暑く寝苦しい夜が続いておりました。人々が少しでも過ごしやすい夜を送れるようにと、神さまが降らせたのでしょうか、それはもう物凄い土砂降りの雨の夜でした。一台のバンが山香と書かれた表札のある家の門の前に止まりました。そして、一人の青年が車から降りてインターフォンのベルを鳴らします。
「はい、山香です」
「今日からお部屋をお借りすることになっています、長瀬と、、」
「あ、はい。お待ちしておりました。もうおひとかたもご一緒ですね。どうぞお入りください」
門が自動的に開きます。青年はバンに乗り込み門の中に入って行きました。
山香桔梗さんは十八歳でありながら、この家の主です。長野県の松本市の郊外にある大きな、お屋敷と言ってもいいようなおうちに一人で住んでいます。
つい半年ほど前までは御両親とお祖父様、お祖母様の五人家族だったのですが、桔梗さんの卒業式に一家総出で出席しようと車で向かったところ、事故に合ってしまい亡くなってしまわれたのでした。
幸い、心底善良な叔母さんがおりまして、残された桔梗さんの世話を事細かに焼いて、様々な雑事や事務の処理をしてくださいました。いっぺんに一人きりになってしまった桔梗さんの悲しみを和らげていただけたのも叔母さんのおかげでした。
叔母さんは桔梗さんに尋ねました。
「叔母さんところへ来て一緒に暮らさない?」
「御親切にしていただいた上に、ありがたいお言葉をありがとうございます。ですけれども桔梗は両親の家に住み続けたいです」
それでは若い娘の一人暮らしは危ないというので、誰か安全でその上頼りになりそうな人はいないかと叔母さんは探しました。そうして見つけたのがこの二人でした。
「ちょっと変で騒がしい人達だけど、叔母さんの知り合いの中でも一番信頼できる人達だから。何か困ったことがあったら相談しなさい」
桔梗さんは二人の部屋と庭の離れにある作業部屋を案内しました。二人はもう大喜びです。
「はっかせぇ、特許料がいっぱい入るからと言って研究所やめちゃって大丈夫なんですかぁ、材料や備品の調達って自分でやんなきゃいけないんでしょ」
「大丈夫じゃ、富士のすそ野もいいが、長野もいいところじゃろう。こんなところに自前の研究室を持ってみたいと思っておったのじゃ。それに調達の方は心配しておらん。ほら長瀬君、君がおるじゃろが」
「はいはい、ぼくも会社を辞めてはかせの助手に専念することにしましたから。一蓮托生ですからね。給料はほんとに忘れずにくださいよ」
「心配なら一年前払いしてやるわい」
なんとも騒がしい人達です。でも青年の方も博士と呼ばれる方も温和そうな表情でしたので少し安心しました。叔母さんの御墨付きとはいえ心配していたのでした。
次の日の夕方には引っ越しの荷物も全部整理がつき、落ち着いたようでした。桔梗さんは二人にご馳走を用意してあげることにしました。実はその日八月三十一日は桔梗さんのお誕生日だったのです。
楽しい夕食でした。二人は桔梗さんの作った料理を美味しそうにいっぱい食べてくれたものですから幸福な気分に浸れました。そして夕食の終わりになって博士が言いました。
「桔梗さん、お誕生日おめでとうございます。お祝いされなければならない人に、ご馳走を作らせてしまってごめんなさい。これはおわびとそしてお祝いのプレゼントです」
ちょっと見ただけでも手作りとわかる箱にリボンがかかっていました。桔梗さんはお礼を言って受け取りました。
桔梗さんはその夜夢を見ました。あの時以来毎晩繰り返して見てしまう夢です。御両親の乗った車が走っているところへ、大きな黒い塊、それは鉄のようにも見えて、靄のようにも見えるそんな塊なのですが、それが押し寄せてきて車を飲み込んでしまう夢です。飲み込まれた時に聞こえる悲鳴は桔梗さんの声なのでしょうか、御両親の声なのでしょうか。
今晩も御両親の車に例の黒い塊が迫っています。逃げて、助けて、と声を上げたいのですが何も出来ません。今晩も御両親の乗った車が飲み込まれようとする、その時でした。
「ぱっぱぱっぱぱっぱぱぁぱっぱっぱっぱぱっぱぱ、そらいけ、安眠製造装置、『悪夢ばくばく君』じゃ。嫌な夢はみなばくばく喰っちゃうぞぉ」
「はかせぇ、いつもながらセンスの無いネーミングですねぇ。それにデザインなら、ぼくの彼女にやってもらえばもっと可愛いのに仕上がったのに」
博士と長瀬青年の声です。象だか犀だか牛だか虎だか、はたまた熊だかわからないような変なぬいぐるみが、ぱっぱか走り出し黒い塊に突進していきます。そしてそれが黒い塊にぶつかった瞬間、塊もろともかき消すようにいなくなってしまいました。御両親の乗った車は桔梗さんのところに近づいてきます。
車はすっと止まり、御両親とお祖父様、お祖母様が降りて桔梗さんを囲いました。
「桔梗、遅くなってしまったけれど高校卒業おめでとう。そしてお誕生日おめでとう」
桔梗さんは御両親に抱きしめられました。泣き声だったのでしょうか、笑い声だったのでしょうか、桔梗さんは自分の声で目を覚ましてしまいました。枕許を見ると昨夜博士にいただいたプレゼントが箱に入ったまま置いてあります。桔梗さんは箱を開けてみました。その中にはあのぬいぐるみの『ばくばく君』が入っておりました。
桔梗さんは二度と、恐く悲しい夢に泣くことはないでしょう。