寒くても心はホットな日々

MPC総務  黒岩 努(埼玉県庁)

 

 寒いこの時期になると、1998年2月の長野での想い出が鮮明によみがえります。
私が長野に派遣されることが決定したのは長野五輪の1年半も前のこと(一般のボランティア公募で応募したのではありません)。まだアトランタ五輪開催中のころでした。長野県及びNAOCからの依頼によると、IOCの秘書業務というオーダー、この時ほど語学を勉強していて良かったと思ったことはありませんでした。そして五輪の開催をずっと楽しみにしておりました。
そして迎えた1998年1月24日長野での勤務初日、勤務地のMPC総務部では夕刻から深夜にかけての通称B勤務。開所してまもないMPCに入居するプレス等はこの時期まだまばらで、また業務の運営自体も軌道に乗せつつある状態の中で誰もが試行錯誤の毎日。期待していたほど忙しくもなく(NAOCの皆様申し訳ありません)、またNAOC職員の(我々のような臨時職員から)見ると横柄な態度にちょっと不満な気持ちを抱いたものです。張り切っていただけに、余計拍子抜けした感じは拭いきれなかったなぁー。こんな状態が最初の一週間続きました。
でもここで不満な気持ちを募らせてばかりいてはせっかくの長野ステイも楽しいものではなくなる、と「日頃の業務を離れて世紀のビッグイベントに携わっているなら、このイベントを利用して大いに遊んでしまおう」と発想の転換、勤務時間中でも空いた時間はMPC内を歩き回りプレス各社の仕事ぶりを観察し、有名選手の記者会見に忍び込み(ごめんなさい)、かくして「情報収集」に努めたのでした。また、勤務終了後も長野市内に繰り出しては街の雰囲気の盛り上がりを楽しみました。
ところが、五輪開会式一週間前になると(この時以降A勤務)MPC開所一週間前の静けさは嘘のよう、非常に忙しい日々を送ることになったのでした。入居プレスの激増、サマランチ氏はじめVIPの来所、超有名選手の記者会見、プレス各社との調整、各国NOCとの調整、そしてその他のプログラムなどなど語学を活用する場面が本格化しました。この密度の濃い、充実した勤務こそ、私が求めていたもの!と感激に満ちた毎日でした。と同時に自分の語学力不足をちょっと痛感したものでした。
本来私の派遣期間は2週間、開会式と同時に長野を離れる予定だったところ、「まだ帰りたくない、もっとここにいたい」との思いに駆られ、派遣協定を改訂してもらいさらに一週間滞在することにしました。開会式以降はMPCも落ち着きをとりもどしたものの、適度な忙しさが心地よい、楽しい日々を送ることができました。NHKの朝のニュースに生出演するなどの予定外の嬉しい依頼もあったりして、結局延べ3週間の長野ステイでした。長野を去った2/13は万感の思いに浸ったものです。
ずっと楽しみにしていた長野五輪、最初の一週間は拍子抜け気味だったものの、トータルで振り返ってみてこれほど充実した日々はない、究極の非日常でした。本当に楽しかった。
こんなに楽しかったのは、日頃の業務が楽しかったからでもあり、またそれ以上に一緒に働いたメンバーに恵まれたことが大きかったぁ。仕事に満足できた原因の半分は、このメンバーたちの支えがあったからこそ、といまでも感謝に絶えない思いです。またいつか、みんなで一緒に仕事したいね。きっとだよ。
ボランティア(私の場合は純粋な意味でボランティアじゃなかったけど)って当然、賃金を伴う労働じゃないし、依頼主(NAOC)からすれば無料の労働力なわけだからその働きぶりを評価して勤務評定するわけじゃない、だからボランティア同士なら個々人それぞれが互いに持てる力を活用しながら、誰が忙しいの暇だの言わずに楽しくイベントを支えましょう(もちろん学生の仲良し同士みたいなノリじゃいけないけど)。みんなが(ある程度)楽しくイベントに協力できれば、イベント自体の成功はまちがいないですから。