1931〜1932の復元完全版 アナイス・ニン著 杉崎和子訳 /角川文庫 アナイス・ニンについて: 1903年、フランス生まれ。 幼少の頃から作家になることを自覚し、 11歳から74歳でこの世を去るまで3万ページを越す量の日記を ほぼ毎日書きつづった人。 いつも日記を手にしていないと、落ち着かなかった人。 1931年、処女評論「D・Hロレンス論」1936年、小説「近親相姦の家」等も 出しているが、 1970年頃、アメリカのフェミニストたちに アナイスのそれまでの出版された日記の一部が絶賛され、注目された。 【愛する日記よ。あなたを創造したのは、 友だちが必要だったから。 これはわたしの麻薬、悪癖。現実に背を向け、それが投射する映像。 夢に閉じこもることができるわたしの生を夢の中で生き直す。 夢が生。現実、真実への渇望】 アナイスの日記が一部注目された背景は、 一人の女が、どん欲に自分自身になろうと前進、未開の感覚、感性を ひたむきに探っていった様が 驚異を持った共感を呼んだのだと思う。 今の時代に生きる私たちが読んでも、神経症的完全主義を感じながらも、 ここまで己に執着できるうらやましさと、ほほえましさと、共感を感じる日記である。 まれにみる美女で聡明で神経症のアナイスは、 彼女を心から大切に思う幾人もの人の愛にもつつまれていた。 ================== 文豪ヘンリー・ミラーとその妻ジューンとの付き合いを中心に、 心の葛藤やあるがままの自分とヘンリーをあますことなくせきららにつづった、 修正カットでない、復元版です。 ================== 1931年10月:私が今必要としているのは人生の智恵者、 私よりも強い男性、なぜって、ほかのものは、みんな、自分で創り出せるから。 激しくこの人生を生きて成長していきたい。物を書く仕事も怠らず、 夫、ヒューゴーへの愛も枯らさず、 私自身の生命も、まっとうしなければーーー この様な書き出しで始まる、アナイス・ニンの内面世界の探索だ。 12月:ヘンリーミラーに逢った。 D・Hロレンス研究出版契約の相談で来る弁護士と一緒に来て、 初めて見て、いいな、同類の人間だと思ったアナイス。 アナイスの心中でくすぶる毎日の中での渇望感が 動物的・野性的なヘンリーへの興味を抱かせたのだろうか。 二人はぐんぐん接近していく。 そんな中、自分の気持ちの深淵を覗き、心が欲するがままに行動していくアナイス・ニン。 つまり、ヘンリーが持っていて、自分の世界が持ってない物= 彼の生きる下層世界、波乱、みだらな夜、快楽の追求、好奇心、浮浪生活、 相手を選ばぬ付き合い方。 そういうものが新鮮でぐんぐん惹かれるアナイス。 女性に対してひどくエネルギッシュなヘンリーも、 ぬきんでた美しさを持つアナイスに出会って、近づかないではいられない。 そして聡明で華奢で裕福な彼女のもつ、内面のとどまることを知らない好奇心と欲望、 対等な議論もできるアナイスに驚きながら、のめり込んでいく。 そのさまが、なかなか読んでいてエロチックでわくわくします。 養分を与えあう感じの二人がとても新しくまぶしく感じる。 一方、ヘンリーの妻、ジューンは、 奔放な、見とれるようなくっきりとした美女。 ヘンリーを内面から支えるタイプでもなく、内省するタイプでもない。 男の情熱をかき立てる女として、一目見たときから、 ジューンに惹かれるものを感じるアナイス。 ヘンリーも彼女の前では、ただの情けない男のなってしまう。 ジューン自身もヘンリーに理解されないいらだち、 心の傷を抱え、美しく聡明なアナイスに強く惹かれていく。 誰かを切り捨ててつかむ幸せでなく、 どろどろと、お互いを巻き込みながら尚必死でよじ登っていくようすが、 克明に描かれおもしろい。 ただ存在する人間としてだけでなく、 創造者として、冒険者としても生きたいという、強い希求を、 当時の女性の何人が持ち得たのだろうか。否、その後も今も....。 {妖婦ぶるのは止めた。ありのままに自分が愛されてると思う。 内なる私が、書くことば一つ一つが、 私の小心さも、悲しみも、もがきも、欠点弱さ含めて前存在がヘンリーに愛されている。 私のヘンリーへの愛は性的な愛。 でも、その人間らしさ、感受性の鋭いところ、優しさと粗暴さ、善人と悪魔、 敵意と憤りの核、そのすべてを私は愛している。 孤独と内省と仕事だけの人間なんて、つまらない。 人生を楽しみたい} ********************************************************** そんなに深く考えず、読むだけでもおもしろいです。ある一人の女性の真実ですから。 他の時代、たとえば十代のアナイスの日記も探して読んでみたいと思った。 独り言:美しいって得やナア..。 (10/10記) |
1950年3月生の詩人の第一号自費出版詩集です。 決して器用に生きてこなかった?自分のこころの声を聞き続けてきたひとのようです。 書評本屋 「厳選館」 さんからのご紹介で購入し、読ませていただきました。 50に近いおじさんが、同人誌の時代からずっと書きつづっていることが新鮮に思えたし、 変遷を覗いてみたい気もしました。 おまけに自費出版と聞けば、それだけでも応援したくなっちゃいます。 で、変遷が解ったかって? 基本線は変わってないのではないでしょうか? 変わるのも人間、変わらないのも人間、その幅の中かしら。 「悲しいときには悲しい顔を!疲れたときには疲れた顔を!」ってメッセージ。いいな。 ことばとしてはわかってても日常出来ないし、そんな感情に気づかないふりを 自分からしちゃってる。 だからこそ詩人が存在するのでしょうか?????? わたし自身、同じわだちの上をいつまでもとぼとぼと あるいているようなきがして。 なんで越えられないんだろうって。 人生は案外つまらないと思ったり、出来るだけよくばろうと思ったり、 でもどこかで袖を轢かれ、あるいは自ら引っ込んでしまう。 サブタイトル「時計台」1982年〜1994年の頃の作品には ことばの使い方が私には難しくてなじみにくくって、ちょっと読んだだけでは 響いてこないものもありますが 何回も読むと奥行きが解ってきます。 「回転木馬」1976〜1981年の頃のは、ちょうど、堀場さんの内なる転機の頃かなって 思った。 堀場さんが根底でとらえてる歴史観 「僕らは、僕ら以前にこの地上に生まれ、生きながらえた人たち、 そして現に生き続けている人たちから 途方もない恩恵をこうむっている。 おそらく歴史の意味とは、そのような無数のひとりの人間の歴史以外の 何ものでもないだろう」 に とってもうなずくものがあります。 自分という存在の全生命を詩の中に投影する堀場康一と云う人を あれやこれや想像しながら(ここに書けないことまで広く、でも愛をこめて) 短いことばの世界に漂ってみるのもいいです。 魂の彷徨??存在のもがき??手に取れるやさしさ?? あるがままの自分の肯定??気取りを取れ!! う〜ん、むつかしいな。 作品の中で、詩として一番楽しめたのは 「コロッセオ」かな。 たまたま、雑誌でイタリアのコロッセオ(年代物の大きな競技・鑑賞スタジアム)を 見たことがあって、あの大きな円形の世界遺産のような建築物が脳裏にあったから。 ひらひらと木洩れ日のようにただよい からからと登り窯のようにくぐり抜け ↑この出だしの2行がとっても気に入りました。 あと、「忘れかけたときめきが天井画に映り」や 「誰も気づかぬうちに飛行船は次の空中桟橋へ旅立つ」なんてことばも、 想像力が広がります。 表題の「ボストンバック」の 自分の面の皮をはぐ でも残っていたのは俺自身 ってのもいいですね〜。 回転木馬からは、長めの詩ですが、「だぶだぼ」が好きです。 ふたたびふる里(名古屋)へ帰ってきたときの心情が 等身大の雰囲気で感じられ、最後の、3〜4行まで読んで、 「だぶだぼく〜〜ん」って呼んでみたくなる *****だぶだぶでもだぼだぼでもなく *****だぶるすでもだぼはぜでもなく *****だぶだぼと呼んでくれ ぼくのことを |