僕は昔っから何か物を書くのが好きだったので、その道具となるペンにはいろいろと気を遣っていた。長く使い続けたのが中学生になった時両親に買ってもらったパイロットの万年筆だ。ちょっと太めのやつだったけれど、自分の体が大きくなり声が変わり掌も広くなっていくに従い自分にぴったりのペンになっていった。
学生のころ年下の女の子と仲が良くなり、彼女とのデートの最中にロットリングを買った。綺麗な線が書け紙に滲まないし大学のビラ原稿には最適のペンだった。彼女とは遠距離だったのとやはり年齢の差が大きくて(そりゃお互いに大人だったら年の差なんて関係ないさ)付き合うのを辞めてしまったのだけれど、彼女こそが僕が眼鏡っ娘好きになる起点でありすべてだったようだ。それが現実と異なるだけであとはそのまま書いた通り。彼女は元気に生活している。だから別に変なものに取り憑かれているわけではないので念の為。そしてその時のロットリングも、とある合宿にて不注意で失ってしまった。代わりのペンとして同じ型のものを手に入れたけれど、手にはなじまなくなっていた。
学士論文の原稿を僕は例の万年筆で書いていた。ところがどういうわけだかばきりと折れてしまったのだ。下書きとはいえ原稿に広がるインクは真っ黒なものにもかかわらず真っ赤な血の色に見えた。気を取り直してロットリングで続きを書き始める。が、それも芯の金具のところが折れてしまったのだった。一度に愛用のペンを二つも失ってしまった。
そうして「血まみれの女」の原型が生まれ原稿用紙に別のペンで書かれることになった。話の中で「僕」をみている女はペンのことなのだ。この原稿を大学の哲学演習室に置き忘れ皆に読まれてしまうという醜態を晒したこともあった。内容はもともとアレなうえに落ちが主人公も彼女の元にいってしまうというものだから、読んだ人は皆、これは遺書に違いない、とか考えて話しかけてきたのだもの。就職直前で論文さえ書き終えてしまえばすぐに見知らぬ人ばかりのところへ行く時がやってくるのだ。不安だったしなにしろ恐怖があった。人と接する訓練のつもりで大学寮住まいをしていたにも関わらずいまだ初対面の人と出会うのは恐い。乗り切るためには感情を殺してしまうしかない。実際にこの時に自分を殺してしまっていたのかも知れない。いつ死んでも未練はないと言うようになったし、女性に興味さえ持たなくなったし、すすんで人とトラブルを起こすようになったし。逃げ出したというのはそういうことだ。
就職してからは何も書かなくなった。代わりとなるペンが無かったからだ。幸いなことにプログラム作成の仕事は僕に合っていた。天職と言っていいくらいだ。だからずっとやってこれた。
昨年の春は仕事も順調で自分がいなくてもなんとかやっていける目星がついた。危ない時期だった。今自分がいなくなっても悲しむ人はいても困る人はいない、仮に死んでしまったとしても両親にも生命保険が降りるからなんとかやっていけるだろう、と考えたりもした。そうそれで生命保険解約、新規加入という方法をとったのだ。別に眼鏡っ娘な営業だったからというわけではない。そうしてしまえば少なくとも一年間は生き続けなくてはいけない。最初の一年で自殺しても保険金は降りないからね。
さらにずっと続けなくてはならないような何かを作ることにした。じゃプログラマが日常で使うような言葉の収集でもやってみましょうか。これもすぐに終わってしまいそうだ、じゃどうする? 自分の自由意志で何か継続的に作成できるようなものがあるだろうか。そしてノート型コンピュータがペンの代わりになっていった。
このころ知り合った年上の女性が二人一緒の最初のそして最後の食事の時に僕にいきなり「結婚を前提にあたしと付き合う気はない?」と尋ねてきた。そりゃそんな話をするのは初めてではないけれどすべてお子様な学生のころのことだ。なんでそんなに急な話を持ち出すのか聞き返した。「だってY君(←僕のイニシャルだと思いねえ)は奥手みたいだし結婚前提にでもしなければえっちもやらなきゃキスさえしないって雰囲気だもん。あたし、あんたならいいと思うよ、女の直感」 一瞬ぐらんと来たのは隠さない。でも人生投げやりな人間がうまくやっていけるわけもないし、なにしろ恋愛関係などに興味はさらさらなかったのだから。それでもそれは契機だったかもしれない。不特定多数の誰かではなく特定の誰かでなくてはならないように変わったのだから。それで前から気にとめていたある女性に自分の方から付き合ってくれないかと伝えたのだ。まさか相手が承諾してくれるとは思っていなかったので驚いたのだけれど。
自分の手で何かを書いてみたいという欲求が近ごろ戻ってきた。白い隙間の空いた原稿用紙を前にした時に空間恐怖症に陥りそこから訪れる創作意欲こそが生きる原動力だということに思い至ったからだ。それ以来手になじむかも知れないペンを探していた。コンビニエンスストアには使い捨ての万年筆(と呼んでいいものなのか?)が売られている。そこそこ手になじむ。がインクの補充が利かないから慣れた頃には捨てるしかない。
何軒かの文房具屋を廻って万年筆を探し始めた。試し書きをくり返す、何本かに絞った。今度来た時にもう一度試してそれで決めようと思った。
ANSI-C には定義されてはいないけれど年齢は誕生日の前日にインクリメントされるという議論が去年 FC と FPROG で行なわれた。ということは今日が僕の年齢更新日となるわけだ。実は今付き合っている彼女と明日は会えないので先に誕生日プレゼントをいただいてしまった。「今開けていい?」 「うん」 リボンをほどき包装紙を開き箱をひらけてみた。そこには万年筆があった。
一度も彼女にはペンを探していることなど話したこともなかったのだけど。「血まみれの女」を書いた直後に僕が寝ているにも関わらず真夜中に電話をかけてきて、「なによー、あれー」と抗議をしてきた彼女だから(それで結末を変えた)NIFTY の ID を持っているばかりか僕の FC での書き込みまでチェックしていることを僕は知ってしまったのだが(もともとそういう気配は感じていたのだ)。だからこれも読んでいると思う。ほとんど公開メールに近くて壁の私物化みたいなものだけれど、感謝の気持ちを伝えたいと思う。
このペンにどんなに大きな意味があるのか君は気がついてなかったよね。
少しは伝わったでしょうか?
これが全部です。隠し事はありません。
素敵なプレゼントをありがとう。大事にいつも使わせてもらうから。
きっと僕にぴったりのペンになると思いますよ。