◎複眼

私の身辺に不可解な出来事が頻繁に起きるようになったのは教授からのメールが発端だったように思う。国語古文学研究室を卒業してからも教授との関係は続き何報かの論文も手伝ったことがある。「古きやまとことばで書かれた竹簡を先日、三輪山古墳から発掘した。全文書をデジタル画像にしたものを君に送るからこのうちの後半部分を音訳してくれたまえ」というのがメールの内容だった。やまとことばというのは漢語すら用いない日本固有の言葉だが、ここで教授の言う古きやまとことばとはさらにその日本語のルーツとなる言語のことである、その文字が竹簡に書かれているというのである。漢字はまだ使われず独自の表記文字で記されており、教授の解読例が無ければ私一人では無理だったろう。

私は液晶モニタに画像を表示させながら、音訳をすすめた。その時からである。夜は悪夢にうなされるようになった。得体の知れない恐怖が襲ってくるのだ。家の中も暗く澱んで湿った空気が入り込んでいるような感じで、私ばかりではなく家族の気分まで落ち込んでいるようになった。奇妙な音や臭いも感じられる。

一通り音訳を完成し教授に返信を送ったが梨の礫(つぶて)、電話をしても出ない、大学に連絡をしても居所が判らないという。私は興味本位に竹簡の前半も音訳してみることにした。そうして私は恐ろしいことに気が付いたのだ。くるうる、よぐそとおす? これに記されている言葉はあの忌まわしき書物の言葉であり、ひょっとすると日本で最初の古代音訳本なのかもしれないのだ。わたしは音訳する時に言葉に発しながら書くという癖がある。これに書かれている邪悪な呪文をそのまま口にしていたのかもしれないのだ。

恐怖は存在の具体的な危険から生まれる身体的体験である。しかし私は未知なる恐怖にさらされていた。とんでもないことに巻き込まれてしまった、そう思いながら呆然と液晶画面を見つめた。その時私はモニタの異変に気が付いた。何か画面が蠢いているように見える。良く見ようと画面に顔を近づけた。私は見てはならない物を見てしまったのだ。液晶を構成しているその1ドット、1画素素子が何物かの口となり開け閉めを繰り返していたのである。歪んだ光の三原色を放つ、幾つもの口を奴らは持っていたのだ。私が彼らに気づいたことを知ったらしい。モニタのすべての素子の、禍々しい眼がギラリと私を見た。