◎邪悪なる四角い石

1995年1月、私は博士から別荘へくるように呼び出しを受けた。博士の別荘は富士山の麓にある。私は夜の高速をボルボで突っ走っていた。ちょうど県境を越したところだ。

博士は次世代コンピュータの開発研究をしている。一年ほど前にアメリカの大学を辞め日本に戻ってきた。帰国するなり山梨の別荘に閉じこもり研究に没頭しているのだ。博士の後輩にあたる私は帰国後何度も博士の別荘に呼び出され研究の手伝いをさせられた。手伝いと言っても解析用のデータを加工するだけの誰にでもできる簡単な仕事だ。それでもなにか重大で極秘の研究らしく、私以外にも喜んで手伝うような後輩も多いはずだったが、それなりに気心の知れた私にしかお呼びがかからなかったのである。

昨夜のことである。私の蕨の勤務先に直接電話をかけてきて、すぐにでもきてくれないかというのである。なにやらいつもの博士とは話振りが異なり、異様に興奮した口調だ。研究に重要な進展がみられたように思えた。私も会社勤めでソフト開発のプロジェクトを抱えた身であるから、さすがに金曜にあたる今晩まで待って欲しいと願ったのだが、ともかく早く来てくれと言うと博士はすぐに電話を切ってしまったのである。そうして今私は車を走らせているわけだ。

もうすぐ博士の別荘に着こうかというところであった。電気作業車が止まり道を塞いでいた。私は警笛を鳴らした後、窓を開けた。「すいません、車を通させてもらえませんか」 外に立っている作業員の人達に言った。「なにかあったんですか」 私が尋ねると作業員は話してくれた。ここ最近この近辺で異常な電力消費が起きており、近くの町への充分な配給ができなくなることがあるという。どこかで盗電されているのではないかと調査しているところらしい。作業員は車が滅多に通らない場所だと思っていたらしく邪魔になるように止めてしまったことを私に詫びたあと車を脇にどけてくれた。私は博士の別荘へ急いだ。

博士の別荘は昔の華族の別宅だったらしく大きな洋風の屋敷である。昼間見れば上品な佇まいなのだが、新月の夜中に外へ立ってみると何か恐ろしいものがそこにいるかのような印象を受けた。屋敷には多くの部屋があった。昔は使用人が多くおり贅沢にすごしていたであろうと思われるその居住区のほとんどを博士は研究部屋に改造していた。

玄関に行きドアベルを鳴らした。しばらく待ったがでてこない。私は博士から鍵を渡されていたのだがそこはそれ礼儀と言うもので大抵はこうして博士がドアを開けてくれるのを待つのである。しびれをきらした私は鍵を取りだし中へ入った。中は真っ暗だった。電灯のスイッチのありかを手探りで捜した。玄関脇の柱の横にスイッチを探りだし入れた。ぱっと明かりはついたがしばらくすると次第に暗くなってくる。盗電のせいだろうか。明かりが消え去らないのは幸運だった。こんなところに明かり無しでいられるだけの度胸はない。

廊下の明かりをつけながら私は博士の居室に向かった。博士は律義な人で私がいつ尋ねてもいいようにと博士の居室のドアの前には行き先を示したホワイトボードが用意されている。まずそれを見てから屋敷内を歩き回ろうと思ったのである。

廊下を歩いていると何か物がずりずりとひきずられるような音が聞こえて来る。博士かと思い声をかけて見たが返事がない。声を出した途端音がやむ。またしばらくするとずりずりと聞こえてくる。気にはなったが古い屋敷のことだ、なにか謂れでもあるのかもしれないと思い聞こえない振りをして歩き始める。下手にもののけなんぞに関り合いにでもなって取り憑かれてしまっては大変だ。

ドアの前には『中にいます』と書いてある。ノックをする、返事はない、しょうがないので中に入る。中は電灯はついていた、しかしやはり暗い。博士の姿はみえない。が、見慣れぬ口広の硝子壜が博士の机の上に置いてある。中には一見CPUのチップのような四角いものが入っている。壜の下には私宛の手紙が置いてあった。私は早速開いて読んでみた。

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手紙は最初は印刷されていたが、後の方は直筆で書かれていた。

『私は大変なことをしてしまったのかもしれない。人には知らない方が幸せなこともある。いや、決して知ってはいけないことがあるのだ。普段の生活が嵐の海の小舟のようにいつ波風に潰されても不思議ではないことに気付いたなら人は絶望の縁に立たされ、すぐにでも死んでしまった方が良いとまで考えるかもしれない。生きている間の愛別離苦の不幸、戦争や飢餓、病気の痛みなどその恐怖に比べればむしろ喜ばしいものなのだ。私は手を出してはならないものに触れてしまい、あれをこの世に招き入れようとしている。もう後戻りはできない。あれが動き始めた今、地球が古代そうであったように闇と恐怖の司る世界になってしまうのは間違い無いだろう。私のできることはそれを少しでも先に延ばすことだけだ。

君も知っての通り私はアーカムのミスカトニック大学の工学部教授として招かれた。あの大学では軍需産業から金をせしめるために最新式のコンピュータの構造を研究する必要があったから私を呼んだのだった。私はごく僅かの授業をするだけで後は研究に没頭していればよいのだった。給料もかなりの額だ。

あるとき私は研究室の学生達と町に出て飲み歩いたことがあった。私は滅多に酒など飲まず学生達と一緒に町に出ることなどもしなかったものだから、このアーカムという町について何も知らないまま暮らしていたのだった。学生達はアルコールが入ると町の陰惨な噂話を聞かせてくれた。この町はどこもかしこも不吉な伝承があるのだ、大学すらそうなのだ。大学の図書館には門外不出の忌まわしい本が存在するらしい。私はその話を聞いて興味を持った。いつかそれをみてやろうと思ったのだ。

その機会はすぐにやってきた。私は図書館の司書と懇意の仲だったから彼女と顔を合わせたときにちょっと頼んでみたのだ。彼女は驚いた様子で私を見た。外国から来た私のような者が、しかも工学部の人間だ、そんな邪悪な書を見るなどとは思いもしなかったのだろう。彼女は渋ったが何度も要請すると館長に秘密でこっそりとそれを見せてくれたのだ。

ネクロノミコンと呼ばれるその書物は存在そのものが邪悪さを感じさせた。もしこの世に善なるものが存在しないとしても、絶対的な悪だけは確信させるようなものだ。私には書かれている文字の意味はまったくわからなかったがページを捲る毎にその思いは高まっていった。これ以上見てはいけない、これ以上ページを捲れば精神が崩壊してしまうかもしれない、そう思いながらも手をとめることはできなかったのだ。

一時の好奇心で見てはならないものを見てしまった私を誰も許してはくれないだろう。それでも私は真実を伝えなければならないのだ。

研究室に帰った私はとあるインスピレーションを手にしていた。コンピュータの心臓部とも言えるCPUに有機物を用いることだ。生物学の教授と話し、遺伝子組み替えにより自己増殖可能でチップの形態を持ったようなものができないだろうかと相談した。彼は笑い飛ばした。だが私はあきらめずそれを追求したのである。

生きたチップの構想は私を虜にさせた。正当な研究を忘れ授業もほったらかしにしてしまった。大学からは注意を受け私は授業だけは行なうようになったが目的を改めようとはしなかった。しかしそんなに没頭しても研究ははかどらなかった。遺伝子組み替えの元となる生物の選定が誤っているらしかったのだ。

ある日、私は先に相談を持ちかけた生物の教授の研究室をたずねた。好意的に協力はしてくれないだろうが何かヒントになるようなものを聞くことはできないだろうかと考えたからだ。彼の研究室は無人で出払っているようだった。私はなにげなしに部屋のドアを開けた。そして私の眼に飛び込んできたのはあの忌まわしい書物に書かれてあったのと同じ文字が書かれた白いラベルだ。見た事もなければ名前もあるとは思えないような毒々しい虫の標本が机の上に並べられている。その一つ一つにあの文字でなにかラベル付けされているのである。

私の心の底でこれだと叫んでいた。椅子をつかんで標本を覆っている硝子を叩き割った。そしてその一匹を掴んで自分の研究室に逃げ戻ったのだ。

部屋に戻り、少し落ち着いて手の中を見た。なにかもぞもぞと動いているような気がしたからだ。なんとそいつは生きていたのだ。ピンで止められ死にたえていると思ったそれは旺盛な生命力で標本から取り出されるやいなや活動を再開したのだ。

グロテスクで触手をいっぱいはやしたそれはもぞもぞと動きだし大きな口をあけ私の指に噛付こうとしている。驚かんばかりにそれを振り落とした。床に落ちたそれを近くにあったビーカーの中に追い込んだ。硝子の外から眺めてみる。よくこんなおぞましいものを手で掴めたものだ。

理学部の方が騒がしかった。私によって虫が盗まれたことで大騒ぎしているらしい。私はそれを人目につかぬところに隠した。人がやってきた、彼は非常に危険な毒虫が逃げだしたので発見に協力するように言ってきた。私は探す振りをしてその場をやり過ごした』

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『私の不真面目な態度は大学側を怒らせたらしく、教授としての任を解かれ帰国することになった。君も知っているように父親の資産で食うには困らないし証券などで一定の水準の生活も保証されている、そこで私はここに例の研究の続きを行なうための研究所を設けたのである。

例の虫を手に入れたあとは順調に研究は進んでいった。この虫の染色体は大きく私でも容易に操作は出来たし、単体の繁殖も簡単だったのだ。何か食料として生きたものを同じケースの中に入れておいてやればそれに食い付きその後二つに分裂するのだ。卵も大きいのを産んでくれる。

また前にも書いたが生命力が旺盛で死ぬと言うことを知らないらしかった。ちょっと切り裂いたり圧力を加えたくらいでは再生してしまうのである。唯一有効な方法は火を付けて焼いてしまうことだけだ。火にはもろくすぐに燃え尽きてしまう、灰すら残らない。

簡単なICを埋め込むことから始めた、足は通電可能なものにさせICソケットに入るような仕組みをつくる。金属片を投与すればいいだけだ。大きさを変えるのも簡単だ。遺伝子の場所は自分でも不思議なくらい容易に調べることができたのだ。AND回路OR回路、NOT回路等基本ロジックを構成できるものから始めコンデンサやダイオード、抵抗、トランジスタ、徐々に複雑な各種ICの代わりになるようなものを作り出していった。

虫達は知能も持っているように思えた。最初は基板上にソケットを半田付けしそれらの足を差し込んでいたのだが、奴等は自分達で集まって互いに足を交差し伸ばしながらくっつき始めたのだ。基板も必要なくなった。奴等は自分の位置と役目を知っていたのだ。

通電してやると一個の生き物であるかのように各々がしっかりと自分の役割をはたし生きたコンピュータを構成するようになった。ただCPUは私の力が足りないために開発が遅れた。一通りの実験が終わるとCPUの開発の方に力を注ぐことにした。

まず昔の4ビット時代の簡単なCPUを作った。四則演算と最小限の命令があるやつだ。それを奴等の中に放り込み電源を入れた。私は恐怖にかられた、それらは電源をいれるやいなや名状しがたき色を発光し互いの体を溶かしあい一体の生き物になったのだ。そしてそれが自分の力で動き始めた。私は慌てて電源を切ろうとしたがそのスイッチは彼らの体が覆いかぶさりタッチできなくなったのだ。

その時急に電灯が消えた。急激に電流が流れたのだろう、ブレーカーが飛んだのだ。奴等はもとの個体に戻っており私は急いで電源を落とし、箱の中に閉じ込めた。鉛と硝子で覆った箱だ。この中からなら奴等は逃げだすことはできない。私は恐ろしくて君を呼んだ。昨年の夏に君を呼び出したことがあったろう、あの時のことだ。

私は奴等に精神を蝕まれていたのだろうか、またあのおぞましい実験をくり返すことにした。あんなに恐ろしい思いをしたばかりだというのにだ。本当に自分で何を考えているのかわからないのだった。

今度はブレーカーが落ちないように室内の配線をいじってやった。そして大量の電力を消費できるように外の電線から直接引き込むことにした。今度は前よりは少し頭の良いCPUだ、おそらく少し前の8086くらいのパワーはあるかもしれない。電源を入れると今度もそれは異様な光をはなった。光のあたった部屋の壁や機械類は何か角度が曲がったようにみえた。空間が歪んでいるのかもしれなかった。それは私に命令した、もっと賢く良いCPUを作るように私に命じたのだ。それは直接私の精神に語りかけた。

私は電源を入れたままにして、一心不乱に次のCPUの作成に取り掛かった。出来上がったのは昨日のことだ。そしてその時幸運なことに停電が起きて私は自分を取り戻したのだ。私は奴等にいいように操られていた。そこで君に連絡しこの邪悪なものどもを消滅させる手伝いを頼むことにしたのだ。

ところが君はすぐにはやってこられないという。ならば私が一人で対決するしかない。私は屋敷を丸ごと燃やすことで解決しようと思った。私は停電している間にガソリンを買い込んで来た。これをまいて火をつければやつのいる部屋も燃えるだろう。停電はまだしばらく続くだろう。あいつは貪欲だから手に入るものは何でも手に入れようとするのだ。電気が通じればむさぼり食い始めまた停電になってしまうはずだ。

そして今これを君に書いている。もし君がこれを一人で読むようなことがあれば私の試みが失敗したということだ。その時は是非とも君がやりとげて欲しい。同じものをコピーして君に郵便することにするがそれを読んでいる時に私が横にいるかいないかで我々が幸運か否かが決まるだろう。ここにある邪悪な研究は決して表に出してはならない。人には知らないでいたほうが良いことがあるものなのだ。』

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博士の手紙はそこで終わっていた。私は半信半疑だった。

ふと、さっきの硝子壜に入ったCPUを見た。私は世にもおぞましいものを見てしまったのである。黒い四角い背には五芒星八方六位の記号が描かれている。その裏は金色の無数の足が一面に生えている。それだけなら単なる普通のCPUなのだ。しかしそれらが蠢いているのだ。私は思わずそれを取り落とすところだった。

私ははっと気がついた。今、停電していないのだ。この不安定な明かりもあれのせいだとすると。停電しない程度の電力を喰うことを学習したとしたら。

ドアがどすんと鳴った。何かがぶつかっている。そして、ばたばたばたと豪雨のような音が聞こえた。気が動転した。博士が、人間がたてられる音では決してない。あれだ、あれが表にいるのだ。私は手紙とCPUの入った壜をポケットに押し込んで博士の寝室に飛び込んだ。そちらの部屋には別の廊下への出口があるからだ。

私は寝室の惨状を見て叫び声をあげた。そこには金属状のワイヤーで壁に張り付けられた博士がいたのだ。無数の虫が半裸状態になった博士の体を食い破り這いずり回っている。なんということか、博士が顔を動かして私の方を見た。博士は生きながらにして虫に食われているのだ。なにか言おうとして口から虫を吐き出した。あとからあとから湧きだしてくる。助けを乞う博士の目を私は見られなかった。

奴等は私に気がつき、わらわらとにじり寄ってきた。寝室から廊下へのドアをみるとその部分は虫でいっぱいだった。そこを通り抜けることは私にはできなかった。いそいで居室の方へ戻り部屋をつなぐドアを閉める。が、すでにそこにはあれが入り込んでいたのだ。まさに身の毛もよだつ恐怖が私を襲った。自分の言葉では説明もつかないようなモノ、それがそこにいた。金属色に光る無数の触手、思いもよらぬところに開いたいっぱいの口、口、口、それぞれの口から妙にかんだかい音が漏れてきている。空間はねじれ、吐き気をさせる臭気が部屋に満ちてくる。何者かが私の精神に入り込もうとするのを感じた。私は絶望の縁にいた。泣き出し悲鳴をあげていたに違いない。

その時だ。停電が起こったのだ。無神論者だった私でさえ、あのおぞましきものが動きを止めた時にはソフトウェアの神さまに感謝したのだ。どうやって外に逃げ出したのかは今となっては覚えていない。気がつくと博士の車の前にいた。車には鍵がかかっていなかった。中にはガソリンが入ったタンクが三つあった。私は急いでタンクをかつぐと屋敷の回りにまきちらし火を付けた。古びた洋館はたちまちのうちに火に包まれていった。博士も焼け死んでいるに違いない。生きたまま虫に食われるよりははるかにましだろう。

燃えている屋敷を放心して眺めていると先程会った電気作業員達がやってきた。彼らは火災を見てやってきたのではなかった。盗電の線をたどってやってきたらしい。彼らが盗電用の電線を切ってくれたおかげで私は助かったのだ。

消防車が到着するまでに屋敷は完全に燃え尽きてしまっていた。私は警察の取り調べを受けることになった。

壜を持ち出したのは正しかったのだろうか? CPU型の虫は私の身の潔白をはらしてくれることにはなった。しかし政府から派遣されたという人物にそれを取り上げられてしまい、その後は二度とその虫を見ることはなかった。あれを誰かがまた何かの実験に使っているのだろうか。だとすれば人間にとっての永遠たる恐怖の夜が訪れるのも遠くないだろう。