【資料】「つくる会」の内部抗争の歴史と今回の内紛

  2006.3.14改訂)

                 俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)

2006.3.8改訂)

 新しい歴史教科書をつくる会(「つくる会」)はこれまで何回も内部抗争を行ってきました。そのことは西尾幹二前名誉会長も「『つくる会』は過去にも内紛を繰り返してきました」と自分のHPのプログで認めています。その内部抗争の代表的なものを紹介します。

 

97年1月 「つくる会」結成。

98年2月 初代事務局長の草野隆光氏を解任。大月隆寛氏が事務局長に。

99年7月 藤岡信勝副会長と濤川栄太副会長を解任。藤岡氏は理事に、濤川氏は理事も退任。高橋史朗氏が副会長に。藤岡氏は01年9月の総会で副会長に復帰。

99年9月 2代目事務局長の大月隆寛氏を解任。高森明勅氏が事務局長に。高森氏は01年9月で事務局長退任して理事に。01年10月から宮崎正治氏が事務局長に。

02年      小林よしのり氏・西部邁氏が西尾・藤岡・八木氏らと対立して退会。

06年1月 西尾幹二名誉会長が辞任・退会。遠藤浩一・工藤美代子・福田逸副会長が辞任し理事に。

06年2月 八木秀次会長、藤岡信勝副会長、宮崎正治事務局長を解任。宮崎氏は退職(解雇)。

 

1)草野隆光氏の解任

 草野氏の解任について、大月隆寛氏は『あたしの民主主義』の中で、草野氏を「Pさん」と仮名にして退任(追放)の経緯を書いています。草野氏について大月氏は、「左翼運動の体験もたっぷりあって、組織づくりや運動の現場についてのノウハウを十分に持っていた人でしたから、会の規約や定款づくり、運動の戦略などについての実務はほとんどこの人が中心になってくみたてていた」と書いています。草野氏の解任について、大月氏は「追放された」と書いている。「(追放の)経緯は本当に妙なものでした。事務局員との間が少しギクシャクしていたのをことさらに理事会がとりあげて、それを理由に放り出すというおよそ考えられないような仕打ちでした。」「一部の理事が画策したもの」で「完全な欠席裁判」で「糾弾された」。事務局員たちはだれも草野氏にやめてもらいたいとは考えていなかった、ということです。

 

2)藤岡信勝・濤川栄太両副会長の解任

 「つくる会」は99年7月29日の理事会で藤岡・濤川両副会長を解任、藤岡氏は1理事として留まり、濤川氏は怒って理事も退任しました。「つくる会」は「今回の措置は、会の運営をより健全化し、運動を一層発展させるため」と説明しました。この解任劇の直接のきっかけは、『噂の真相』が濤川氏の女性問題を追及したことですが、原因は藤岡氏と濤川氏の指導権争いに起因する泥仕合的な喧嘩にありました。当時、「つくる会」は都道府県支部づくりに取り組んでいましたが、それを濤川氏が主導することを快く思わない藤岡氏が、濤川氏の女性問題などを理由に攻撃し、二人は公然とお互いを誹謗・中傷しあい、会の運営が「不健全」になって支障をきたすまでになったためです。この時は、理事でもない小林よしのり氏が二人の解任と新副会長人事を理事に根回しし、理事会にも出席して「活躍」しています。この経過は、小林氏自身が「新ゴーマニズム宣言・第102章」(『SAPIO』99.9.22)に書いています。私たちが理事でもない者が根回ししたり理事会に出席して「活躍」したことを問題にしたためか、この後、小林氏は「理事待遇」に就任しています。

 

3)大月隆寛氏の解任

 大月氏の解任も草野氏の時と同様だったようです。大月氏は自律神経失調症で99年5月から3ヶ月間自宅療養をし、9月から活動に復帰しましたが、ある日「事務所にたち寄った時に、西尾さんや藤岡さんが事務所の人たちを集めて何か話し合っていて、あれ、なんだろう、と思っていたら、露骨に人払いされた」、つまり、大月氏は追い出されたということです。そして、9月15日に西尾会長(当時)から手紙で「『君は思想的にこの会にいないほうがいい人間だ』などと退任を勧告された。その頃、臨時理事会が招集され、大月氏は欠席裁判のような形で解任された、ということです。大月氏は、「病み上がりにようやく立ち上がろうとしたところを後ろからいきなり斬りつけられた」「どうしてこのような内紛(としか言いようがありません)が絶えないのか」と書いています。

 

4)小林よしのり氏・西部邁氏の退会

 02年2月に「つくる会」が開催したシンポジウムで、基調講演した小林氏が、アメリカのアフガン侵略について、アメリカのアフガン戦争を基本的に支持しながら、アフガンで「無辜の民が死んでいる」とアメリカを批判したことに対して、八木氏・田久保・西尾氏などが、「思想と政治は別。思想は反米だとしても、現実の政治では反米は選択したりえない」(『史』02年3月号)などと小林氏を批判し、会場からも小林氏への野次が激しく、これをきっかけにして、小林・西部氏と西尾・八木・藤岡氏など理事が対立して、小林・西部氏(当時理事)が「つくる会」を退会しました。これは、反米右派対親米右派との対立で、反米右派が「つくる会」と決別したということです。小林氏は理事待遇を退任し、歴史教科書の執筆も降り、西部氏は理事を退任して公民教科書の代表著者を辞めています。

 

5)西尾幹二氏と3副会長の辞任、八木秀次・藤岡信勝・宮崎正治氏の解任

今回の内部抗争は分裂・解体の危機に陥りかねないほど深刻です。06年1月16日の理事会後に西尾幹二が名誉会長を辞任・退会しました。同時に藤岡信勝氏を除く3名の副会長(遠藤浩一・工藤美代子・福田逸)も辞任し、理事になっています。さらに、2月27日の理事会で、八木秀次会長、藤岡副会長、宮崎正治事務局長が解任され、種子島経理事(元副会長)が新会長になりました。八木氏は「事実上の解任で(藤岡氏に)わたしが追放された」(埼玉新聞3月12日)とといっています。八木氏、藤岡氏は理事として留まりましたが、宮崎氏は退職させられ(事実上の解雇)、副会長と事務局長が不在という異常事態になり、まさに、解体・分裂の「危機」にあるといえます。

産経新聞(3月9日)は、「藤岡氏は2日後に『会長補佐』に就任し事実上復権していた」と報じています。藤岡氏と福地惇氏は3月1日に「会長補佐」に就任したということになります。「つくる会」の会則には、会長、副会長という役員の規定はありますが、「会長補佐」という規定はありません。1日には理事会も開かれていませんので、会長が勝手に「会長補佐」という役職をつくり、勝手に任命したということになります。そうだとすれば、これはきわめて非民主的なやり方で、「つくる会」にふさわしいことかもしれません。この結果、藤岡氏の影響力がいっそう強まるものと思われます。

なお、「会長補佐」に就任した福地氏は昨年理事になった元文部省教科書調査官(検定官)です。彼は、「つくる会」教科書の検定を前の98年に、高知大学教授を辞めて教科書調査官(社会科主任)になりました。「つくる会」理事で、歴史教科書執筆者の伊藤隆氏の弟子であり、「つくる会」教科書の検定対策で送り込まれたのは間違いありません。ところが、福地氏は検定中の小学校教科書の内容を雑誌で公開するという違法を行い、私たちは、それを理由に解任要求を文部大臣に行い、文部大臣は、98年11月26日に福地氏を調査官から解任しました。(詳しくは、出版労連『教科書レポート 1999』を参照してください。

 

27日の理事会の様子は28日に「つくる会」のHPの「FAX通信第165号」に詳しくでていました。また、産経新聞(3月1日)にも一部が掲載されました。この「FAX通信」は、種子島会長が指示した文書ではないとして、一日で削除され、種子島氏が報道機関に送った「新しい歴史教科書をつくる会の人事についてのお知らせ」に差し替えられています。削除された「FAX通信」は解任された宮崎氏がゲリラ的に掲載したものです。

27日の理事会では、まず、藤岡氏と八木氏が議長に立候補し、8対6で藤岡氏が議長になり、最初に宮崎事務局長の解任を8対6で可決、次に八木会長、藤岡副会長の解任動議が出され、八木氏は6対5(棄権3)で、藤岡氏は7対4(棄権3)で解任が可決されました。削除された「FAX通信」には、八木会長解任に賛成したのは、種子島・九里幾久雄・高池勝彦・田久保忠衛・福地惇・吉永潤の6で、解任に反対したのは、八木・内田智・勝岡寛次・新田均・松浦光修の5です。棄権したのは、遠藤浩一・高森明勅・福田逸理事で、藤岡副会長は議長のため投票していません。八木氏の解任にも藤岡氏の解任にも賛成した理事が一人いることになります。

 

今回の内紛は、昨年の採択で10%以上は確実に取れるといっていたのに、歴史0.39%、公民0.19%と「惨敗」(八木)した責任のなすりあいが一番の原因だと思われます。「つくる会」の内部情報によれば、昨年9月に西尾・藤岡氏が採択の責任を宮崎氏に押し付けて解任しようとしましたが、八木氏らが反対し、宮崎氏も退任に応じなかったということです(西尾氏は、八木氏もこの段階では宮崎解任に賛成だったと書いています)。10月から1月にかけて、宮崎氏の解任をめぐって、日本会議派の理事(内田智・勝岡寛次・新田均・松浦光修氏)と西尾・藤岡グループの間で、泥仕合のような応酬がつづいていました。この4理事が「抗議声明」を出したり、新田氏が西尾名誉会長の理事会への出席資格を問題にしたり、八木氏が全く相反する内容の声明を2回出したりなど、醜い泥仕合を演じています。そして、1月の理事会で「会に財政的損害を生じさせた」という理由で西尾・藤岡氏らが宮崎氏を解任しようとしましたが八木・日本会議グループが抵抗して、逆に西尾氏が退任することになった。解任理由は、宮崎氏が「財政的損害を生じさせた」、八木氏が宮崎氏や事務局員数名と昨年12月に理事会の了承なく中国に行って、中国の知識人・研究者と論争したこと、それを『正論』(3月号と4月号)に発表したこととなっています。おそらく、八木氏らは「つくる会」の財政を使って中国に行き、それを「損害を与えた」理由にされたではないか思われます。

 

西尾氏によれば、日本会議派4理事のうち3人と宮崎氏は、「保守学生運動の古い仲間」だということです。「保守学生運動」というのは、憲法を「改正」して大日本帝国憲法体制に原点回帰し、天皇を中心とした「神の国」をめざすことを方針として、青年教員や教育系学生に浸透を図ってきた日本青年協議会のことです。その仲間には、高橋史朗埼玉県教育委員(元「つくる会」副会長)、椛島有三日本会議事務総長、伊藤哲夫日本政策研究センター所長、衛藤晟一前衆院議員などがいます。

 

内紛の一番の原因は採択結果ですが、これは「つくる会」内部の指導権をめぐる権力争いでもあります。前述のように、「つくる会」は、98年2月に初代事務局長の草野光隆氏を解任(追放)し、99年7月には藤岡氏と濤川栄太両副会長が指導権を争って泥仕合を演じて、二人とも副会長を解任されています(濤川氏は理事も辞任)。次いで99年9月には2代目事務局長の大月隆寛氏を「思想的に会にいないほうがいい人間」(西尾)といって、「後ろからいきなり斬りつけられた」(大月)ように解任しました。02年には、西部邁理事と小林よしのり理事待遇が西尾・藤岡・八木氏などと、親米か反米かで対立して、「反米派」の小林・西部氏が退会しました。

 

このように「つくる会」は、たえず醜い内部抗争をつづけてきた政治組織であり、くりかえされる内部抗争には、子どもや教育に対する視点や思いはまったくありません。子どもの教科書をつくるにはふさわしくない非教育的組織です。藤岡氏は歴史教科書の代表著者、八木氏は公民教科書の代表著者です。現行版歴史教科書の代表著者である西尾氏は、自分の原稿が岡崎冬彦氏によって勝手に書き直されたことを理由に、改訂版には責任を持たないといっています。このような無責任な政治組織と人物がつくった教科書を採択した杉並区、大田原市、東京都、滋賀県、愛媛県の教育委員会の責任は重大であり、今からでも採択を撤回すべきです。

 

種子島氏は「原始福音・キリストの幕屋」という国粋主義・天皇主義のカルト宗教組織の関係者であり、「つくる会」会員の4分の1は「幕屋」のメンバー、宮崎氏が退職後の事務局員もほとんど「幕屋」のメンバーだという内部情報もあります。産経新聞社は住田良能社長や渡辺教科書担当キャップが八木支持を表明したという情報もあり、産経新聞(3月1日)は、この内紛を「西尾院政」「空洞化の恐れ」などと批判的に扱っています。扶桑社には、この際に教科書発行をやめて撤退することをすすめたい。