「今こそ学校給食を豊かにしよう」


□1999年10月9日(土)14:00〜16:30
□岡山市勤労者福祉センター
■ 基調講演■
「これからの学校給食に求められるもの」
新村洋史 中京女子大学助教授(教育行政学専攻)


 皆さんこんにちは。新村です。40分で話しなさいということですので、言いたいことがいっぱいあるので40分は短いなと思うんですけど、なんとか大事なことを言い切るようにしたいと思います。お話しはレジュメというか、簡単に書いた紙がありますね。これを見ながら進めたいと思います。これからの学校給食に求められているものというふうに題が書いてあります。中身にかかわることですので、少し今皆さんのお話を聞きながら頭に浮かんだことをちょっとお話しさせていただきたいなと思います。

文化水準・行政水準を低下させるな
 ひとつは、学校給食の問題というのはその地域の人々なり、あるいは教育行政なり、市政なりに当たっている人々の「教養」と言うものを示すものでないか。あるいは、文化水準とか民度と言う言葉が、民度というのは少し古い言葉でありますが、文化的な程度って言うのでしょうか、人間的感覚って言うんでしょうか、そういうものを計るようなものかなと思っています。知的に洗練されてるっていうんじゃなく、本当の意味で人間らしい感覚、あるいは民衆の普通の人々の苦労している、あるいは努力しているそういう感覚っていうのが分かる行政であるかどうかっていう、そういう所を計るものさし、試金石あるいはリトマス試験紙、そういうものだと思うんです。
 さっき司会の方が紹介してくれましたが、1990年代になってから2回ぐらい岡山に来ました。そのとき、岡山の給食の実情とか市政の現状とか県政とか、チボリ公園がどうのこうのとかそういう話を聞きました。まだその当時の岡山市は文化水準は高い方だと思いました。特に岡山市の給食の制度とか調理員の全校配置とかいうふうなことを考えますと、これは全国的に非常に水準高いですよね。トップレベルです。ですから栄養士さんたちも本当になんていうか、大らかで落ち着いてますね。まあ何もかもが豊かだそうで、気候も温暖で、みんなおっとりして落ち着いて学校給食の仕事をされてるなと思いました。けれども年が経るにしたがって、岡山市は豊かであるっていう神話が崩れてきたんじゃないかなと思いました。
 まずショックを受けたのは1996年5月の、例の邑久町に始まるO−157事件ですね。あれは、岡山でどうしてそういうことが起こるんだろうと、非常にびっくりしました。でも給食センターでやってるということで、まあそれも必然性があったのかなというふうに思いました。
 そして、今回のリストラの動きです。学校給食を見直す、見直すって言うのは良い方に見直す訳じゃなく大体悪くするっていうことですからね、大体廃止するとか止めるとか悪くする、学校給食を民営化するということです。そのリストラの話を聞くと、言ってることがもう言い古されて時代遅れになったことを平気で言ってる訳ですね。給食は年180日しかないのに、調理員さんの給料が高いのなんだのかんだのと、そういうのは非常に古すぎます。これでもって文化水準というか教養の程度、これが非常に低いんだと、ますます低くなってるんだなと、私は率直に言って、まあ乱暴な言い方かも知れませんがそのように思いました。

国・自治体の失策で子どもを犠牲にするな
それから2番目はですね、今地方財政が左前だ、逼迫してる、赤字になってそれも規模がすごくでかい。それから小さな県だけではなくて大阪であるとか東京都であるとか愛知県であるとか、そういう大きな、今までは地方財政交付金ももらわないくらい豊かであったところが、何千億という赤字を抱えるようになった。ほかの地方自治体も大変きついんだと、こういうふうに言われて、だから人員削減します、合理化します、リストラしますと、こういうふうに全国が動いている訳です。
 これの大元は何かと言えばですね、国と地方自治体当局の責任なんですね。いわゆるゼネコン型公共事業ということで、公共事業を地域が受け持つと、地方財政の方も自己負担しなきゃいけない訳ですね。まるまる国からお金が降りて来るという訳ではありません。自己負担って言うのがある訳ですよ、やっぱり。全然使いもしないような道路を造ってみたり橋を造ってみたり、あるいは飛行場をつくるとしても、本当に採算がとれるかどうか分からないような飛行場を作ってきた訳ですよね。次から次へと。そういうふうにして公共事業を拡大していく中で、自治体が自己資金を投入して、それで赤字になってる訳です。本当にそれが住民の生活を豊かにすることにつながるかっていうと、そういうわけでもないんですよ。そのつけを、教育とか、福祉とか、本当に人々の、住民の生活に直結している部分に押しつけて、攻撃を加えているというのが真相です。
 学校給食となれば、先程もお話ししておりましたが、子どもたちに犠牲がいくわけですね。大人たち、あるいは財政当局、財政当局といっても、もともとはパブリックサーバントなんですから、市民の奴隷というか、召し使いなわけです。ま、良い召使と悪い召使がおるわけですが、そういう人達がですね、子どもの生活、子どもの幸せを犠牲にする、犠牲にすることに結果的にはなるわけで、そういうふうなことを黙って見逃す訳にはいかないなと、いうことで、大元のところをですね、検討しなくちゃいけないですね。これは本当にそうです。子どもや学校給食が地方財政を逼迫させたわけじゃないということです。
 赤字でなくてお金が一杯余って黒字になってても給食をリストラする、民営化、民間委託するということは、東京などでも当然起こります。目黒区などがそうです。それは、市庁舎を立派にするとか、あるいは財界が利用するような建物を建てる。こういうふうなインフラストラクチャーを整備するために何百億円ていうお金を使い、それの負担が大きいので、学校給食はリストラする。その給食は非常に問題があるのかというと、全然問題ないですね。目黒区の給食は、岡山と同じように非常にレベルが高い、水準が高い。調理員さんも自信を持ってるという給食なのに、それをつぶすっていうめちゃくちゃなことをやってる訳ですね。「超」めちゃめちゃだと思うんですね。ま、若い人の言葉ですけどね。「超」めちゃくちゃですよ。
子どもを幸せにすることこそ行政の責任だ
 そういう問題が、基本的な問題じゃないかなと思うんです。それから、子どもたちのことに目を向けてみると、今は本当に、テストができるとかできないとかいうこと以上に、人間としての存在がこれで良いのかという、自分が自分らしく生きていけるのかという人間らしい気持ちで生きていけるかどうかというそういうことが問題になっていますね。「透明な存在である僕」というあの事件が起こって以来、いろいろ聞けば、子どもたちはみんなあの子と同じような共通の気持ちで生きている。自分が生きてんだか死んでんだかようわからんと、生きてる実感がわかない。そういう中で生き方を模索しているわけですね。そして若い人たちが、いろんな欠点を持っていることも確かですけども、今の世の中非常に苦しいって言うんですね。息苦しい。もう本当に自由がなくて忙しくて振り回されて、ま、これは大人がそうですから子どももそうなっちゃうってわけですね。生きてるっていう実感がない。自分の足で歩いてるっていう実感がない。だから、本当に今の世の中ってやだなっていうのがあいまって、世の中の動きに私ついていけるんだろうか、途中で息切れしちゃうんじゃないだろうかっていうような気持ちを持ってるんですね。社会に対する批判意識も強くなっています。
 もっとゆとりのある、人間らしい気持ちになれるような人間関係とか、そういう生活過程とかがほしいなという、ゆっくりご飯も食べたい、自分でつくって食べるということもしたい、余裕があれば自分でお弁当つくっていきたいと、そういうことを言う若い人たちが非常に多いです。自分らしく生きたい、人と競争させられて、差別されて、そしてそれに焦ったり、自分を失ったりするのじゃなくて、自己喪失しないで、自分らしく、自分はこれでいい、比較されないで、生きていけるようなそういう世の中にしたいなって、そういうふうにみんな思ってるんですね。
 これは本当に切実な問題じゃないでしょうか。給食の問題や食べることにまつわる問題っていうのは、本当はそういう願いに深く根を張っている問題ではないでしょうか。ご飯を食べるっていうことの意味は、もともと、みんながそろってだんらんしながら食事をする。共に生きていくという家庭のだんらん。そういうものを意味しているわけですね。そういうふうなものがなくなっちゃっている今日の世の中、人間と人間が心を触れ合わせて、共に未来を語ったり、きちんと生活を語ったり、生きる英気を養うという、そういう食べるという文化が失われている。そういうことはとても大きい問題だと思います。
 そういう状況の中で、お金だけ安けりゃいい、経済的効率性だけがあればいい、行財政的効率だけを追求してですね、これでいいだろう、これで安くやれるじゃないかと、そういうことを行政側が押し付けてくると、人の側にもともすると、これでいい、安く上がればいいじゃないかと、そういうところにさらわれていくようなそういう危ないところもなくはない、という状況があると思います。
 その中で、本当にこれからの学校給食に求められているものというのは、意外と私たち大人と子どもが、どうやって人間らしい生活を築いていけば良いのかそういう生き方の問題に結局のところなると思います。そういう視点から見ないと、安いだの高いだの、うまいだのうまくないだの、品数の多い少ないとか、そういうことだけのつまらない議論になっちゃう。給食の問題を給食だけで見ていったら、やっぱり、足をすくわれるっていうところがある。良く見えなくなっちゃうところがあると思うんですね。
 学校給食というのは、食べることの問題というのは、そのまま政治の問題です。国際的な関係、あるいは日本がどうやって生きていくかという国際政治の中の問題でもあります。あるいは、弱い人、貧しい国々を犠牲にして、そして北の方の先進国と言われる人たちが南のそれらの国々の人の血や汗を吸って生きていくのかどうかという、そういう問題なんですね。これはもう私がいろいろ言うまでもなく、常識に属するところの話だと思うんですね。70年代80年代からそういう話がされてきました。世界にはなぜ飢える人たちがいるのか、ということで議論されてきたところです。したがって、食べることは個人的な面もありますが、他方ではもっと社会的、国民的で世界的な公共的な問題なわけですね。
 そういう視野で物事をとらえていく必要があるし、そういうことを子どもたちが少なくとも小学校の高学年か中学生になればわかるような、そういう国家・社会の主権者として教養を持った子どもたちを給食を通してあるいは食育を通して育んでいく。それが楽しい、おもしろい、なんとか自分もそういうことに関わって、世の中良くしたいと思えるような子どもを食教育でも育てるっていうことが可能なわけですから、そういう子孫というか、若い世代を育ててもらいたいなあと思います。

「飽食」の時代、高まる学校給食の役割
 現代社会は「飽食」の社会だと言われています。「飽食」の時代の中で、何で給食にそんな意味があるんですか、という声が聞こえてきます。もちろん、意味があるよというふうに考えなきゃいけない。「飽食」の世界だから、特に先進資本主義国は大変苦労してるわけですね。食にかかわる問題をいっぱい抱えてるわけです。「飽食の時代」であるからこそ、問題がたくさん、今までにない問題が出てきたという、そういう新しい目、柔軟なものの見方、考え方をしていかなきゃあいけないと思います。
 今は「欠食児童」なんていないだろうとか、貧乏で1日の飯に困る児童なんてあるのかとかね、そういうことを行政の人は言うんです。そして文化人とか教養人とか言われてる人、テレビの先端的な産業の中で働く人、そういうところに出て来る教養人、文化人といわれる人なんかそう言ってますもんね。「今は飽食の時代だと、飯食えない子どもなんていないんだから、欠食児童はいないんだから給食はもう止めた方がいい」なんて言うんですね。これは頭が50年くらい遅れてるわけですね。こんな前提に立って今の給食のことを考えたら、とんでもないことになっちゃうわけですね。あんた何時代の人なのって言いたいですね。学校給食法も知らないわけですね。それはすごい時代錯誤ですよ。
 簡単に言えば飽食っていうのは作られているんですね。政策的に人工的に作られている。国民が好きだから飽食になったわけじゃないですよね。エビフライうんと食べたいからエビを輸入するってわけでもないですね。むしろ逆に、嗜好は作られていくわけですね。嗜好、テイスト(taste )、味覚は作られていくわけです。飽食も作られていくわけです。「国際分業」という政策の中で、日本は自分の国で穀物や、お米や野菜を作らない、それは第3世界から買ったりアメリカから買ったりすれば良いじゃないかとこういうふうに国際分業化体制の中に安住して、そして国家や大企業が世界中の食べ物をかき集めて、病気になるほど飯食わせてるわけですね。そうして成人病、生活習慣病あるいはアレルギーといったような病気が増えてる。他方、第3世界の国々は荒廃し、人々はますます貧乏になる。自分の作ったコメを食べられない人々もいる。
 もちろん、日本ほど食糧自給率が低くて、何の改善も見られない国は他の先進国には1つもありません。イギリスもかつてはそういう傾向にあったようですが、主権を持った国家としての存在が危ぶまれるという中で、自給率を上げてきました。ですから、先進国に共通して、飽食が進んで食が乱れるという悩みがあると書物に書いてありますが、フランス、イギリス、アメリカ、みんな農業を大事にしてます。これらの国々の食糧自給率は100パーセント近く、あるいはそれ以上ですね。アメリカなんかはトップで150パーセントくらいあるんじゃないでしょうか。この余ったお米とか穀物、大豆、コーンなどを海外に売って、あるいは遺伝子組み換え食品のもとになる種を売って、世界を支配しているわけですね。これは帝国主義者・アメリカの独特な特徴だと思います。
 でもやっぱり飽食には違いないのでいろんな問題が出てきてるわけで、フランスでは1980年後半から90年代の初めにかけて、子どもたちが買い食いをするわけですね。学校帰りにマクドナルドで食べたりするわけです。フランスには行ったことありませんが、パリに行くとですね、マクドナルドとかコカコーラの看板がやたらめったら目立つそうです。で、子どもたちもやっぱり食べてみたくなって学校の帰りに、そんなものばかり食べて、家に帰ってお母さんがつくってくれた食事も口にしないという、そういうめちゃくちゃな生活をしている。あるいはフライドポテトとかね、ああいうものを食べているわけです。それで体の調子も非常に悪くなってきて、パリ市全体の問題になったわけです。これはなんとかしなくちゃいけない、食教育をちゃんとやらにゃいかんとなりました。

フランスの学校給食
 フランスでも、全部が全部じゃありませんが、学校給食をちゃんとやっています。フランスの給食ってのは、本当にフランス料理、1皿1皿ですね、コースで出て来るっていうんですね。そういう給食なら、ぜひ1度食べさせてもらいたいなと目がギラギラしてくるんですが、そういうところではどうやってるかというと、シェフによる食の授業をするんです。これは格好いいですね。もちろん市当局がお金を出します。それを渡して有名レストランのシェフに来てもらう。あのトンガリ帽子みたいな白い帽子かぶって、白い割烹着を着て授業をやってくれるわけですね。それも、しかし、わりと基本的な指導、「味覚の指導」なんてのを最初やるんです。酸っぱいとか甘いとかそういうのを、リンゴとかいろんな食材を持ってきてですね、子どもたちに食べさせたりしながら授業を進めていく。そうやって味覚を正しくする。子どもの味覚は、マクドナルドとかコカ・コーラで歪んでもう味もわからない、みたいなことになっちゃってる、。そういうふうな習慣を直していこう、感覚を直していこうと、そういうふうな授業をやってるんですね。これは、子どもたちにも、シェフが来るんだからね、ものすごく興味・関心がありますよね。だって普段学校にはいない人ですから、それはそうですよ。栄養士さんがそういうかっこしてやったら栄養士さんの話もちゃんと聞くんじゃないですかね。
 それで、この授業はお母さん方にも大変人気なんですね。それで、お母さんたちもちゃんと勉強してみたい。我が民族の食事というのは、どういうものなのか、改めて勉強してみたい。こういうシェフの人達が教えてくれるんだったらわたしのほうが参加したいわと、参加の希望が殺到していると、伝えられています。

イギリスの学校給食
 イギリスは、非常に古い伝統を持った国です。多分学校ができたとき、近代的な学校制度ができ、義務教育制度ができた瞬間から、給食制度を考えなきゃいけないというふうになりました。しかしイギリスっていう国は、個人主義の国ですね。インディビジュアリズムって言いますけど。だから人に飯食わせてもらったり、人の税金でご飯食べさせてもらうとは、道徳的に堕落している証拠なんだと、こういうふうな考えをもっていました。どんなに貧乏してても、そういう気持ちは持っていて、無料の給食やるからどうぞ希望者は申し込んでくださいなんて言ったって、私はやだよ、と武士は食わねど高ようじ、みたいな感覚がずっと続いてきましたが、そうは言ってられないというになり、議会でも法律をつくって、学校給食に対して地方教育当局が補助金を出しても良いということで、公的学校給食制度が始まるのが1906年です。
 それよりも60年から70年の間、ボランタリーで給食がやられておりました。給食は最初、何で行われたかっていうと、学校に子どもが出て来てもらうためにです。お父さんもお母さんも共働きで、工場に働きに行ってるから給食がないといけないですね。子どもがお昼休みになって、まあ1時間から2時間くらいですが、帰っても親がいないんですね。だから誰かにご飯食べさせてもらうこともできないし、自分で火をつけてご飯作るってわけにもいかない。結局、ご飯食べないまんま午後の授業を受けることになる。そうなると、栄養失調なんかになったりして、授業受けている最中に倒れたりする。勉強にもなかなか身が入らない。こういう状況を何とかしなきゃいけない。学校にたくさん来てもらえるようにしなきゃいけない。ということで、修学奨励っていうことで給食が始まりました。けれども、先生方が見てるとやっぱり、食べるっていうことは人間が1人前になっていくための重要な教育の一環だし、福祉っていう要素もあるということがわっかていくんですね。だんだん福祉から教育へ、ということで、学校の教育プログラムの中に入れられるようになりました。

日本の学校給食
 こうやってイギリスが進んで行き、日本はそういうものをまねして、日本でも給食は戦後と思ってる人がいるでしょうが、そうではなく1932年から国家がお金を出して給食制度を実施しました。それは満州事変がおこって、満州国というのは日本の国だぞと宣言した1932年です。その年に政府主導の学校給食制度が始まったんです。それは「健兵健民策」といわれますが、強い兵隊じゃなければ困る、ひ弱な子どもでは戦争に勝てないので、給食を通じて強い子どもをつくんなきゃいけない、そして強い兵隊にしなきゃいけないということで給食制度が始まりました。ですから敗戦後すぐに給食ができたんですね。そういう日本の戦前からの給食の制度っていうのはある。立派かどうかは知らないが、あったわけですね。これはイギリスに学んでそうなったのです。

アメリカの学校給食
 アメリカではですね、アメリカは非常にプラグマチックですから、問題をこう技術的に解決するっていうのも非常に得意なように思います。アメリカでは現在、貧困っていうのはなかなか政府は問題にしません。貧困はアメリカにはありませんみたいなことを良く言うんですけど、そんなこと言ったって、ホームレスとかそんな人たちが町にあふれてるわけですから、誰が見ても貧困の現実がわかっちゃうわけです。やっぱり、アメリカの学校は大変むづかしい。いろんな問題が起こってますね。ピストルを持って子どもが歩いてるとか、この前もある学校で事件がありましたよね。ああいうことが起こるわけです。特にマイノリティって言われてるヒスパニックとかプエルトリコとか、そういう少数民族の家庭の子ども達は家が貧困だということもあって、朝ごはんなんて抜いて来るのが普通です。朝ごはん食べないで学校に来るとやっぱりイライラする。そこでケンカしたり、暴力事件が起こったりとか、先生にものを投げたりとかね、暴力教室のようになっちゃう。何とかしなきゃいけない。
 それで生活を見ると、ご飯食べてこなくてイライラしてる。体の状態も余り良くないので、朝食の学校給食を始めるわけですね。ブレックファースト・スクールランチです。それに対しては、国や州が法律を作って、お金も国が下ろしてくるというふうになっている。例えば、ワシントン州などがそうですね。だから給食っていうと、昼の給食はディナーって言ってるわけですが、朝飯の給食もあるということですね。で、やってみて、非常に暴力事件とか、子ども同士がケンカするというのがなくなった。先生にものを投げたりするというような、そういうふうなこともなくなった。校内暴力というのも少なくなった。非常に落ち着いたってことがはっきりしてる。まあ、ないものをあるようにするっていうのは、非常に効果がはっきしいって分かりやすいですね。これは本当にそうだと思います。
 このアメリカの例は飽食じゃなくて欠食の問題なわけですが、飽食について言えば、アメリカではですね、学校の先生とは別に食教育専門の栄養士がいるんですね。アメリカでは、食教育のインストラクターっていうのが養成されています。
 そういう人たちが学校に来ると、先生は教室の隅の方で見ています。オレゴン州では、インストラクターの先生は、フードピラミッドと言われているような、こう絵が描いてあるようなものを持っていってですね、まあ1番下は面積が広いんですが、たくさん穀物を食べましょう。真ん中が、蛋白質、野菜とかそういうものですね。1番上がお肉になってるんですが、だからだんだん狭くなってね、分量がこれで解るような、そんなピラミッドなんです。その中でですね、自分の今日の朝食は、昨日の夕食はどうだったか。そうやって自分でそのピラミッドの基準に合わせてチェックして、自分で食事コントロールしようというふうな教育をやってるんですね。これは50分くらいの小学校の授業です。もともとアメリカは、1972年にマクガバンという人が副大統領だった時、世界の学者270人ぐらい集めてアメリカの食の実態を調査させ、そして健康を保てるような予防医学的な効果を発揮できるような、そういう食事っていうのはどういうものが1番理想的なのか、こういうふうなことを調査し、答申させました。これはマクガバン報告書となって、日本でも簡略化した翻訳の本が出ました。その中で日本の食事っていうのは極めてヘルシーだ。1番優れている食事だと言って、「日本型食事」っていうのはもっと大事にしなくちゃいけないという話が生まれました。
 アメリカでは市民運動としても食育運動がずっと進んできてるようです。そんなふうにして、それぞれの国がそれぐらいのお金を使って努力してやってるっていうことを、見なきゃいけない。これが現代社会の中でも、食教育や健康教育ということから見た学校給食の現代史的な意味だというふうに押さえるべきではないでしょうか。そういう意味で、「飽食の時代」では、学校給食こそ出番だろうというふうになると思います。

民主的主権者を育てる学校給食の役割  憲法と学校給食の理念
 2番目に、これはなかなか普段考えてもらえないんですが、憲法や教育基本法や学校給食法の中での学校給食の役割というところです。日本国憲法、あるいは教育基本法の考える子ども像というのは、この日本という国家と社会を支える主人公を作るっていうことです。基本はこの主権者、民主的な主権者を育てる、あるいは民主的な人格を育てるっていうことです。
 それはですね、学校給食の根本問題なんですね。それはどういうものかというと、日本の食糧とか食生活をこれで良いんだろうかということがちゃんと考えられる子どもに育てるということです。それは味覚の面から、食文化の面から、あるいは食糧の生産とか流通、消費とかという面からも考えられる子どもを育てることです。つまり、飯なんか誰かに食わせてもらえばいいんだとか、お母さんや女の人に食べさせてもらえばいいんだとか、そういうふうに、自分で何も関与しなくても、自分が生活の作り手にならなくても、食の作り手にならなくても別に飯は食える、金出せば食えるんだとかいうような、そんなアホな国民にしちゃいけないってことなんですね。ところがほとんど、特に男の方に多いかも知れませんが、大体飯っていうのは女の人に食わせてもらうもんだと思ってやしないですか?私はどうもそう思います。そういう人ってのは大体傲慢なんですね。もっとうまいもん作れとか、何だ今日はこんなもんしかないのかとかえらそうなこと言う。自分で苦労してないと、生意気なことを言い、人間傲慢になっちゃう。飯ぐらい自分がつくって、子どもや奥さんに食わしてあげると、それぐらいに腕をみがかなきゃいけない、男をみがかなきゃいけないということですよ。
 そういうことを1番最初に言った人はルソーなんですね。1762年『エミール』という教育書を出版しましたが、その中でルソーは子どものころに特に勉強させる問題として、食教育のことを取り上げてます。「食教育」=「健康教育」=「民主的な主権者を育てるための政治教育」なんだと、こういうふうに書いています。なぜならば、自分の体を保持するために一等大事なのはご飯を食べること、食事をするということで、その食事について自分が自分でどのように食べれば健康が保持できるか、自分が今食べているものは一体誰がつくってくれたんだろうか、どういう人々の手を通って自分の食卓の上に並べられて自分の体の中に入るのかということが解っているような子どもでなきゃいけない。そして、自分で自分の体の調子を整えるといったような、自分で自分を管理できる人間、自己保存ができる人間に育てなければ、将来の民主的な共和国の主人公、担い手になんかとてもなれる訳がないだろう。社会をコントロールできる人間にはなれないだろうと、こう言ってるんです。世の中の主人公、社会の主人公、国家の主人公、それを民主的にする主人公になるためには、まず食教育をちゃんとしなきゃいけないと、こう言ってるんです。これ、今から200年前の考えですよ。やっぱりルソーは天才だと言われるだけありますね。やっぱりこれはすごいことです。これは日本国憲法につながっていると読むべきだと思うんです。そこがいつも忘れられてるでしょ。だから民度が下がっちゃうというふうに言っても良いんじゃないでしょうか。そういうふうに食の問題と日本国憲法とがつながってるととらえなおす時期になってると思います。
 ですから、学校給食法にも学校給食という事業が子どもだけのものだなんて言ってません。国民の食生活、国民全体の食の状況が良くなるように、改善できるように、給食は努力しなさいって言ってます。今の日本において、食べることにおいて、精神や心のいろんな問題が起こっているっていうことは、政府は良く知っています。文部省も良く知っています。でも、やることは全然ちぐはぐで正反対で、給食をよくしようとしていません。そういう国民の課題にぴったり合ったことをやってない。むしろ足を引っ張るようなことをやってるわけです。民間委託なんか最たるものだと思います。そういうふうにして学校給食法には国家や地方自治体の政治的役割が書かれています。ところが民間委託して業者に任せちゃうということになりますと、これは責任放棄、サボタージュってことになります。やっぱり学校給食法という法律ができたときに国会でどれだけ議論されたか、こういうのを忘れちゃってる。 それから岡山市の議会で、栄養士はそんなにいなくてもいいんじゃないかということを言ってる人がいるみたいだけど、これはそんなことないですよ。1954年に国会で議論したときには、今(当時)は栄養士や調理員に関する制度ができていないけれども、この学校給食法が制定された以降において、国家の財政なども考えながら、必ず給食の推進者である栄養士をちゃんとすべての学校に配置し、調理員を配置するような充実した給食制度を作ってかなきゃいけないというふうに、「付帯決議」の中で述べられています。参議院と衆議院の両議会の本会議の中において「付帯決議」がつけられて、学校給食法が通過してるわけです。そういうことを考えれば、栄養士がいなくても良いんじゃないのとかいうことはないと思います。これが憲法や教育基本法から見たところですね。
最近の文部省の学校給食政策
 3番目に自治体の問題として考えたいと思いますが、学校給食というのは、今やそれを経験しなかった人はほとんどいない、ほとんど体験していますね。私も体験してます。日本の人口1億2000万人くらいですが、今、人口の7割から8割くらいの人が学校給食を経験してるんじゃないでしょうか。それで国民的な財産になってるというふうに見るべきじゃないかと思います。国民的な財産っていうのは、多くの国民が給食を経験していろんな思いを持ってるっていうことですね。ですから、人々の関心事になりやすい。共通の関心が持てる場であるということです。今、小学校で給食のないとこは、和歌山県の紀伊半島の先っぽのほうですね。まあ、僻地なんです。そういうところはあるんです。けれども、大体学校給食はありますものね。99%はある。世界にこれほど充実してる国はない。これは間違いないですね。そこで、物事を考える共通の場になっていますから、これをつぶす手はない。この学校給食の場を利用して色んなことを学んでいくという、そういう機会にしてほしい。しかも大人と子どもが一緒になって、あるいは地域の人達や教職員が一緒になって物事を考えていく、あるいは啓発し合うというか、そういう本当に貴重な場になると思います。それをいまつぶしてなるものかと私は思っています。
 学校給食の中でやれる可能性のあることはいっぱいあるんですよ。文部省も、最近こういっています。長い文章ですが、手短に言います。文部省の保健体育審議会答申が1997年9月22日に出されました。実は、前回は1970年に出されたのですが、その中ではセンターにしなさい、統一献立つくって共同購入やりなさい、民間委託も良いと、こういうふうに言っていました。ところが今回の答申では全くそれを否定しています。だからやっぱり今までの給食の運営の方向が破綻してきたんだと思います。なぜかと言うとO−157事件が起こったからです。
 食生活の社会環境変化による問題がたくさん出て来ており、健康を保持するにはどうしたら良いか、ということでは課題が山積みである。そういう中で食生活の重要な役割を学校給食が担ってるっていうことは理解できる。学校給食は、食教育・健康教育の「生きた教材」として極めて重要なものである。これを活用せねばならない。最近では、衛生管理をもっとちゃんとしなければならない。まだ中学校給食をやっていないところはもっと積極的に考えるべきだし、食教育はTT方式(ティームティーチング)、先生方と一緒になって協力してやる、子どもに刺激的な楽しい授業をもっとやってかなきゃいけない。栄養士は全校に配置しなきゃいけない。給食やってるところではですね、大きい小さいに関係なしに栄養士が一人以上はいなきゃいけない。単独校調理方式へと移行させるべきである。つまりセンター化は止めなさい、見直すべきであると書いてある。見直すって言うのはさっきも言ったように廃止するって方向で検討すべきである。自校方式にすべきである。それから、統一献立、共同購入は縮小の方向で検討すべきである。だから堺のO−157事件はこの統一献立・共同購入方式で起こりましたので、あれは止めるべきだ。学校栄養士はもっと力があるはずだから、もっとがんばってほしい。施設設備も例えばドライシステムに変えるなど国がお金を出して整備しなさい。こう言ってるんですね。
 しかし基本的には、食は個人の責任だとか家庭の責任だとか、こういうふうにも言っていて、これは問題がある。それから食の社会的な面ですね。食糧の生産とか農業とか、あるいは環境保全、環境問題に関わるこういうことは一切逃げてるんですね。触らないようにしてるってとこが問題ですね。そういう中で個人責任とは何だ?ダイオキシンの問題、環境ホルモンの問題、アレルギーの問題、これは明らかに厚生省が言ってるように環境問題ですよね。だから一人じゃ何もできません。ことは重大だし、また意味があるというふうに考えられるわけですね。
 もう一つ。注意深く見ると、民間委託は見直すべきだって言ってないです。だから民間委託はしなさいっていうことだよね。自校民託が今の行革の中でも行政がねらっている方向だと思います。これはしっかり確認しておくべきだと思います。
 そして来年度から文部省はいろんなことをやろうって言ってます。それは後でシンポジウムで出て来ることかも知れませんが、もっと栄養等についての知識を子ども達にいっぱい与える。そのために授業を充実する。栄養士も来年の4月から授業ができるようにすると言っています。それから、学校と家庭をつなぐという意味で「食の手帳」なんていうようなパンフレットというか本というか、そういうふうなものを各家庭に配布する、そういうことも考えている。それから2002年、完全学校5日制のもとで行われる教育の内容として、新学習指導要領で「総合的な学習の時間」というものが週3日小学校から高等学校まで設けられました。その中では情報とか環境とかと並んで食や健康教育についてもやったらどうかという案も示されています。
 それに合わせて、食教育、健康教育ということで、「総合的な学習」の時間をおおいに使ってください。そこで食の勉強、栄養の勉強をやってください。それから学校給食が、したがって栄養士さんとか調理員さんとか、あるいは養護教諭などが、保護者に対して家庭の食事とか健康とかに、食文化とか食生活のことについてアドバイスできるような仕組を作ってほしい。それからシンポジウムを開いたり、勉強会を開いたりして、住民に啓発活動ができるようにしてほしい。調理講習会とか試食会とか、これまでもいろいろやってたかも知れませんが、それらをまとめてやってほしい。こういうふうなことで来年度から具体的に、たぶん予算をつけるんでしょう。そうやって大いに給食を利用した食教育の充実、あるいは地域と学校の連携の強化ということを考えることが方針として出されています。
 最後にこれからのあり方ですね。民間委託は許さない、跳ね返す力をつける、ということが私たちの責任だと思います。それは行政の責任でも在ります。行政の頭を変えさせて、もう少し民度を高くしてもらうためにも私たちが頑張らなくてはなりません。
 1番目はですね、子どもの心身の発達の現状と課題っていうところがありますが、やがては食の主人公になっていってもらいたいんですが、これはやっぱり子どもの食の環境については、本当に問題がたくさんあると思います。それは地域や家庭の問題でもあるんですね。私は家族そろってだんらんする、というのが基本だと思うんです。それと給食っていうのは共同で食することですね。「共同で食べる」っていうこと。子どもが少ない中で一生懸命あれ食べなさいこれ食べなさいってお母さんが子どもに言うのも効果はあるわけなんですが、子ども達がいっぱい共に食事するという中で生まれる刺激っていうんでしょうか、人間形成力っていうか、これは本当に家庭の食の力を軽く越えてると思います。ですから「共同の食事」(会食、給食)っていうのは大事で、家庭においても家族だんらんで食べることによって子どもが育っていくと思うんですが、そのような機会が非常に減ってるということは問題です。
子どもの現状と問題点  これを克服できる学校給食に
 1983年で夕食を家族そろって食べる家庭は37%ありましたが、1999年においては27%に減ってるんですね。ではアメリカはどうなのか、今日はでもアメリカは70%の家庭がだんらんして食べてる、韓国は60%、スェーデンは70%で、日本は27%しかないわけですね。家族はバラバラで一緒になることがない。これは基本的な問題じゃないでしょうか。
 それから小児成人病(生活習慣病)の恐れが在る子どもが、40%。30%の小中学生がアレルギー病にかかっている。それから肥満や痩せ過ぎは、小学5年生で12〜15%。特に肥満の子は多いですね。20%くらいいるところもある。それから、食事が栄養の点で問題があるというのはいろんな調査が示しているところで、朝食抜き、15%。コーヒとトーストといったような食事の子どもが25%。、カルシウムが不足している、ビタミンA,Bが不足している、ミネラル分が不足しているというのはこの間ずっと指摘されているところです。
 2002年から完全に5日制になれば、家庭とか地域にいる機会が多くなるわけですから、家庭における食事の問題っていうのはものすごく大きくなって、そのことをやっぱり文部省も意識して、家庭との連絡を密にして、そして啓発運動をと考えているんじゃないかなと思います。
 これはいろんな機関が調査してますが、文部省の外郭団体である、日本体育学校健康センターが去年、1998年に行った調査、これは小学校と中学校合わせて4600人の子どもを対象にしていますが、学校のない土曜日の昼食と、金曜日の給食の栄養摂取状態の比較分析をした調査結果が載ってました。それによりますと、家で食事した昼の中身は、カルシウムは1日に必要なものの10%程度、それに対して学校給食は40から50%をちゃんと満たしている。ビタミン類については、同じように20%、給食では50から60%だった。こういうふうな状況が出ておりますが、子ども達の食事の問題状況が、この10年間大きくなってる。それが1番目の問題です。
子どもたちは給食がなぜ楽しみかっていうと、栄養価というのも大事なんですけど、友だちと心の交流ができる、人間的な交わりができるっていうのがすごく大きな給食の楽しみなんですね。共に食べる、会食できるっていうところから人間的な気持ちがすると言えるわけですよね。それは評価できます。 学校給食はそういうわけで、地域の「食文化、食教育のセンター」になっていかなきゃならない。いろんな事をやっていける、自分たちを活かして一緒に食や健康や地域の生活の在り方を考えていく場になるよと、そういう活動をしていけるし、またいかなきゃいけないと思うんですね。今後の食教育を守り、発展させることは、子どもたちにとって生き方を学んだり、生活の作り手になる技術や文化を学ぶ、あるいは味覚を育てるというような教育としての学校給食なんですね。

給食づくりこそ食教育の中心点である
 ですから1番大事なことは、給食作りです。どんな食材をもって、どのような作り方で、どんな給食を作るのかっていう、これは食材と献立と作り方、これが命です。今、皆さんが食べている給食はこういうふうな材料で、こんな考え方のもとで、こんなふうにして作りました。だからこんなふうに味わってみてください。そういうふうに先生の言ってることと食材が一致して、子ども達が、そうなのか、さすがおいしいと、そういうふうに学んでいけるっていうのが本物の給食というわけです。
 既に1956年、昭和31年に文部省は通達を出しています。調理員さんがどうやって作ったか、栄養士さんがどんなふうに考えて献立を立てたかが子どもたちにすぐ伝わるようにしなさい。教材にして栄養教育をやりなさい、と言っています。もう一つは給食っていうのは学校の中だけではできない。国民の生活全体を良くするためには、お父さん、お母さんたちが参加してくれなきゃ困る。したがって各学校に「学校給食運営委員会」をつくり、父母が参加できる学校給食運営体制を発展させるように努力してくださいと、こういうふうに言ってるわけですね。これが本物の給食教育だと思います。給食による食教育ね。それをつくっていくことだと思います。
新しい学校給食の役割
 それから環境教育。今まではそれほど強調されませんでした。給食は今までどっちかというと1980年代は、健康教育としての給食っていう位置付けでなされてきました。健康教育ってやっちゃうと、食糧の問題、農業の問題は消えちゃうんですね。そこが最近は、環境教育問題として学校給食の問題がすごく重要になって来てると言われてます。例えば遺伝子組み換え食品の問題なんか、厚生省なんて実験しないでどんどん許可しちゃってるわけですね。カナダ、アメリカなどで開発してるわけですね。
 私もボチボチこうやって勉強してるんですけれども、最近ちょっと読んだ本は、渡辺雄二っていう人の『遺伝子組み換え食品の恐怖』という本なんだけど、新幹線の駅の売店で売ってるような本ですが、これを見ると、トウモロコシとか大豆も除草剤をまく必要がない。経費が節減できるような、遺伝子組み換えを行うバクテリアの中にある殺虫毒素っていうのを植え込むんですね。そうすると大豆なんかの葉っぱを虫が食べると虫が死んじまうってわけね。なんで死ぬかっていうと、この遺伝子が入ると虫の中の消化管が、穴があくんだそうです。穴が空いて食べたものが全部体中に回って死んでしまう。虫が食っても腸に穴があいたりするやつは、人間が食べても穴あくんじゃないの?
 ところがそういうものの実験とか証明とか、まだできてないわけですね。本当に心配ないのかっていう保証はないわけです。以前トリプトファン事件っていうのがあって、昭和電工が作った遺伝子組み換え食品がアメリカに渡ってアメリカで食べた人達が38人死んで、1500名以上の人が重症患者になった。調査したけどなかなかわからない。そこで、アメリカ食品医薬局(FDA)、アメリカ国立衛生研究所が原因究明に乗り出して、そこまでいってトリプトファンていうのに原因があったと解ったんですね。原因があったとは解ったけれどそれがなんでかっていうのは解らない。必須アミノ酸の1種なんだそうですけども、いろんな障害を起こす。アレルギーが増える、抗生物質が効かなくなっちゃう、とかいろいろ小さな事例はいっぱいある。胎児にも影響はある。恐ろしいことがいっぱい書いてあるので大変なことなんだなあと思います。
 アレルギーの問題も、親子そろってアトピー性皮膚炎で苦しんでる。夜も寝られず、血だらけになって不眠症になって健康を害してるっていうような事例が出ています。親子そろってその病気にかかってるっていうのは、20年前にはないんですね。ここ最近起こってることですから。ますますこれからはそういう問題に関心を持っていく必要があるし、学校給食の場所でそういう問題を究明したり、本当に健康な食品は何かとかということを学んでいけるようなのでなきゃいけないんですね。
 アレルギーってのは結構恐ろしいんで、多動性とか注意散漫とか、凶暴だとか攻撃的だとか、今「キレる」とか「荒れる」とかいう子ども、あるいは学級崩壊とか、そういうことが言われておりますが、それと食べ物の関係っていうのは、はっきり断定的に言う人もあるし、実証的にやってる人もいろいろ在るわけですが、臨床例ってやっぱりあるんですね。
 ちょっと古いですが、アメリカのマーシャル=マンデルっていう博士が書いてる1冊の本があります。それを読みますと、キャンディの中に含まれていた添加物を食べてアレルギー疾患になった子どもをどうやって治療するかっていう、その治療の経過が書いてあります。注意散漫ですし、字も書けない、それがだんだん食事療法をしていくことによって1カ月後2カ月後3カ月後6ケ月後とどんなふうに良くなっていくか、そんな臨床的な研究の例がありましたが、やっぱりアレルギーっていうのはそういうふうになるんですね。そういうことっていうのは、今も日本の小児科の先生たちが研究しております。やっぱり重大な障害を子どもに起こしてると。学習障害(LD)もそういうふうなアレルギーと関係があるということですので、そういう環境教育としても大事な役割を、学校給食は発揮できるんじゃないかなと思います。
保護者・子どもが参加できる学校給食に
 最後は、保護者や子ども達が参加して一緒に作るというのでなければいけない。作ったものをお金で買うと、安けりゃ安い方がいいなというんじゃなく、子どもや親、そして地域の人、農業をやってる人、生産者、業者と子どもたち、一緒になって日本の食事、自分たちの食事、みんなの命と元気に関わるそういう食生活、食文化をどうやってつくっていけばいいのか。その主人公になるにはどうしたらいいかっていうことを学び合う、というところが、給食の1番の大事なところなんであって、安いからいい、700円なら高くて500円なら安い、そういう問題じゃ全然ないのです。高くてなんで悪いんだ、というふうに開き直ってですね、700円800円じゃ買えないような、もっとすごい値打ちのあることをやってんだと、こんなひどい地球環境の中でこんな大事なことをやってんだということを、おおいに具体的に主張していけば、「こんな安い物はない」という評価だってできるわけです。そういうふうに考えられる市民の人々、岡山の住民の人々になっていただきたいなと思います。

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