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□失われた十年□

 日経新聞が「1990年代は日本にとって失われた十年」と言って,不景気と対応の不味さを見出しにしています.そろそろみんな気づき始めているのに言わないのは,日本にも景気が良いのだけれども他に気兼ねして大声で言わない業界が少なくないことです.

 IT関連なんて,景気が良すぎて残業はもちろん,お客さんはいるのに取りこぼしている仕事も少なくありませんし,やる仕事も時間をかけずにおざなりになりがちです.この業界はパソコンが使えれば入れるというわけではないために,教育投資をする気がある体力のある企業か,自分で技術を身につけて転職するような人材でなければ活躍は難しいのかもしれません.これまでミドルと呼ばれてきたホワイトカラーの中間管理職がリストラされてから参入するのは難しいのかも知れません.

 日経新聞が「失われた十年」と呼ぶことに対して,ある程度は同意します.じり貧の状況悪化に対して手をこまねいていたために起きた失われた十年であったのです.ラディカルな変化を避け続けた結果が,よりラディカルな変化によって打開しなければならない閉塞状況を生んだのだと考えます.スキーで中級者がよくやりがちなミスとして,山頂まで登ったために必ずどこかで急斜面を滑走しなければならないのに,緩斜面を選んでいるうちに自分の能力を超える急斜面に出くわしてしまうことがあります.モーグル用なら凹凸がありますので,おそるおそる時間をかけてりることもできますが,急斜面の圧雪されたバーンなら降りる手段を失うかも知れません.こんな状況に似ているかも知れません.後者ではけがの一つや二つは覚悟が必要です.

 では,ラディカルな変化を避けてきたのはいったい誰なのか?

 それは,社会全体なんだとしたり顔で語るのは簡単ですが,天に唾する行為でしかありません.そう言っている自分自身が社会の一員であり,ラディカルな変化を避けてきた責任の一端を担っているからです.逆に社会連帯は十分に自覚した上で,共犯意識の中で責任逃れをしようとでも言うのでしょうか.

 やはり社会の一員である市民の一人一人が内外に対してラディカルな変化に積極的に向き合うことが,社会全体の流れも変えていくのだと思います.国が,政府が,政治家が無能だから駄目になったのだではなくて,自分自身を写す鏡でしかない彼らを制御するには,自らの生活の場から変化に向き合う姿勢が必要なのです.

 「資格を取っておけば大丈夫」,「英会話学校に通ってるから転職できる」,「今の上司は私をひいきしてくれる」,このような全く支えともならない拠り所にしがみつくのではなく,起きている変化は何であって,そこに自分はどのように具体的に対処するのかを意識していくことこそ,最初の一歩となると考えます.

 現在,IT業界で好景気を謳歌している人々は努力して勝ち取ったポジションかもしれませんし,偶然の産物かも知れません.ITが単なる電話と化す日も近いですから,その後の飯の種を今から意識しておく必要があります.マスコミはバイオだと言っていますが,製薬関係ではもう何十年も前からバイオですし,ヒトゲノムに予算をつぎ込むためのバルーンに飛びついたようにも見えます.バイオだけでは社会は成り立ちませんし,病気を治すことだけが目的ではなくて,さらに治ったあとの社会生活が重要なのは言うまでもありません.

 「失われた十年」の次に「実りある十年」にするためには,市民の一人ひとりの変化に向き合う姿勢がより重要になってくるのだと思います.


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