◎記憶に棲む魔物

第一話 魔女

彼女がこの街に現われたのは五月の初めごろ。商店街の裏側で住宅が密集したところに建っている一軒家に彼女は移り住んできた。

彼女は常に雨か曇りの日に外を出歩いた。晴れの日にはカーテンを閉め切り家の中から出てこようとはしなかった。もっともこの年は冷夏で五月も早い時期から雨が降り続いていた。気象庁の長期予報も夏の訪れを待たずに秋の台風シーズンを迎えるのではないかと言っており、農家の間では米の不作もささやかれていた。降り続く雨の中に出歩く彼女の姿を古くから街に住む多くの住民が目撃している。

娘は出歩くときはいつも足下まで届く白いレインコートを身にまとい、少しの光も拒絶するかのような大きな帽子をかぶっていた。一人暮らしをしているらしく食料や生活必需品を近所の店に買いに行く。たいてい一人では食べきれないような量の食料を買い込んでいくので店の従業員はいぶかしんではいたが、おおむね良いお得意さんであると考えていたようだ。

「あの娘、最初見た時は外人さんかと思ったのよ。髪は白いでしょ、眼も黒くないじゃない。でも話をしてみると流暢な日本語をしゃべるでしょ。世間話もよくするようになったのよ。悪い子じゃないとは思うわ」

街を歩けば目立つ毛色の変わった娘だが、話をしてみればごくごく普通の女の子に見えると最初のうちは皆思っていたのだ。しかしその評判を一変させる事件が五月の終わり頃に起きたのである。

どのような治安の良い街でもそれなりの人口があれば、心の中まで下卑た若者の集団というものがいるものである。この街は地方都市の傾向として何処にでも見られるようなドーナッツ化現象に見舞われていた。街の中心部にはスラム化したブロックがあり、そこに道を外れた行動をする幾つかの集団が生まれてきていたのである。若いうちに分別を知らされずそのまま大きくなったわけなのだから、その分別を教えてこなかった者も悪いとは言えようが、それを望まず努力しないという選択をした者にも責任はあるのだろうか。

彼らの中でも凶悪なグループの一つが彼女に目を付けた。年齢は判らないが非常に若い女性で一人暮らし、しかも働いている様子はないのに金払いは良い、つまり金を持っている。彼女を拉致するなり、家に押し入るなり、誘拐するなり、ともかく行き当たりばったりだったけれども成り行き次第でどうにかなるだろうと無計画に彼女を襲うことにしたのである。

やはり雨の夕方だった。いつものように買い物袋を手に提げ家に向かって彼女が歩いている時である。彼女を挟むように通りの両側から若者達は彼女に走り寄った。通りを歩いていた街の人達がそれに気づき叫び声をあげた。白いレインコートの若い娘が若者達に襲われそうになっているのだ。すぐさま警察に電話している人もいた。電話した人は気が気ではなかったかもしれない。一番近い交番はたいてい無人だったし、警察署も郊外にあってパトカーで飛ばしても渋滞に巻き込まれすぐには着かない。自分たちの力だけで暴力的な若者達に対抗できるとも考えられなかったし。

二人の男が娘の腕を掴もうと飛びかかる。彼女はそれをこともなげにかわした。そして次の瞬間には二人とも地べたに倒れ込んでいたのである。彼らの膝は砕かれており、もう一度立ち上がって暴力を行使しようなどできそうにもなかった。彼女は身を翻すなり彼らに蹴りを放っていたのだ。

「なんだ、この女」

「生意気な奴だ。捕まえろ」

残りの若者達は怒号を発しながら彼女に襲いかかっていった。倒れている二人の痛みなどは知るよしもないから、二人を助け起こそうともしない。そこに居た若者達は全部で十人だろうか、そのうちの三人はナイフを取り出そうともしていた。

彼女は買い物袋を道ばたに置き、傘を立てかけ袋の中に雨水が入らないようにした。瞬時のこととはいえ彼らはひるんでいたのである。それだけのことをする余裕が彼女にはあったし、ひるむ、つまり彼女におそれを抱いたからこそナイフを取り出したのだ。彼女は身構えることもなく彼らに立ち向かった。

むしろ襲いかかったのは彼女の方だったかもしれない。若者達を同時に複数相手にしないように立ち回り、一人ずつ一撃で戦闘不能に追い込んでいった。それでも避けきれなかったのか、若者の一人が持つナイフが彼女の背中につきたてられた。若者は勝利を確信したはずである。しかしナイフはつるりとレインコートの表面沿いに滑っていった。彼がそれに気を取られている間に腹部へ娘のつま先が突き込まれていた。

一人の若者だけがそこから逃げ出していた。いや、逃げ出したと見えたのは誤りだ。少し先に停めてある自分のバイクに飛び乗り、それで彼女を轢き殺そうと思いついたのである。バイクは加速を増し彼女に向かっていった。

近づいてくるバイクを彼女は避けるそぶりも見せなかった。若者達の間を機敏に立ち回った彼女のことだからかなり接近するまで避ける必要もないのかもしれない。

バイクに乗った若者は娘にバイクごと体当たりすることに躊躇していなかった。今までにそういうシチュエーションを何度か経験していたのである。倒れている仲間は娘とバイクを結ぶ軌道上には居なかったし、たとえ娘が逃げ出しても、あるいは仲間を楯にしたとしてもそのままぶつかっていくつもりだった。

あと二メートルで娘と接触という時だった。若者は娘の前に男の影が現れたのを見た。どこからともなく突然にである。その直後若者は見えない壁にぶつかりバイクもろともはじき飛ばされていた。あれだけの衝撃でも死ななかったのだから幸運だったといえるのかもしれない。全身の骨が死なない程度に砕かれていたことをのぞけば。

彼女は何事もなかったのように傘と買い物袋を拾い家に入っていった。

バイクに乗った若者の行動の方が注目を浴びていたこともあり、そのそばで起こっていた拳銃の発砲事件については警官が到着し捜査が行なわれるまで誰も気がついていなかった。

警官隊や救急が到着して倒れている若者達を収容しているときのことである。少し離れたところに倒れていた一人の若者が拳銃を握りしめたまま意識不明になっていた。拳銃には発砲したあとがあり、しかもその銃弾は若者の肩と右腕の親指を撃ち抜き、更に、発砲したはずの拳銃にめり込んでいたのである。若者は血を流していなかった。若者に残された銃創は熱く焼けた鉄の棒で貫かれたかのような真っ直ぐな孔になっており、そしてその孔の側面は黒く炭化していた。若者の放った弾丸は瞬時に彼の後に回りこみ、彼自身を貫いたように見えたのである。

若者が倒れても拳銃を放さなかったのは偶然ではない。熱で溶けた弾丸が彼の右手と拳銃を縫いつけていたのだ。放したくても無理というものだったろう。

事件の中心人物となった娘は警察署に呼び出されたが、すべての物的証拠が彼女の自己防衛を正当化していたし、不可解な目撃証言があったにせよ、それは彼女自身の犯罪性を示す物ではなかったため、すぐに帰ることを許された。若者達の保護者の一部には、彼女を過剰防衛で民事裁判に訴えようという動きもあったのだが、若者達の非を示すものが多かったのでそれには至らなかった。

このありさまを目撃していた街の人達は娘を賞賛の眼で見ていたのだ。臆することもなく不良達に立ち向かい、そして見事に打ち負かしたのだから。ただバイクの前に突然彼女を守るように現われた男は非常にまがまがしいものに見えた。しかも現われたときと同様、かき消すようにその場から居なくなった。見た人達はそれを悪魔だと思った、そして娘はその悪魔と契約した魔女なのだ、と。あっというまにその噂は街に広がっていった。

本当に彼女が魔女かどうかはともかく、それからの彼女の生活はそれまでと変わりなく続けられた。幸いなことに商店街の人達は彼女を差別しようなどとはしなかったのである。あの事件以来、街の治安が一挙に改善したこともその一因だろう。普段の生活が脅かされず街の人々に危害を及ぼす可能性がないのなら魔女は街にいて良いのである。

第二話 隙間から這い出る蟲

祐介は同期の美輪が蒼褪めた顔で食堂に現われたのを見て心配になった。このところ美輪はほとんど彼女の研究ブロックに閉じこもりマンションにも帰っていないようだった。

「大丈夫か?」

美輪は祐介の隣の席に座ろうと食事の乗ったトレイを置いた。椅子に腰掛けると言うよりは体を支えきれずに崩れ落ちるという感じだ。

「祐介の力を借りるかもしれない」

美輪は座り込むなり言った。

二人の勤める国立防衛戦略研究所は防衛庁の独立法人だったが、総務省や内閣府からも資金が出ている比較的金には困らないシンクタンク組織だ。名称の通り他国の侵略やテロ活動からいかに国土を防衛するかを研究する組織体だ。二人はその研究所のソフトウェア防衛室勤務だった。ただ、美輪の方はより機密性を要求される部署におり、彼女は自分の仕事について人に話すことはなかった。

美輪は所員の中でもトップクラスのソフトウェアエンジニアであり、彼女と肩を並べる実力を持っているのは祐介ぐらいのものだ。そんなことも二人を近づけさせる理由となって、一時期二人は一緒に暮らしたこともある。ただ、どちらも自分の時間を削ってまで相手と一緒にいようなどと思う性格ではなかったこともあり結局は別れてしまったのだが。

「祐介の仕事が止まってしまうかもしれないけれど、緊急だから、ゴメンね」

あとから上司を通じて正式に依頼があるだろうとのことだった。その時はまだ二人がかりならどんなことでも解決できるだろうと祐介は高をくくっていた。

その日の夕方には辞令が出て一時的にということで美輪と同じ部署に異動になった。終わり次第戻るという話だったが、それがいつになるのかは誰も知らなかった。見通しが無い状態らしい。

その施設は研究所の一番山側にあった。窓一つ無い建物で、中に入る時にも完全に外部から密封できるドアを何度も通り抜けなければならなかった。祐介は美輪の研究室に案内され、その施設の目的を聞かされることになった。

多層多重CPUと大容量超高速メモリ、必要に応じて設置された無限大に近い外部記憶装置。これが数百の単位で構成された日本最大の並行処理超計算機が設置されていたのである。装置は超低温下に置かれ処理スピードも可能な限り高速が得られるようになっている。そして、それを維持するための電力源が最高の機密だった。超小型の原子力発電なのだ。

「さすがにこれは公に出来ないな」

祐介は納得した。

この施設の建造自体も研究の目的だったが、さらに課題とされていたのがネットワークによる攻撃方法の研究だった。コンピュータネットワークにおける防衛が目的なのではなく、他国への侵入や破壊行為を行なう方法を研究していたのである。

「ときどきネットワークを外に繋いでる。二回ほど実際に某国を攻撃したこともあるのよ。このシステムの解析能力と破壊方法の選択計算は完璧だったわ。でも先月からおかしいの」

五月になったばかりの頃だ。また外部接続を試みて、今度は別の国を攻撃しようと準備しているときのことである。美輪の上司がモニタ画面を見ているとき突如彼が恐慌をきたしたのである。彼が何をモニタに見たのかは判らない。それまでの冷静な彼はもう存在せず、知ってはならぬものについての恐怖を語り続けるようになってしまったのだ。

責任者の不在で外部接続は延期されたのだが、どうもそれから装置の調子が良くない。突然或るモジュールが暴走を始めたり、奇っ怪な映像がモニタに表示されたりする。スピーカーから奇妙で関わらず耐えられない音が流れ出たり、ぶるぶると振動し煙を上げる端末も発生した。正常動作していた時からなんらソフトウェアやハードウェアの変更をしていないにも関わらずである。

ソフトウェアバグと、外部接続されたときのウイルス侵入の二つの原因が予想された。ハードウェアは総点検の末に問題なしと結論されていたからである。美輪達スタッフはソフトウェアの総ざらいをしていった。しかし何も見つからないのだ。

「バグバスターマスターの絶絵子さんを知ってる?」

バグバスターというのはソフトウェアのミスを捜してそれを潰す専門の人のことだ。コンピュータを使う人の間ではソフトウェアのミスをバグ、つまり蟲と呼ぶ。蟲を見つけて潰す専門の職業の人達が居て、彼らをバグバスターという。絶絵子というのはその業者の中でも最高級の才能を持った個人請負人である。絶絵子の前に蟲はいる、絶絵子のあとに蟲はいない、などという冗談も作られたことがあるくらいだ。

「彼女を雇ったのよ。でも彼女は断言したの。『私の見える所に蟲はいないし、ウイルスや危険なものはいない』って」

「全部見せたのか?」

「全部。彼女はここで何が行なわれているのか、何もかも知っている人の一人。彼女には悪いけど、これからはずっと監視されるでしょうね」

つまりソフトウェア的にもこのシステムが問題ないということだ。

「でも何か起きているんだろう」

「そう。彼女の前でもトラブルは起きたの」

絶絵子は言ったそうである。そこにある蟲は私に取り除くことはできる、しかしどこからともなく現われる蟲は駆除は出来ても発生させなくすることはできない、と。

「どこからともなく現われるのか?」

「そう、メモリダンプを取ってみたの。見て」

祐介はメモリダンプされたモニタを見た。英数文字の羅列だ。ところどころどこかで見たような文字も見える。cthulhu?

「アスキーコードじゃないか」

アスキーコードとは英文字で表現できるデータのことで、人はそれを文字として読むことができる。

「そうなの、システム傷害を起こすのは全部アスキーコードで書かれたウイルス。見事よね7ビットだけで意図したように誤動作させるんだもの。しかもどこから来たのか判らない」

アスキーコードだけを使用しているというのは、それを作るのに本来の半分以下の命令コードしか使えないという制約があるわけで、それを作った人物は偏執狂的天才といえるかもしれない。

メモリダンプを取ったときにそれがあるのだから、どこからかメモリ上に持ってきたものが居るはずである。しかし、メモリを監視しても突然それが現われたかのようにしか見えないのだ。

これじゃ確かに美輪のスタッフ達が疲弊して倒れてしまうのも理解できる。追っても対象がいないのだから。

「みんなが倒れたのは疲れているからだけじゃないの」

時折、モニタが乗っ取られ奇怪な絵が表示されるのだそうだ。またスピーカーから流れる音も人を狂わせるのだそうだ。

「スピーカーは消音にして、しかも配線を切ってあるのよ。端末のどこかの部品をスピーカーへの出力に使っているみたい。だからもうスピーカー自体を全部取り外してしまってる」

「配線を切ってもスピーカーの音を鳴らせるのか?」

鳴らせるのである。

「原子力発電さえ使ってなければ緊急ということもなかったのよ。でも発電の制御もこのシステム自体がやっているから」

「いつ、暴走するか判らないと。じゃ電源を落として個別に点検ということは出来ないのか」

「出来るわけ無いわ。電源を落とすと超低温を保持する電力が無くなる。そうするとほとんどの部品がこわれてしまう。維持するためだけに外部から電力を取り込もうとすると施設に孔を開けなきゃいけなくなる。孔を開けて電線を引いた段階でセキュリティの孔が出来きちゃうから施設の価値がなくなる。つまりうまく動いていた時点の状態に戻せないと研究所の機能は停止、私たちも首になってしまう」

「身分保障の問題じゃないだろ」

祐介はたまらず怒鳴った。

「そう。ごめん。本当のことを言うわ。もう発電制御自体がこちらから出来なくなってるの。その区画だけ爆発的にウイルスが発生して駆除できなくなってる。メモリのクリア自体ができないの」

「発電区画に人が入って停止させれば」

「ウイルスにブロックされてるのよ。テロ対策のために外からの侵入破壊が厳重になっているから物理的な方法も取れない。しかも発電区画をモニタしているカメラも制御を取られて、今どういう状態になっているか目視することも出来ないの」

つまり、駆除してもどこからか現われる蟲達をなんとか絶滅させないことにはいけないということなのだ。

二人は協力して原因の究明に当たったが手がかりは得られなかった。祐介は研究所の上司達に提案した。

「わたしは最高のプログラマを知っています。その人を呼んで手伝ってもらいましょう」

「誰かね、それは。これに確実に対処してくれる人物でないと困るよ。この間のような看板倒れじゃ駄目だからな」

「もしその人が対策できなければ施設を潰すしかないでしょう」

祐介はその人物の名前を言った。上司の中には知っている人も居たようである。

「各地を放浪しているのではないのか? 捕まえることができるのか?」

「ええ、実はすでに探し出して連絡をしてあります。もうこの街に来ていてくれているかもしれません」

第三話 魔法遣い

たぶん磨けば綺麗な女性なのだろう。が、見てくれは良くないのだ。直毛のロングなのだが、なんとなく白っぽく薄汚れていてぼさぼさ。夏ももうすぐやってくるというのにすり切れそうな厚めの上着にジーンズ。足もとは登山靴だ。これだけは真新しい。ついさっき買ったばかりじゃないかとも思われた。

市電の席に座ったその前には寝袋付きの大きなバックパックが置かれている。これまた過酷に扱われたのか汚れと傷みが激しい。

市電が次の駅に留まり客が乗ってきた。客席はほぼ満員、そこへおばあさんが一人乗ってきたのだ。考え事をしているのか遠いところを見ている風の彼女はおばあさんに気がつくとすぐに席を立って譲った。年寄りには席を譲れとちゃんと教育を受けてきたのだろう。

「ありがとうさんね」

おばあさんは女性に声をかけた。

「これからどこへいきなさるの?」

「あたしですか。今日からしばらく泊まれるところを探そうと思ってるんです」

「あら、こっちの方には旅館もホテルもないわよ。駅の方まで戻らないと」

「いいえ〜、どこか雨さえしのげるところがあれば、そこで寝袋にくるまって寝るつもりなんです。公園でも軒下でも土管の中でも。でも今どき土管なんてないっか。えへへへ」

「あらまあ、だめよ、あなたみたいなお嬢さんが野宿なんて。うちに来なさい、泊めてあげるから」

「えっ、ほんとですかぁ。お庭貸してくださるんですか、ありがとうございます」

「なにいってるんですの。わたしの家の中に泊めてあげるって言ってるの。子供も都会に出ていって帰ってこないし、おじいさんももうお墓に入っちゃったし。若い人が来てくれるとうれしいわ」

「え、そんな悪いです。お庭で結構ですよ。あたし、番犬の代わりします。わんわん」

彼女が犬の鳴き真似をすると車内から笑いが起こった。

「それにあたし悪い人かもしれませんよ、大丈夫なんですか」

「いいんですよ。先も知れた年寄りですからね。何があっても覚悟はできてるのよ。それにあなた、身なりは汚いけれど信用できると思うわ、長いこと生きてきた勘だけれどね」

「すいません。宜しくお願いします」

「あなた、お名前は?」

「紅玉です」

「こうぎょく? ああ、林檎の紅玉さんね。りんごちゃんってお呼びするわね」

「へ? はあ」

「りんごちゃんは学生さん?」

「いえ、プログラマです。あ、コンピュータのお仕事です。こちらにはお手伝いできたんです」

「お仕事なのに野宿するつもりだったの」

「いつもそうやってるもんですから、慣れちゃって」

「あらまあ。でも若い人はいいわね。何処へでも行ける。わたしの子供達も出ていったっきり帰ってきやしない。たまには顔を見せに来て欲しいものなんだけれど」

「お子さん達、ちゃんと帰ってきますよ。うん」

「ありがとうさんね」

二人は市電を降り、紅玉はおばあさんの家に連れて行かれた。おばあさんは紅玉を部屋に案内したあと、さっさとお風呂の準備をしてしまい無理矢理風呂場に押し込んだ。

「ゆっくりはいってらっしゃい、良く洗うんですよ。洗濯もしておきますからね」

紅玉が風呂から出てみると、持ってきていた衣類は全部洗濯されていた。バックパックも含めてだ。寝袋もである。その代わりこれを着ろという感じで女物の服が用意されていた。あのシュラフ、洗われちゃったか、もう使えないなぁと思いながらおばあさんの前に出ていく。

「やっぱり、あなた洗うと綺麗なのね。それによかったわ、娘の体、おっきかったからダブダブかもしれないけれど着られるわよね」

確かに胸回りも、さらには胴回りも随分余裕があったけれど。それも服が乾くまでの話。

「そうそう、わたしの子供達、さっき電話がありましてよ。お盆には孫を連れて帰ってきてくれるんですって。わたし嬉しくて嬉しくて。あなたは幸運のりんごちゃんだわ」

紅玉はおばあさんの作ってくれた御飯を一緒に食べ始めた。一宿一飯の恩義に対しては相手が喜ぶお礼をしてあげるのが彼女の礼儀なのだ。

第四話 魔法が届かない世界

祐介は紅玉と名乗る女性が尋ねてきたというので研究所の入り口近くの応接室まで急いだ。祐介が応接室に入るとそこには祐介の知らない女性が座っていたのだ。応接室は何室かあるので、部屋を間違えたのか、それとも別人が紅玉を偽っているのかと思ったのだが。

「はい、久しぶり。わたし、紅玉」

祐介は二度ほど前に勤めていた会社で紅玉と仕事をしたことがある。そのころの彼女と言えば話し言葉以外のジェンダーというものをことごとく破壊したような存在だったのだが、今日現われた彼女は女性の服装をしているのだ。しかも、髪は整えられ化粧までしているように見える。あまりに前と印象が異なるので違う人物に見えたのだった。

「どうしたんですか、その格好は。って久しぶりに会うにしてはとんでもなく失礼な言葉ですけれど」

「街で会ったおばあさんのところに泊めて貰って居るんだけれど、この街にいる間はこのお洋服を着なさいって頑固に言うものだから。へんな格好でしょ。スカートなんて初めてはいたもの」

祐介が概要を紅玉に話し終えると、所長と事務局長、ソフトウェア防衛室長のトップレベル三名の男性が、祐介が肩書きを知らないもう一名の男とともに応接室に入ってきた。

「このあと話すことは最高機密だ。外部で漏らさないという念書をここで書いておいて貰いたい。機密漏洩の際には巨額の損害賠償が請求され、国家機密法及び国家公務員の秘密漏洩の罪で告訴されることになる」

「署名はしません。署名を条件にされるのでしたらお引き受けいたしません。わたしは自分の良心に従って沈黙を守ります。もし、良心に耐えられないようなことがあれば公表することを明言しておきます。そんなに黙っていて欲しいことをここでやっておられるのですか?」

厳粛な表情をしていたお偉方が紅玉の態度に激高したのを見て祐介は決裂だなと思った。所長は紅玉にすぐさま出ていくように怒鳴っている。彼女の助力を得られないなら自分たちの地位が失われることを彼らは知らないのだ。それに彼女は様々な世界に強力なコネを持っていて、彼女を潰そうとすれば返り討ちに遭うことも知らない。

一人冷静に座っていた祐介の知らない男が騒ぎ立てる人達を制し、口を開いた。

「紅玉さんをお招きすることに賛成したのは私です。今までにも何度も重大事件の時に助けてくださったしここにいる誰よりも信頼の出来る人物であることは承知しております。」

「腐れ縁よね、あなた」

紅玉が言うと男は軽くうなずいた。

「紅玉さんが公表したいことがあれば紅玉さんの良心に従ってしてくださって構いません。それが理由で誰かの首が飛ぼうと紅玉さんが叱責されることもありません」

彼のその言葉でこの件については決着がついてしまった。

詳しい話は現場の人間から直接ブリーフィングを行なうということになり、現場に向かうことになった。祐介は紅玉を施設に案内している時に尋ねた。

「あの男は誰なんです? 面識があるようでしたけれども」

「内閣調査局の人ね。長官より権限持ってる人」

いくつもの検問を通り抜け施設の中の会議室に入っていく。すでに美輪を含めた主要メンバが揃っている。

挨拶もそこそこに紅玉への説明が始められる。

「じゃ、どこかから勝手にメモリへロードされるその未知のプログラムは次第に悪意を強めてきているということね。しかも原子炉の制御まで乗っ取ろうとし始めている」

それを防衛しようと努力しているのだが、相手はゲリラ的にメモリに現われ、スタッフに対しても直接的な妨害を行なうのでどんどん防護壁がはがれていくのだということだ。

「絶絵子も、見えるところにはバグはいない、って言ったんですよね?」

「どこからそれを。誰もまだ話していませんが。絶絵子さんから?」

「ここの研究所の報告書を覗き見させて貰いました。今まで教えていただいたことはもう知っていることなんです。わたしは絶絵子さんと面識はありませんが、彼女がそういったのなら本当にそうなんです」

「ではどこかから湧いて出てくるって言うんですか。四次元空間とか時空の狭間とか」

「はい」

冗談で言ったつもりの発言者はあっさりと肯定されたので笑うに笑えなかった。

「絶絵子さんの見えるところには居ないのですから、見せていないところがあるはずです。それはどこでしょうか? 誰かの端末にありませんか。どこか切り離されたところにハードディスクやシリコンディスクがありませんか」

「彼女には接続可能なすべての端末を走査して貰ったんです。気がついた物は全部見て貰いました」

「このシステムの本体自体は? 何か特殊な配線や部品が付加されたということはありませんか」

「ハードウェアをいじるためには超低温に保持された区画の室温を上げなくてはいけません。低温であることを前提に作られた部品もあるためやったことはありません」

「メンテナンスはどうするの。壊れない部品なんてないでしょう」

「ほぼすべての部品が二重化されています。メモリやCPU、DSP、外部記憶、配線に至るまで二重化がされていて必要なときにはバックアップができます。でも、今のところメンテナンスはありませんし切り換えたという記録はありません」

「その二重化されたシステムはこちらからは見えないのね。じゃ、そこに居るんだ」

「しかしすべてのバックアップCPUは停止していますよ。見てください」

モニタにシステム全体の構成図が表示される。赤と青の無数の点が表示される。

「赤がバックアップで青が起動中を示しています。バックアップのCPUで動いているものがあれば輝度の高い白で表示します。一つもないんです。バックアップシステムが動いているとして電力配給があれば電流量も上がるはずですがそれも一定量でかわりありません」

ハードウェア的にも問題がないのだというのだが、紅玉は納得していなかった。OSを含めた総てのプログラムはソースコードばかりではなく、実行形式のそれも逆アセンブルして解析済みである。実行形式のプログラムがメモリにロードされるときに改変されている可能性も否定できないので、メモリのダンプもすでに取られて正しいことが確認されている。だから紅玉はハードウェアを疑っていたのだ。

しかし、多少人よりはハードウェアについて知っているとはいえ、本来的には興味の対象外であり、興味の無いことについては手を出さないのは魔法遣いの常であった。しかも、ほとんどの部品がこの研究所の内部で作られたという特製のものばかり、設計図を見ても判らないことばかりだし、なにか重要な情報が潜んでいてもそれに気がつかないだろう。紅玉も絶絵子と同じく、突然現われる意図しないプログラムに対する対症療法は施せても、根絶させる能力を持たないのである。

紅玉はすでに作戦を決めていた。このシステムを破壊するのだ。そうすれば情報を漏らす必要もないし邪悪なシステムの存続を許すことによる良心の呵責も感じない。そしてその破壊者には適任の人がいる。破壊と創造の神、シバのような人物が。

第五話 召喚

下宿先のおばあさんに朝の挨拶をして紅玉が研究所に向かって歩いていく。その日はいつもよりひどく雨の降る日であったが完全防水の登山靴を履いた紅玉は足もとの水たまりに踏み入れるのがとても楽しかった。アスファルトのくぼみに出来た次の水たまりに踏み込もうとして、そこに映る白い影を認めた。顔を上げる。

「こんにちは、紅玉さん」

街で魔女と噂されている娘だった。いつものように白い傘と白い帽子、白いレインコート。白ずくめの少女が紅玉を待ち受けていた。

彼女こそが紅玉があてにしている破壊者である。彼女は国内だけでも原子力研究所の占拠事件や国家事業でのネットワーク監視システムの破壊工作事件を起こしている。後者の事件では紅玉も巻き込まれた。国外でも彼女の仕業と噂されている事件は数多い。ソフトウェアの作成能力は紅玉とほぼ同じだが、そのロジックが誰よりも卓越しているのである。ハードウェアにも精通していて、この点についても紅玉の能力を凌駕していた。一匹狼のような生活をしている紅玉ではあったが体制内から出ようとはしない側に常に居るものからは、彼女は敵ではあった。見かけ上。

紅玉は彼女に微笑んだ。紅玉が彼女を必要としているから彼女は現われたのであり、彼女は紅玉が願っていることをしてくれるはずである。彼女にとっても紅玉が必要で、見事に利害が一致しているのだ。

二人は一緒に研究所まで歩いていった。雨の話をした。互いに雨の降る日が好きなのだ。

研究所の門に着く。紅玉が昨日手に入れた身分証明書を片手に門番に見せ中に入る。少女は紅玉の横に並んで入っていくのだが門番は気がつかない。問題の施設の入り口のセキュリティも紅玉と一緒に通る。一人一人厳重にチェックされるはずのセキュリティも少女だけはフリーパスかのように反応しない。紅玉はそれを不思議には思わなかった。紅玉もこの程度のセキュリティなら破って侵入する方法はいくらでも考えつくからだ。おそらく、用意周到に準備しており、紅玉が一緒にいるということも利用してセキュリティを破っているのだろう。

そういえば少女はいつのまにか傘を持っていない。紅玉が施設の入り口で傘立てに立てたときにはもう持っていなかったような気がする。折りたたみでもない立派な傘なのにそれを何処にやってしまったのだろう。セキュリティ破りよりむしろそのほうが気になった。

端末が並ぶ研究室に少女を連れて入ったとき、ようやく見知らぬ者の侵入に気づいた。

「紅玉さん、誰ですかその子は」

主任の美輪が叫んだ。紅玉はそれには答えず宣告を行なった。

「今からシステムを停止させ、蟲を完全に駆除します。システム停止にあたり施設内の総ての装置を破壊します。承認の必要な方々をここに連れてきてください」

「あなたの仕事は原因究明と現状復帰だけのはずです。システム停止や装置の破壊などをする権利はありませんよっ」

紅玉はポケットから折りたたまれた紙を取り出し、それを広げて見せた。そこには首相名でこの件に関する最終決定権を委ねる旨が書かれていた。

「ウイルスの駆除自体、もう追いつかなくなっています。このまま総てのシステムが乗っ取られた時、何らかの悪意が働いて私たちを脅迫することになるでしょう」

「悪意とはどういう意味ですか。誰かがこれを裏で操っていると?」

ソフトウェアは心を持たない何物かなのだが、それがあたかも悪意を持っているかのように人に働きかける場合がある。しかし今回のことには当てはまらない。単なるテキストデータが動作可能なプログラムに変容してしまうことなど偶然ではないし、そのテキストデータの中身がラブクラフトやその末裔達の小説であるというのは現実的に有り得ないことのだ。これが、今、この時を狙って太古から用意されてきた巨大なる悪意の結晶なのだと信じさせる根拠なのだ。本来の彼らの力が発動する前に消し去らなくてはいけない。悪意が悪意として現われたときには遅いのだ。

ここのシステムを完全に乗っ取った暁には、外部との通信が出来るように命令してくるかもしれない。もともとのシステムの持つクラック機能を存分に発揮し、自分自身を全世界に拡大させるためにだ。それを拒否することはできない。核施設を所有しているからバケツでウラン事件のように近隣へ瞬時に中性子を飛ばし、数キロ先までの生命を根絶やしにすることも可能なのだ。

そんな夢物語のようなことを信じさせるには証拠があったとしても、普通の生活をしている一般の人には時間が足りなかったのである。事細かく説明するより、ともかく手を打つことだ。紅玉は自分に与えられた権力を行使することにしたのである。

「ハードウェアの担当者の方は必ず連れてきてください。私たちは先に作業に入ります」

その時、通報によって三名の男性警備員が研究室内に飛び込んできた。職員達は二人を指さし捕まえるように叫んだ。

しかし少女の方が先に状況を作っていた。突入したときにはすでに警備員達に駆け寄っており、彼らを打ち倒してしまう。どこからか取り出したナイフで彼らの武装解除も手早く行なっている。

「紅玉さん、護身用に短銃を持ちますか?」

少女の、ハスキーだが若さを実感させる高い声が響いた。警備員から奪った短銃を使うかどうか尋ねたのである。

「わたしが持っても危ないだけだからいらないわ」

それを聞いた少女はナイフを短銃に使った。二三の塊になり床に転がる。

すぐさま、少女は紅玉を守る位置になるように、紅玉が使っている端末の横に陣取った。そしてマジックのようにどこからともなく黒い立方体を取り出した。紅玉はそれをみて驚き、興奮して少女に尋ねた。

「それが白雪姫?」

少女はうなずいた。その黒箱はコンピューターで、アーキテクチャーが現代流通しているものとは根本的に異なるものである。現在確認されているものでも三台しか作られていない。その一台は国立情報研究所に置かれていて今もなお解析されている最中であるが、クローンの作成には成功していない。紅玉は話には聞いていたがその実物を見たことがなかった。ハードウェアの解析自体現在進行形だったからだ。基本設計はこの少女が行なった。少女の持ち物は白雪姫とコードされ、物理設計者が持っているものが眠り姫とコードされている。情報研究所に残されたもののコード名は不明のままだ。

少女はゴーグルのようなものを紅玉に渡した。

「SW、エスヴェーっていうのはこの子、白雪姫のことだけれど、SWを無線でここのシステムに繋げます。SWを経由してシステムにアクセスするので、これを使って画面を見てください。キーボードはその端末のものが使えます」

紅玉が眼鏡の上からそれをかけると今使っていた端末の画面映像が目の前の空間に映し出された。

「これから全システムを私たちが制圧します。彼らはメモリの裏側に潜んでいますから、そこから漏れ出さないようにするためにも遠いところから始めて順次メモリの石を破壊し、最後には総ての部位のメモリを破壊します」

「メモリの裏側?」

紅玉の宣言を聞いた美輪が尋ねた。

「このシステムは総てが二重化されているんです。メモリも揮発性のものの裏側に不揮発性のメモリが用意されていて同じ空間を占めているんです」

「でもどこのメモリに何が格納されているのか管理しなきゃいけないし、それが判ってもそのメモリにプログラムカウンタを移動させられないと駄目じゃない?」

「そう、だからCPUのキャッシュメモリにも巣くっているんです。だからメモリを破壊したあと、CPUも根刮ぎ破壊します」

「それは本当のことなんですか、朝霧さん?」

美輪が尋ねた相手の朝霧はハードウェアの責任者だ。呼び出されてやってきていたのだ。

「そうだね。二重化とバックアップは総ての部位で行なわれている。しかしこれは機密事項でその仕様も動作方法も公開していない。だのにどうしてをれを使うことが出来たんだね」

システム構築に使われた部品は部位毎に最適化され製品仕様が異なっていた。少女がその部品一つ一つのテストを行ない破壊方法を見つけ出したら、それを紅玉がコードにし実行するという方法を取り始めていた。彼らの相手をしながら手を動かすことがちょっと難しくなってきたのだ。少女は紅玉にメッセージを送信しあとの会話は自分が引き継ぐことを伝えた。

「朝霧さんはラブクラフトのファンのようですから説明が省けると思いますが、あの恐怖の存在は本当にいるのです」

「そんなことがありえるわけないだろっ」

「確認できている事実だけを話します。朝霧さんはネットでラブクラフトやダーレス、他の多くの作家の電子文書を購入しましたね。それの記録が残っています」

「その通りだ」

「それをご自分のコンピュータに持ち込み、読んでいましたね。そしてその閲覧ソフトが暴走し、一旦そのコンピュータにウイルスのように取り憑いてしまったのです。それはそのままこの施設内に持ち込まれました。ウイルスはそのノート型コンピュータに付いている無線LANを起動しました。そのころはまだこの施設では無線LANを使っていましたよね。システムがまだ構築中でしたから。それを使ってハードウェアファームを書き換え、それを利用しながら、構築が進むと同時進行でメモリのバックアップ側であるSRAMの方に自分自身を書き込んでいったのです」

「いくらなんでも偶然が重なり続けだろう」

「偶然を必然にするような悪意が働いていたんですね。ここの作業をしていて病気になって離れた人の中で、朝霧さんに近い人の身辺調査をしてみてください。新興宗教に入信している人がいます。その教団は太古の恐怖の存在を信仰しています」

この事件のあと朝霧の周辺の人物が調査され、某教団に関わっている人物が少女の言うとおり数名見つかることになる。

「発電区画の映像が映っているぞ」

紅玉と少女の二人は、通信と中核CPUの制御を奪還し、発電区画への攻撃を開始していた。

発電区画の幾つかの場所を写したモニタ画像を拡大し、炉の状況をチョックしていた発電の担当者が悲鳴を上げた。炉にあるすべての燃料が投入されようとしており許容量以上の核反応が起きようとしていたのだ。

「みんなすぐ避難しないと被爆してしまう」

炉心融解より自分の命の方が優先事項だという言葉だ。

紅玉が横目で見ていた発電区画を映すモニタの一つに人の影が現われた。そこにいた人の多くはそれを目撃していたはずだが、人と認識できるかできないかの間にモニタ画面が消えてしまった。モニタだけではなく部屋の明かりも、そこにあった電気を使うものはすべて停止した。停電だ。

緊急避難用の非常電源が起動し最小限の明かりが戻ってくる。施設内に居た人達は外へ避難し始める。核施設がどうなっているのか気になりながらも、自分が生き長らえるために動くことの出来る間にできるだけ離れようとするのは当たり前のことだ。

紅玉が一人残った。部屋の明るさが戻ったときには少女は消えていた。紅玉のかけているゴーグルは、もう何も映していなかった。

紅玉はシステムに最後に残った幾つかのCPUを自己破壊させていた。同時に、モニタに映った人物が発電施設を物理的に破壊し給電を停止させたのだ。それによって停電が起きた。低温を維持できなければ多くの部品が壊れてしまい新たに作る以外には復旧ができなくなる。そして少女と、おそらくは発電区画に現われた人物は目的を達したことを確認したうえで消えたのだ。

第六話

対外的にはプルトニウムを持ったテロリストが施設に侵入したとされ、近辺への避難指示が出された。指示が解除されたのは数日後のこと、その時間のほとんどは原子炉の完全停止の確認に費やされていた。

燃料棒は完全に鉛に変化しており、一切の核反応が検出できない状態になっていた。また発電施設のパイプや壁、制御装置はすべてひび割れ、再度発電に使おうにもゼロから作り直すかないまでに破壊されていた。

外に出てきた紅玉を武装した自衛隊員が拘束した。「暴走したシステムを完全に停止させた」と話す以外には質問に答えないまま、異なる部署の詰問者にたらい回しにされたが、一週間も経たずに釈放された。

「おかえりなさい、りんごちゃん」

紅玉はお世話になったおばあさんのうちに荷物を取りに帰った。バックパックや寝袋は洗濯されたときにボロボロになってしまったので新しいものを買ってきた。これでまた数年は持つはずだ。

「いままでありがとうございます。あたしの仕事終わったのでもう出て行かなくちゃいけません。お世話になりました」

「もう行っちゃうのかい。そうそう、りんごちゃんが居ない間にお洋服作ってあげたのよ。娘のお下がりだと大きすぎるでしょう。はい、ほら」

「あの、えっと。私の持ってた洋服は?」

紅玉の荷物から衣類だけが無いのに気がついておばあさんに尋ねる。

「棄てちゃったわよ。ボロすぎて、ぞうきんにもなりゃしないから。だって、洗ったら溶けちゃうのよ、りんごちゃん、もっと良い物着なきゃだめよ」

紅玉はおばあさんの気持ちを察した。この人は自分に女性の格好をさせて出て行かせたいのだ。だから棄てたことにしたのだ。紅玉は与えられた中の一着を身につけた。ぴったりだった。

『しばらくは女の格好で過ごしそうかな』

紅玉はそう思った。