9月も終わろうとするのに、京都は晴れて暑い日が2日続きました。この暑い日の昼中京都の街を歩いてきました。何年も前から頭の片隅にあった街歩きがやっと実現したので、その一部を披露したいと思います。鴨川に架かる四条大橋から八坂神社に至る、いわゆる祇園と呼ばれる地域には旅人の興趣をそそる建築物が数多くあり、その建物と建物の間には安らぎの空間があります。
2017年9月の裏庭
▲裏庭TOP
▲旧人類の草庵TOP
室町時代、足利義満が許可した傾城町が発展し、時代とともに紆余曲折した「花街」は、1641年に朱雀野付近へ移転して、以後「島原」と呼ばれた。その島原が隆盛を極めていた頃、「祇園」が誕生した、と物識り人が語っている。
江戸時代初頭、八坂神社をはじめとする祇園周辺に見られる神社への、花見や月見の参拝客を当て込んで、茶屋が多く開業したのが街ができるきっかけになった、と柔らかめの歴史書に記されている。
街には茶を振舞うお茶屋が立ち並び、客をもてなす茶立女が置かれた。まもなく、客に出す茶や団子が酒に変化したが、これがお茶屋の発祥と言われている。この水茶屋で働く茶立女が歌舞伎芝居を真似て、三味線や踊りを披露するようになったものを、京都では「芸妓(げいこ)」、その見習を「舞妓(まいこ)」と呼ぶらしい。

水茶屋、掛茶屋、御茶屋、出会茶屋、料理茶屋など全部総称して「茶屋」と呼ぶことにして、この茶屋の並ぶ町並みを半日歩いてみた。
祇園四条駅の出入り口8から地上に出て、「北座ぎおん思いで博物館」の前を通り、白川にかかる巽橋を渡り、古い町家が立ち並ぶ新橋通りを何回か振り返りながら歩いた。
四条大通に出る手前ではやめの昼食を摂ることにして、そば處「へん古」の暖簾をくぐり、\1,680の天ざる蕎麦を注文した。
汗も引いたので、八坂神社にお参りしてから東大路通りの歩道を日陰を選んで歩き、東山安井の信号を右折して建仁寺へ向かった。寺の塀に沿って花見小路通を北上し、東アジア系外国人観光客に混じって、時折露地の奥をのぞき込みながらシヤッターを切った。
四条大通に出たところでまた汗が噴き出たので、甘味処「月ヶ瀬」に飛び込み\850の宇治金時で涼をとった。
すこしだけ元気が出てきたので、重い足を引きずりながら鴨川を渡り、先斗町の入口までたどり着いた。ポルトガル語由来の町名を持つこの地区は、1813年には遊廓として公認されて以来、茶店やバーが建ち並ぶ延長500メートルほどの繁華街で、通りの東側の店は鴨川に面し、納涼床を設ける飲食店が多い。「先斗町歌舞練場」まで来たら、陽も傾きかけたので高瀬川を眺めながら地下鉄京都市役所前駅へ急いだ。
東寺は平安京鎮護のために建立され嵯峨天皇から空海に下賜されたが、五重の塔の完成は空海没後の9世紀末。以来、この塔は1200年にわたって、50メートルを超える圧倒的な高さから下界を眺め続けてきた。もちろん祇園界隈の街の動静も。 東山区にある建仁寺は、臨済宗建仁寺派大本山の寺院。開基は源頼家、開山は栄西。1202年の完成後、応仁の乱で最初の焼失の後もたびたび火災にあっているが、天正年間に安国寺恵瓊が徳川幕府の保護により復興再建。若かりし一休宗純がここで修行したのは有名。 四条大橋は1142年に架けられたという。三条や五条の橋に比べて目立たない橋ながらも、八坂神社への参詣路であり、昼も夜も雨の日も賑わった。木造だったこの橋が鉄製になったのは明治7年。なんと廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材にしたらしいから、この橋を汚すのはバチ当たり。
祇園花見小路の角に「一力亭」がある。大石内蔵助が豪遊したので有名だが、新選組のメンバーや大久保利通、西郷隆盛も通ったらしい。祇園でも別格のお茶屋で、「一見さんお断り」がウリ。現在の女将である杉浦京子さんは同志社大文学部卒の才媛。