少女は見る。
人々が足もとに引きずる大きな黒い影。人の形をした黒い塊。
彼らは自分の足もとにそれがへばりついているのも気がつかず歩き続ける。
黒い影の叫び声が人々を不安に陥れ、恐怖を煽っている。
「誰かに盗まれてしまうかもしれない」
「裏切られた、信頼できない」
「明日は生きていけるのだろうか、食べる物はあるのか」
「隣の国が大量殺人兵器を作ったらしい」
「さっきの無言電話はなんだ」
一人一人の小さな不安が、叫び声とともに融合しそれぞれの影を太く大きくしていく。
さらに叫び声は大きくなる。
「殺せ」
「邪魔な物は壊してしまえ」
「戦いだ、明日の戦いに備えろ」
少女は影達を見て微笑む。そして問う。
「あなたたちはどうしたいの?」
彼らは答える。
「お前は俺たちが見えるのか。
俺たちは真実になりたい。
そこにある現実になりたい。
だから叫ぶのだ。
叫んで大きくなり、
この世界へ飛び出したい」
それから数年が過ぎた。少女は大人の女性になっていた。
彼女には影達がまだ見えた。
影達ももっと太り大きくなっていた。
だから人々の足取りは以前よりもとても重い。
影達の叫び声はそこら中を覆っていた。
女性は持ってきたキーボードを道に広げる。
彼女の影も少女の頃よりは大きくなっていた。
でも彼女の影は叫んでいたりしなかった。
彼女の指が鍵盤の上を流れる。
そして歌い始めた。
「歌え、体中の喜びを。
歌え、明日の希望と楽しさを。
ほんのわずかな望みがあれば心安まる時がある。
歌え、叫びや泣き声消そう、歌い、腕を差し出そう。
ほんの一瞬、恐怖を消そう、眠れば心が癒えるだろう。
歌え、人の信頼を。
歌え、恋人への愛を。」
付近の叫び声はやみ、影の厚みは紙より薄くなる。
彼女の歌が聞こえる世界では人々の足取りも軽い。
彼女は歌い続ける。
いつか世界中の影達が叫ぶのをやめるその時まで。
もし世界中の人々が歌い始めたら、そのときこそ影達は黙るのだ。
人々が歌い続ける限り。