ラブクラフト物のように見せかけたソフトウェアの神さまシリーズ。自分が見るものと他者が見るものとは違うし、見られることで対象は変化するものなのだという話。
「見る」を「視る」と書いたのは「見る」は単に目に映っているという意味に対し「視る」は直視するという意味があるからである。「視る」側が「者」であるのはそれが希理子という人であるからであり、「視られる」側が「モノ」であるのはそれが名状しようのない何か(thing)であるからだ。
「同じモノを見ても、私が視るように人は見ない」ものである。「私は見ている」と信じているだけで本当は見ていない可能性もある。それが「他人と同じものを見ているんだ」と思うのは見る対象物についての予測と思いこみに理由があるかも知れない。
見られるモノは見られることによって変容する。それが道ばたの石(最近は石も転がってませんか)のような即自存在であってもだ。つまり人は自分の意志にかかわらず他者の視線によって意味を変えられ得る存在でもある。
見る側は見られる側へと即座に変換しうる。自分が考えてもいない何か別のモノに見られているかもしれない。
それをもし知ってしまうと、自分はそれに影響されそのようなものになってしまうかもしれない。おそらくはたいていは本人が望まなくてもそうなってしまうように思う。
そのような「何かから意味づけられるもの」という存在から脱却するために「自分が自分を決定する」のである。これが実存の意味だ。