◎木漏れ陽の妖精

憂木君は大学の夏休みに帰省しました。高校時代の友達と会って遊べばいいのですがそれほど仲の良い人はいなかったので一人でいることの方が多かったのでした。高校は理系の進学クラスで男ばっかりだったので深い友人を作らなかったのでした。もっとも人見知りする憂木君が女子に囲まれていたとしてもガールフレンドを作れるとは思えませんでしたが。

自宅にはクーラーもなかったし、北陸特有の蒸し暑さを逃れるために外に出てばかりいました。図書館や書店が彼の避暑地でした。図書館ではかたっぱしから本を読んでいきました。読書は好きな方で巌窟王や嗚呼無常ぐらいなら一日あれば読破できるくらいの速読家でもありました。本のいっぱい置いてあるところは憂木君の居所にぴったりだったのです。

朝開館と同時に入館して早速新聞の朝刊を朝日・毎日・地方紙の順に読み切ります。そして開架式の書棚に向かいその日に読む本を選ぶのです。この日もそうして本の森の中へ入っていきました。気に入った本を見つけてちょっと広げてみました。そして閲覧室へでも行けばいいのにそこで立ったまま読みはじめてしまったのです。読み始めるともう没入してしまうのでそのままです。

ふと気がつくと一人の少年が、書棚の高いところの本を取るための台を転がしてきてそこにちょこんと座りました。憂木君は少年が気になりしばらく様子を見ていました。少年はパンを買ってきていて袋から出して食べ始めました。そして膝の上に目の前にあった本を広げ読み始めます。少年はパンを美味しそうに食べています。その様子はなんだか人に幸福を振りまいてくれるかのようで憂木君の心もすっかり虜になってしまいました。少年はパンを食べおえると一心不乱に読書に沈んでいきました。時折短い髪をかき上げ、ずり落ちてくる眼鏡をもとに戻すしぐさがすっかり憂木君のお気に入りになってしまいました。ちょっと話しかけて近所のお好み焼き屋にでも誘っておごってあげようかなと、思った時でした。実はその子は少年ではなく少女であることにようやく気がついたのでした。

スカートではなくGパンをはいていましたし、Tシャツの前のふくらみなんてなかったですし、雰囲気はまったく少年でしたから、近くに寄ってTシャツからちょっとだけ透けるブラジャーの影が見えるまでは女の子だとは予想もできなかったのでした。

声をかける寸前で気がつき思いとどまりました。彼女は小学生の高学年か、多く見積もっても中学1年生でしたから、そんな年下の女の子にお茶一緒に飲まないなんていったらそりゃロリコンだと考えたからです。ともかくその場を足早に離れ、隣の書庫に移ってしまいました。

次の日も図書館にいきました。本を探して二三冊抱えて閲覧室に向かおうとして後を振り返ると昨日の少女がいたのです。背伸びして書棚の上の本を取ろうとしています。憂木君の胸まで無いくらい背が低いので取れないのです。昨日のように台を持ってくればよいのですが、手が届くと思ったのかもしれません。その様子は森の木の実に手を伸ばす妖精のようでした。

「これ?」 憂木君は彼女が取ろうとしている本を推測して取ってあげました。昨日彼女が読んでいた本に関係しそうな内容のものといえばそれが真っ先に目にとまったのです。

「それじゃあ、すまんのう(それです、ありがとうございますね)」 彼女は礼を言って椅子代わりの台のところに向かっていきました。彼女はその台が椅子だと思いこんでいるようでした。彼女のしゃがれた、でも素敵な声が聞けたので憂木君はすっかり嬉しくなりました。

その日彼女にはもう一度会うことができました。図書館を出て本屋にいって少年サンデーのうる星やつらを立ち読んでいた時でした。ふと気がつくと彼女も横でセブンティーンを読んでいたのです。読みながら声を出して笑っています。憂木君は年の差を忘れて彼女に恋してしまいました。

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次の日からは憂木君は彼女に会うことが目的で図書館や書店にいきました。会えない日は本当に悲しい思いでした。夏休みも終わりに近くなってとうとう意を決して彼女に話しかけることにしました。

「わしもあんたすきじゃ(私もあなたのことが好きです)」 彼女もまた、よく顔を合わせる憂木君が気になっていたのです。いく先々で憂木君が彼女を待ち伏せているのですから気がつかないわけがありません。

彼女は東華さんといいました。中学になったばかりで小学生のころはもっと西の地方に住んでいたそうです。お母さんが病気がちでお祖父さんお祖母さんのところにずっとあずけられていたそうです。それでそちらのほうの方言に慣れてしまい女の子なのに自分のことを『わし』と言うのでした。

憂木君と東華さんは一枚の絵のようでした。輪郭がぼやけて背景に溶け込みどちらか一方だけを取り出せないようなそういう絵でした。また音楽に例えるならオーケストラの曲のようです。二人の別々な旋律があって、そして単独だったら雑音と間違えてしまうような世界中の物音も混ざりあって調和してしまうのです。二人はよく語り合いましたが、ほんとうは話す必要がないくらい心が通いあっていたのです。ご飯を食べるにしろ、散歩をするにしろ、目的を確認することもなく互いの行きたいところやりたいことが一致したのです。

そしてすぐに別れの日がやってきました。憂木君の大学の授業が始まるのです。二人は手紙を交換しあうことを約束し、憂木君が休みになったら必ず会いに帰ってくることを誓ったのでした。

憂木君は大学の寮暮らしでしたから、東華さんは気兼ね無く手紙を書くことができました。ところが東華さんは御両親と共に自宅に住んでいました。彼女の家は一刻屋という老舗のおそば屋さんだったので御両親はいつでも家にいます。郵便が届くのは東華さんが中学校に行っている間のことですから必ず御両親のどちらかが憂木君の手紙を預かることになるのです。東華さんは中学生でした。もし変な男の子から手紙でもこようものなら親展と書かれていようがいまいが封を開けて読んでしまうことでしょう。そこで憂木君は女性のペンネームを騙らなければならなかったのです。

冬や春の休みには憂木君は急いで帰省して東華さんに会いにいきました。それでもそんなに堂々とは二人は会うことができなかったのです。人の少ない図書館の書棚の蔭や町から少し離れた公園、電車に乗って県庁のある町まで行って歩くとか。そうでもしないと小さい田舎町のことですから必ず誰か二人の顔見知りに出会って噂が広まってしまうことでしょう。そうすれば二人の御両親にも知れて二度と会えなくなってしまいます。やはり十歳も年齢が離れていると世間体が悪いからです。

そして次の年の夏のことでした。憂木君は就職のための活動をしなければなりませんでした。憂木君の専攻から考えると学校の先生になるか、大学に残って研究を続けるか、人手が極端に足りないといわれていたコンピュータ業界を選ぶかしか道はありませんでした。このころはあぶく経済に入る前のことでコンピュータ業界に活気があったころだったのです。憂木君は自分の力量を考えプログラマを選び取ったのでした。

夏はまったく帰省することもできず東華さんにも会うことが出来ませんでした。それどころか大学を卒業しても実家に戻ることができないということを伝えなければならなかったのです。憂木君の家から通える範囲にはまったくコンピュータ関係の企業がありませんでした。そこで東京の会社に就職をすることになったのでした。憂木君はそれ以後の休みも帰省することが出来ませんでした。卒業論文の完成に精力を注いだのです。そして学生最後の休みも会社の研修ということですぐさま呼び出され東華さんと会うこともなく東京に出ていってしまうことになりました。

憂木君は貰った数少ない有給休暇を使って暇な時を見つけて帰省するつもりでした。が、彼の就職したソフトウェア会社は悪魔が経営する会社だったのです。有給休暇は制度として保証はしているものの、社員に対しては決して使わせませんでした。少しでも手の空きそうな社員がいればすぐさま何か別の仕事をいいつけてこき使うのでした。平日でも夜の十二時を越えて残業することも普通で土曜や日曜祝日でも仕事をやらなければすまされないようになっていたのです。残業をやっても労働基本法に触れるからというわけの分からない理由を付けてある一定以上の残業代を出そうとはしませんでした。もちろん辞めていく人も多かったのですが、それ以上の人をまた雇い入れるものですからどんどん会社は大きくなっていくのでした。こうして憂木君は帰省することができなくなってしまったのです。

盆も正月もプログラムの作成に明け暮れるのです。手紙でのやり取りは続いていましたが憂木君はだんだん手紙を書くことができなくなり、東華さんの手紙だけが一方的に届くようになっていきました。でも東華さんも疲れてきたのでしょうか。二日に一通は届いていた手紙が週に一通になり二週に一通になり月に一通になり、そしてとうとう絶えてしまったのでした。

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あれから数年がたちました。あぶく経済が到来し空前の活況をコンピュータ業界は享受しました。憂木君は同僚達がマネーゲームに手を出しているのを横目で見ながら自分の僅かな給料をこつこつと貯めていました。いつか東華さんを迎えにいこうと思っていたのです。でも相変わらず仕事に忙殺されて、就職して以来一度も帰省できなかったのでした。

そしてあぶくがはじける時がやってきました。コンピュータ業界は激震を感じたのです。多くのプロジェクトが中止や縮小に追い込まれ余剰人材がうまれました。憂木君の会社もその渦から逃れられませんでした。

経営者は悪魔でしたから余った人材の中で役立たずな人は容赦なく辞めさせられました。退職金もないに等しいぐらいしか渡しません。あぶくがはじけたおかげでマネーゲームで手にしたものもすべて紙屑になってしまっていました。自業自得といえますがほとんど無一文で叩きだされたので少しは同情してあげてもいいのかもしれません。

憂木君のプロジェクトも中止にされたものの、プロジェクトのメンバーはすぐさま退社に追いやられたのですが憂木君はすでに良いプログラマになっていましたから手放そうとはしませんでした。しかし、憂木君はこれを機会に会社を辞める決心をしていました。憂木君は給料が安いからという理由でさっさと辞表を提出しフリーのプログラマになりました。悪魔のもとで働いている間に不況のずんどこでも仕事の貰える良いプログラマに鍛えあげられていたのです。もちろん忙しさは変わりませんでしたが収入は増えました。一人や二人養えるくらいの月収があるようになったのです。そしてもし東華さんが自分を待っていてくれるのだったなら迎えに行こうと考えました。

その年の春の夜でした。どこもかしこも花見で騒がしい夜でした。憂木君のアパートの近くにも花見スポットがあり、そこの喧騒が帰り道中聞こえてきました。憂木君がアパートにたどりつくと自分の部屋のドアの前に女の子が一人立っていました。外灯が点いていないので暗くてよく見えません。近寄っていきますと彼女が憂木君に気がついたようです。最初は小走りに、そしてだんだん勢いよく走り出し憂木君に向かってきます。憂木君もかけだしました。彼女が一刻も忘れたことのない東華さんであることに気付いたからです。二人は生まれて初めて互いを抱きしめあいました。

東華さんは背も低かったので子供に間違えられそうでしたが、もう決して男の子には間違えられそうにもありませんでした。憂木君の髪にも昔はなかった白いものが増えていましたから彼女も違いを感じていたかもしれません。でも年を経ても二人は同じ二人であることを知りました。

憂木君は東華さんをアパートに迎え入れ食事とお風呂の支度をしました。彼女は大きな荷物を三つも抱え、とてもくたびれた様子をしていました。お風呂に入って憂木君が真心こめて作った料理をおなかいっぱい食べるとようやく安心したかのように彼女は話し始めました。

東華さんは地元の大学に進学しました。ほんとうは憂木君のいる東京の大学に行きたかったのですが一人娘を遠くに出すのを御両親が嫌がったのです。東華さんは大学こそ地元にしましたが、就職は御両親に黙って東京の会社を選んでいたのです。御両親はそんなことも知らず地元のお店に親戚の口利きで娘の就職先を決めこんでいたのですが、彼女はほとんど家出のようにして出てきたのでした。

東京では会社の独身寮に住むことになっていましたので住む心配はしていませんでした。でも東華さんと憂木君は連絡を取り合っていませんでした。それで憂木君が会社を辞めてしまっていたことを彼女は知りませんでした。東京に着いてから彼に連絡しようとして会社を辞めてしまっていることを知り驚いたのでした。住所も移動しているようです。憂木君が勤めていた前の会社の書記さんが行き先を知っていたのでなんとか今のアパートを突き止めることができたのでした。

そして次の休みにでも彼のもとを訪れようかと思っていたところです。なんと彼女の会社が倒産してしまったのです。退職金も出ませんでした。入社日数もごくわずかでしたから手にしたお給料もごくわずかでした。それだけではありませんでした。なんと独身寮もすぐに追い出されてしまうことになったのです。書き留めておいた憂木君の住所を手がかりにしてやっとの思いでたずねてくることができたのでした。

二人はその夜のうちに互いを確認しあい、そして一緒に暮らすことに決めました。こうして二人は幸せな日々を送ることができるようになったのです。

東華さんは就職先を探す間、近所のコンビニエンスストアでアルバイトをすることになりました。しかしこのことが二人に不幸を招きました。あるテレビ局の取材でこのコンビニエンスストアが取り上げられ東華さんがカメラに映ってしまったのです。その番組が全国放送され、故郷の東華さんの御両親が彼女を見つけだし居場所を突き止めてしまいました。東華さんの御両親ばかりではなく憂木君の両親までアパートにやってきました。そして二人を引き裂いてしまったのです。理由はいろいろあったのでしょうが、簡単に言ってしまえば自分達に気に入らない相手とは一緒にさせたくなかったのです。日本にはまだ根深い差別があったのです。

憂木君は絶望の縁に立たされたまま東京のアパートに一人取り残されたのでした。二人が一緒にいられたのはたったの一ヶ月でした。

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それからまた年が過ぎました。両親から送られてくるお見合いの話を何度も断りつづけ憂木君は一人で生活していました。回りに女性が少なかったせいもあるのでしょうか、いまだに東華さん以外の女性とは付き合ったことがありません。結婚しようとはしない一人息子にしびれをきたして、両親が一人の女性を連れ上京してきました。もちろん憂木君に無理強いしてお見合いさせるためです。彼女の御両親も一緒に東京見物のつもりでついてきています。憂木君の母親は、自分の息子は優しい子だから女の子を目の前にしてはもう断ることはできないだろうと考えていたのです。

憂木君はその女性の顔を見ようともせずお見合いを拒否したのでした。その場で怒らなかったのは憂木君と彼女だけでした。女の人は泣いてばかりでしたから。憂木君は何故彼女が泣いているのかわからなくなっていました。

憂木君の両親は彼を強く責めたてました。憂木君はその場を立ち去りました。

とうとう憂木君の抑え込んでいた感情が爆発しました。田舎まで行って東華さんをさらってこようと決心したのです。東京駅まで行き新幹線に乗り込みます。夏休みで学生や旅行客でいっぱいでしたから座ることもできません。でもそんなことはどうでもよかったのです。

田舎に帰るには米原で乗り換えなければなりません。新幹線の改札を出て乗り継ぎの加越号に向かおうとしたときでした。ホームの向かいから歩いてくる女性の姿を認めました。憂木君は息を飲みました。その影は東華さんだったからです。

彼女も身一つで列車に飛び乗ったのでしょう。荷物など何も持っていません。二人は相手が目の前にいることを互いに知ると遠く離れていながらも互いに見つめあうのでした。

いつまで見つめあっていたことでしょうか。気がつくと二人は密着するくらい近寄っていたのです。そして二人はまた抱き合うことができました。そして何があっても誰が何と言おうとも二度と離れないことを誓いあいました。

二人は結婚式を挙げることができました。そこに参加した人はみな、二人の幸せを分けてもらってにこにこと微笑みながら家に帰ることができたそうです。

ほんとうのことですよ。だって、さっきわたしは二人の結婚式から帰ってきたところですもの。そして憂木君から直接話を聞いたのです。彼女のスカート姿を見たのは、彼、今日のウェディングドレスが初めてだったんですってさ。