あれは夏の放課後のこと。僕の通っていた中学校は川の側にあり、二階の校舎からは土手の向こうの流れを望むことができる。だからといって川を見ていたわけではない。校庭で短距離の練習をしているある女の子を見ていたのだ。
彼女が百米のスタート位置に立ち身を屈める。スターター役の子が手を上げて、パン。小柄な彼女の体が空中に飛び出す。小さい鹿がびゅんびゅん跳ねるようにゴールに向かって行く。そしてゴールラインを駆けぬける。
激しく息をしている彼女が僕に気がついた。そして屈託の無い笑顔を見せて僕が臨んでいる窓の下に駆け寄ってきた。「なにやってんの、部活やってないんなら早く帰んなよ」 「本を読んでるから、読み終わるまで帰らない」 僕は今読んでいた振りをした本を見せて言った。彼女は手を振ってまたトラックの方に戻っていった。
僕は時折外を見ながらまた本を読み始めた。外に彼女がいるのに読書になど身が入るはずも無い。いつのまにか本を机に置いて窓の外を眺めていた。
「石黒君、誰見てるの?」 僕はびっくりした。教室に人が入ってきたことに気がつかなかったからだ。同じクラスの吉野真智子だった。「女の子見てたんでしょ。外に石黒君の好きな子がいるんでしょう。ね、誰よ、誰?」 僕の前の席に後ろ向きに座りしつこく聞き出そうとしてくる。「ねえ、好きな子いるんでしょ、誰にも言わないから教えなさいよ」
吉野は三年間同じクラスだったこともあり、女子には人見知りしてなかなか話すこともできない僕が、打ち解けて話せる数少ない女の子の一人だった。でも吉野はいたずら好きだった。席替えで僕の後の席に彼女が座った時など、自分の興味の無い授業になると背中をつんつくするわ、話しかけるわ、くすぐるわ、果てしなくいたずらを繰り返すので怒ったこともあった。
「うん、いるよ」 話すまで必ず聞き続けることを知っていたのでさっさと話してしまうことにした。いつも弾丸のように言葉が飛び出てくる吉野の口が一瞬だけ止まってしまったような気がした。微妙な間だった。「え、誰、それ?」
地区の陸上の大会が近いために、その日は選抜された何人もの生徒達が所属部を問わずに陸上の練習をしているのだ。この中から一人の女の子を特定するのは難しいだろうと思った。
「誰だと思う? 当たったら教えてあげるよ。でなけりゃ絶対教えない」 「じゃあねぇ、渡部さん」 吉野は何人かの女子の名前を言い始めた。その度に僕は違うと答えた。「ねえ、あたしの知ってる子?」 「うん絶対知ってる」 「ええ、誰だろう」 吉野は体を窓に乗り出して自分の知っている女子を探し始めたようだった。「あ、わかった、栗田さんでしょう」 「違う」 「絶対そうよ、あの子可愛いし、男子の憧れだもんね、スタイルもいいしさ。石黒君栗田さんのブルマ見てエッチなこと考えてたんでしょう」 「違うって、栗田さんじゃないよ」 「じゃあ、誰よ、嘘ついてるでしょう、ほんとは栗田さんなんだ」 「違う」 吉野はまた外を見た。そしてぽつんとつぶやいた。「わかんない」
吉野の列挙した女子はみんな確かに男子の間では人気のある子ばかりだった。最後に吉野の言った栗田はその筆頭だ。学年でトップ3の中に入る子は校庭に出ている中では栗田だけだった。
そして僕はわかった。名前をあげられた子たちは吉野の基準で吉野よりも素敵な女の子達だったんだ。だから僕の好きな子の名前が出てこなかった。吉野は彼女を見ていても無意識に除外したんだ。見ていないわけがない。だって吉野が窓に現われた時に彼女が下から吉野に声をかけてきて二人は手を振りあったのだから。彼女みたいに苛められっ子で成績も悪くて宿題もやってこないし先生にはいつも怒られていて一般的な基準に照らして容姿が良いとも言えず元気さだけが取り柄のちょっと抜けた女の子が好きだなんて思いもしなかったのかもしれない。
「一二年生じゃないよね」 「うん、違う」 そう答えた時、ちくんと胸が痛んだ。
好きな人の名前を思い浮かべただけでドキドキしたことがあるだろうか。ましてや顔を思い浮かべようものなら、しばらくの間は何も手につかなくなるようなそんな思いをしたことはあるだろうか。僕がそんな気持ちになってしまうような女の子が一つ下の学年にいた。その子は同じ部活の先輩の、そう僕の好きなあの子の近くにいつもいた。そしていつの間にか僕が見ている女の子が入れ代わってしまっていたのだ。だからほんの少しだけ痛かった。
「ねえ」 「ん、なに?」 「あたしじゃないんだよね?」 その時自分がどう思ったのかはわからないけれど、ほんのちょっとだけ間をおいて僕は答えた。「違うよ。僕の好きな子は外にいるよ」 「よかったぁ、あたしじゃなくて。石黒君に好かれたって迷惑なだけだもん」
吉野は外を見ながら言った。「ね、その子に好きだって言った?」 「いや、まだ」 「ほんとうにね、好きなんだったらちゃんと伝えないと駄目よ。そうしないと他の人に取られちゃったりとか別の人を好きになられたりするんだから。ちゃんと言わないと自分がつらい思いをするのよ」 そして僕を見た。
「あたしがその子に伝えてあげようか」 空気が重かった。「自分で言う」 吉野はそれを聞くと鞄を持って教室を出て行った。出るときにバイバイと元気に挨拶をして。
校庭のほうが騒がしくなった。練習が終了したようだ。あの子も着替えて鞄を取りに教室に戻ってくるに違いない。夏の夕日が教室に熱く差し込んでいる。吉野の座っていた席はあの子の席だ。彼女が戻ってくるのを僕は待ちうけた。