ちょい位で読める。
 A文が大変平易で読みやすく、あったかく、そして引き寄せられるものがある。
 B若い人たちへの、身を切って等身大の血を流している彼のメッセージが聞こえる。
   (肩の力を抜いて少し下がって斜めから眺めれば、違う生き方もあるよ・・って・・・)
       
 ・・・・・もはや マルオには、太っていない自分というものがあまり想像できなかったし、
太っていない自分が果たして幸福かどうかもわからなかった。
以前、社内の小用トイレで隣り合わせた全然知らない年輩の人から、
デブは自分に甘いからダメだよ、
といきなり脇腹をつつかれたときも、そうですね、そうかもしれません、
と大きくうなずきながら答え、事実そういう面はあるかもしれない
と反省したものの、やはり本気で痩せてみようなどとは微塵も考えなかった。

 書き出しに近い部分のこのマルオの描写を読んだだけでも、
彼のナイーブさと堅固さが見えます。
 マルオの恋人ヒカルも親友「たま代」も生まれつきの女の人ではなくて
男性から女性へのトランスセクシュアルである。
 美容師であるたま代は犬のアポロンを等身大の生き物として可愛がっている。
マルオのアパートの1階の岡野さんは好きになった男に実は妻がいるのがわかって・・・
そして、OLののぞみに菊ちゃん。
菊ちゃんには嘗て仲良し学級に通っていた兄がいじめられているのを助けたくなかった
自分に対する負い目を背負っている・・・・・・
 そんな彼らがロンドのように少しずつお互いの大切なハートを寄せ合いながら
「みんなでキャンプに行こう」という、
実現するのか、させたいのか、わからないような計画をたてている。

 ゲイカップルであるマルオとヒカルへの世間の風当たり。
塾通いの小学生の「すげぇ・・・ホモデブゥ・・」
「あのうち八割はそのままおとなになって、一生誰かを笑っていくんだね」
でもたぶんヒカルだって、人を差別したり見下して笑っている。
無言で心の感情と向き合うふたり・・・
ゲイのマルオたちへの距離の取り方を自然に持っているのぞみちゃんたち。

 会社のトイレで見つけた落書き=松井ホモ。
何だか懐かしい響き。社会人になってもそんな幼稚な落書きをする人間がいるかと思うと、
マルオは不思議と生きる勇気が湧いてくるのを感じる。
 会社員としてきちっと仕事をこなしつつ、
ヒカルからの電話に世間から剥離された感覚の中に降りていくマルオ。

 岡野さんがマルオに笑いかける。
「マルちゃんにとっては、彼は彼氏なの?それとも彼女?」
「彼氏っしょ、そりゃ」「いやあん」「俺は彼女」とヒカル・・・・
こういう会話、わたし好きです。^_^;*

 特別作為的につくられたわけでも、社会への怒りを顕わにしているわけでもなく、
まして諦めて、裏道を歩こうって感じでもなく、
自然に自分らしく生きていこうよ、係わっていこうよって感じの
湯舟みたいな小説やナァ・・・^_^;*)

 意識してるにしろ、無意識にしろ、戦後民主主義・平等主義の中、
感性までが どこか一定の枠の中で、窮屈にあがいている部分があるような気がします。
まっとうに人生を生きること=みんなと、あるいは皆がおなじ人生を歩むことではない。
 こんなアタリマエのことが、
いろんな足かせに引っ張られて出来ない。視えない。

 軌道から外れて、はずれちゃって、はずされちゃって、あ〜〜〜ぁって肩の力抜けて、
やっと自分の&他人の心のひだが視えてくるような・・・??
それが真実のような気がします。

「わたしの可愛い弟よ^_^;」ってまなざしで読むと、
なんだか、彼の精一杯のメッセージがこだまして聞こえる。
いい作家になってほしい人です。
次作か次々作あたりを期待してみたいです。

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