僕が彼女を見るようになってからもう十年以上にもなる。彼女は僕のいるところならどこへでもついてくる。アパートに帰れば部屋の隅にいつまでもたたずんでいるし、外へ出掛ければそっと僕の後をついてくる。
いつも僕をみつめ続け目をそらそうともしない。体中に鮮血を浴び、なまなましい赤い血の光の照り返しが眩しい。半分ちぎれかかった左手首をぶらぶらさせ、喉元に広がる赤黒い切り口を時折押さえながらずっと僕をみつめ続ける。血まみれの彼女はいつまでもいつまでも僕の目を見続ける。
僕は彼女から逃げ出せないでいる。十数年間彼女と一緒に暮らしてきたのだ。よもや彼女と別れられる時が来るなどとは予想もしていなかった。
彼女と出会ったのは大学一年の時だった。帰省中の地元の図書館で彼女を見つけた。一心不乱に本を読み耽る彼女を見て雷に打たれたように僕は恋に落ちた。彼女は六つ年下、中学一年生だった。人から見たらロリコンとレッテル張りされそうな状況だったのかもしれないけれど、好きになってしまったものはもうどうしようもない事実だ。僕は彼女に近づいた。彼女は最初不審そうな表情をしたのだけれど、話をしているうちに打ち解けてくれた。僕には相手の警戒心を失わせるような力があるらしく、話をすることさえできれば誰とでも仲良くなれるのだった。もっともそんなことはその頃の僕は気がついていなかったのだけれど。
楽しい夏休みだった。大学の授業が始まるまでの間、彼女と会わない日はなかった。学校に戻っても時間さえあれば彼女に会うために帰省した。だが、小さい町だったから彼女と付き合っているのがすぐにばれてしまいそうな様子だった。なにせ僕も若かったが彼女は幼いといっていいくらい若すぎた。人目を避けるために他の町で会うようになっていた。一番良く待ち合わせの場所として使ったのは金沢だった。僕と彼女の町の丁度中間点だし、二人のことを知る誰もいないところだったからだ。そのようにして一年、二年と過ぎていった。
「僕が働くようになって、君が二十歳を過ぎたら結婚しようね」 彼女も嬉しそうに、うんとうなずいてくれた。僕の年齢といえば女の子とエッチをやりたくてやりたくてしょうがないような時期の頃だ。それでもそうならなかったのは彼女があまりに純真だったことと、互いに絶対の信頼を持っていたからだったのだろうと思う。
しかし僕の方は学生運動に興味を持つようになっていった。成田空港二期工事絶対阻止とか言っては三里塚まで行くようになったし、デモ隊の一員になって機動隊に囲まれたことも何度もある。彼女と会うのも回数が極端に減ってしまった。
そんな時期のある逢瀬の際に彼女は僕に幾冊か本を僕に持って来た。どれもこれも無政府主義の本だった。彼女は僕のやっていることを理解しようとして社会思想を勉強していたのだ。そして無政府主義にいたく共鳴してしまったのだった。彼女は僕にアナキズムの根源を教えてくれた。個人の自由を最優先に感じる態度なのだと言った。彼女は僕にその本を贈ってくれた。プルードン、バクーニン、クロポトキン、幸徳秋水、大杉栄、、僕は彼女と共に無政府主義者になった。
「あたし伊藤野枝になるさけ、あんたは大杉栄になっとけね。で死ぬ時は一緒に殺されよの」
僕は彼女に黒セルの眼鏡を買ってあげた。銀縁の眼鏡を持っていたのにどういうわけだか彼女がひどく欲しがったのだ。彼女は本当ににこにこと僕の買ってあげた眼鏡をかけて笑いかけてくれた。恥ずかしいことながら女の子とキスをしたのはその時が最初だった。
そしてそれから一ヶ月はなんとか頻繁に会うことができたのだけれどその後は半年以上も彼女と会わなかった。そしてそのまま二度と会えなくなったのだった。僕は別に会わなくても大丈夫だと思っていたからだし、彼女がそんなに思いつめているなんてことも気がつかないほどの馬鹿だったからだ。彼女を重く感じて逃げ出していたのかもしれないと後で考えてみたこともある。
ある日彼女から僕が買ってあげた眼鏡からレンズを抜いたものだけが送られて来た。それには手紙がついていて一行だけ書いてあった。『あなたがくるのをいつまでもまっています』
僕は慌てて帰省した。でももう遅かったのだ。小さい町のことだ。一人の女の子が自殺した話なんか誰に聞いてもすぐに教えてくれる。喉をカッターで切ったものの死に切れず、愛用の裁ち鋏で左手を切り落としたのだそうだ。遺書もなく理由がよくはわからなかったのだろうけれど。でも僕は知っていた。
それ以来だ、血まみれの女の子が常に僕の隣にいるようになったのは。彼女が横にいる限り他の女の子に気を許すことなどできないと思っていた。誰か仲良くなったとしてもいつもはただじっと立っているだけの彼女が突然間に割り込んできて僕の顔を見るのだ。
「わたしと結婚してくれない? 今は駄目でもいいの。ずっと待っているから」 どうしてみんな同じ台詞をいうのかわからないけれど、何度か違う相手から求婚されたことがある。そんなにデートをしたわけでもないのにも関わらず。僕には不思議だったのだが相手には至極当然の雰囲気だった。
でもその度に彼女が喉元の傷口と左手首を見せるのだ。それでは受けることなど出来はしない。「今は女の子には興味がないんだ、ごめんね」
ところがある日彼女が突然消えた。その後二度とは出てこないようになった。僕は自由になったような気がした。今目の前にいる女の子だったら彼女は許してくれるんだと僕は考えた。
いや、ひょっとしてまだ横にいるのかもしれなかった。仮にそうだとしても、目の前の女の子さえ見続けていられれば決してもう現われないことを知っていた。これからは、きっと。