2000.02.13 京の冬の旅<わびコース>”京の茶の美と茶室をたずねて”

  言うまでもなく京都は寒い。一般に言われる「底冷え」ってやつだ。13日の朝は数日間の寒波が
 少し遠のいたような穏やかな冬空だった。オリーブ色のフリースのパンツを手にとったわたしはほん
 の少し迷った。頭をよぎったのは、わびコース→茶室→呈茶→長時間の正座だ。邦楽部の合宿では
 8時間の正座も苦にならなかったのにあれから20年近くたってしまって、今のわたしときたら1時間
 だってきつい。だけど妙な見栄だけはあるので崩した膝が露見しない裾巾の広い長めのスカートを
 選んだ。それがそもそもの間違いだった。

 
<京の冬の旅・わびコース>
 ・宝鏡寺(百々御所/どどごしょ)と呼ばれる格式高い尼寺、「人形寺」としても有名でかつて貴人た
  ちの愛でた御所人形はじめ古式ゆかしき遊戯具などを所蔵している。春と秋の特別公開と年
  一回(10/14)に人形供養が催される。今回の"冬の旅 "では、鶴亀の庭の奥に位置する山口玄洞
  氏寄贈の茶室「三白社」の特別公開と御所人形などの特別展示を拝見した。

  とにかく寒い。10時10分出発のバスを待ちながら、わたしは京都駅前西側のターミナルに居た。
 穏やかだと思った京の空は、なにやらどんよりと重苦しくどこか雪雲を思わせる相鼠の色に変わっ
 ていた。足下の寒さにうんざりしながら予約引換券を握りしめ、バスガイドさんの改札をまって列に並
 んだ。めあてのバスガイドさんはわたしの差し出した券をにっこりと差し戻し、「あちらの窓口で乗車
 券とお引き換え下さいね。」 「あんた、あほやのん。もう、ええ席がのうなってしまうやないの。」いつ
 だって母は間髪入れず突っ込む。しかたがないので窓口まで走る。京都に来て20年が経っていると
 いうのにまるで「お上りさん」状態だ。券さえ渡してくれればよいのに窓口のお姉さんは懇切丁寧に、
 乗り場を説明してくれる。当然、さっきまで並んでいた乗り場である。「もうそろそろバスが来ていると
 思いますのでお急ぎ下さい。」 そんなことはわかっている。

  バスは京阪バスの観光バスであった。馴染みのある赤と白の車だ。ガイドさん(スチュワーデスさん
 と呼ばせるところもあるそうな)はとびきり明るい。・・・暗いガイドさんはいないかもしれないが。
 みたところ20代前半だと思うが非常に手慣れていて見ていて気持ちがいい。ポンポンとテンポの
 良い会話の中にきちんと伝えるべきことを盛り込んでいる。集団行動だ、伝えるべき事はたんとあ
 る。
   目的地に着いてからの行動、順路、留意点、そして集合時間と場所。左右両方の窓に見える様々
 な社寺へ「車中詣」をうながしながら、時に笑いを織り交ぜながら、きちんとそれらを伝える。巧みな
 話術にほれぼれした。一台のバスに乗客45名、今日のわびコースは3台が連なっていた。
   半分がいわゆるカップル。20代後半から熟年。あとは何処に行っても遭遇しそうな元気なおばさん
 グループ、社員旅行の一環らしき小集団、あと親子連れ(もちろん子といっても大人だ)がうちともう
 一組といったところだろうか・・・。わびコースは出発地点から一番遠い宝鏡寺から大徳寺へまわり、
 京都駅にもっとも近い高台寺周辺、西行庵をへて京都駅に戻り解散である。選んだのはわびコース
 だがわたしと父母の中でちゃんと茶道に通じているのは母だけである。わたしは煎茶を少しやった
 が、母に言わせれば「あれは文人の遊び」なんだそうだ。茶室のしつらえは好きだがお道具を見る
 目もお手前を見る目もない。掛け軸すら読めない。(泣) おまけに今回まわる茶室は全て重文、あ
 るいは国宝なのである。当然中には入れない。庭も同じく、苔をいためぬよう(苔はどこもみごとで
 あった。
  翠なす天鵞絨のグラデーションだ。)渡してある板敷を注意しながら歩く。順に茶室内を見渡すべく
 貴人口や躙り口から首を差し入れ、わずかに客人の気分を味わうのである。
  父はカメラを抱えていた。さすがにいつものブロニカではなくニコンの軽量のものではあったが、唯
  一気遣いのいらない「ねねの道自由散策」のところでずいぶんと時間が押していたのでほとんど撮
 影できる場所はなかったといっていい。「屋内はおそらくだめだろうけど、外なら撮れるだろうし、大
 徳寺には秀吉の愛でた侘び助(まだまだ蕾も固かった)もあるもんね。」と言ったわたしの言葉は完
 全に浮いてしまったのだった。

   京都駅前を出発したバスは堀川通りを北へと向かう。寺ノ内通りとの交差点の手前でバスから降
 りる。旗を持ったガイドさんの後に続くのかと思うとそうではなかった。冬の旅で巡る社寺は、それぞ
 れの地点で専門のガイドさんたちが出迎えてくれる。学生さんだったり、ご年輩だったりだが、ガイド
 さんたちの協会から派遣されるんだそうだ。横断歩道の向こう側に紺色のスーツを着た若い男の子
 2人が立っていて出迎えてくれた。45名は2班に分かれて彼らに従って行くことになる。胸元に同志
 社のエンブ レムが見えた。宝鏡寺にゆかりの人物は、皇女和宮と日野富子である。ガイドさんはよ
 く響く声で、だがどこか棒読みな一本調子が初々しく、まるで突飛な質問を恐れているかのように矢
 継ぎ早に説明してくれるのだった。人形というのはどこかおどろおどろしい物でもあると、変な先入観
 がさきにたってここへは一度も来たことがなかった。愛されすぎてあまりに可愛がられたから夜中に
 勝手に出歩くようになってしまったと言い伝わる人形。髪が伸びるなんていうのは西洋の人形の話し
 だったか。
  一番わたしの興味をひいたのは「天児(あまがつ)」と呼ばれる平安時代のころの人形。これはもろ
 に「ひとがた」に似ていた。厄払いのために息を吹きかけるあれである。ガイドさんの解説によると、
 災いや汚れを引き受けて燃やされたり水に流されていたりしたひとがたが人形の原型。江戸に入る
 ころに見て楽しむ「立雛」などが登場し、その後触って楽しむ「御所人形」となる。とび色の無地の着
 物にねずみの飾り紋なんてあしらった素敵な着物をお持ちのお人形さんんも居た。

  宝鏡寺では呈茶をいただいた。表千家社中のお若い方々が6、7人と先生とおぼしき妙齢の女性
 がお一人。お若い方々の半分が袴姿の男性でした。軽くいただき方の説明などを先生がなされて、
 お手前がはじまります。茶室とはいっても書院式なので30名はゆうに座れる。円山応挙のふすま
 絵、かたへの板戸には応挙の孫の筆によるものなどなど。わたしは長谷川等伯の方が好みかも。
  などと思いつつ、どこだかで見た等伯の息子が2年かかって描きあげた桜のふすま絵など思い出
 していた。その等伯の息子は(名前を思い出せぬ)その後二十?歳で亡くなったそうな。
  お手前はすすみ正客へお茶碗が差し出された頃合いを見計らって奥の水屋から立て続けにおう
 すがやってくる。そうそ、お菓子の話しを忘れていた。座についてすぐに運ばれてきたお菓子は美し
 い萌葱色でありました。なにを隠そう書院の茶室に入る間際「懐紙もってこんかったやんか。」と母
 はひとしきりごねたのでした。「お茶のコースやってなんでゆうとかへんの。」「だいじょうぶだってば
 こういうとこのんはちゃんと懐紙にのせてもってきてくれはるわ。」「そんなことあらへん。」ってな具
 合である。ご参考までに・・・案の定お菓子は懐紙に黒文字つけてちゃんと運ばれて来たのでした。
  菓子名は「下萌え」。美しいっ。まだ水もぬるまぬ如月にそれでも大地に根ざした草花は春をめざ
 して息づいている・・・そんな感じでしょうか。おいしゅうございました、はい。
  それにしてもバスの旅にそんなゆるゆるとした時間が流れるわけがない。おうすが運ばれて、い
 よいよ佳境に入ってきたせんせのお話。「のちほどお道具やしつらえも見ていただきます。」の声を
 惜しみ聞きながら「バスの時間が・・・」と茶室を後にしたのでした。
  正座がいやで呈茶を失敬していた父は、屋外へ出て「人形塚」を写真におさめておりました。うー
 ん、上七軒のおかめさんの像のんが好き・・・やはり格式や由緒正しきもろもろにはついて行けない
 わたしであった。ただ人形塚の横手にあった木。たぶん「右近の橘」であると思うのだが「だいだい色
 の実をたわわにつけて見事な姿でありました。
  宝鏡寺をあとにして、堀川通りで待つバスへとそそくさと戻ったわたしたち親子。バスではガイドさん
 と運転手さんが談笑中で、「さぶさぶ、さぶー」と小走りになるわたしたちをばたばたと迎えてくれた。
  ぞくぞくとそれぞれが帰還。ふとみると交差点の信号の下でさきほどの学生ガイドさん二人が見送
 ってはった。「ありがと。」くらい言うべきだったとちょっと後悔。

  さてバスは、宝鏡寺から十五分とかからない大徳寺へと向かう。
     ・大徳寺 嘉暦元年(1326)大燈国師により創建された臨済宗大徳寺派の大本山。
           塔頭が・・・いくつあったか(?) 豊臣秀吉が織田信長の葬儀をおこなったこ
           とから諸大名がこぞって本坊のまわりに塔頭をもち大寺院に発展。
            今回はその中から「聚光院」と「総見院」を拝見する。
 大徳寺の駐車場にバスを置いて、今度はガイドさんも一緒に大徳寺山内へと入った。 いわゆる
 「冬の旅・わび」の旗について歩くのだ。なにやら嬉しい。朱色の大きな門があった。「これは有名で
 すよぉ。千利休が自分の木像をこの門の上に安置したところ、その木像が雪駄をはいていたもので
 秀吉が激怒したんです。雪駄履きのおまえの下をわたしが通るのか!と・・・。」やだ、ちょっと歴史を
 ひもといてくれば良かったとちらっと後悔した。
  ガイドさんとは聚光院の前で別れた。「わたしはこちらで待ってますから、なかでは専門のガイドさん
 に従って下さいねー。」旗ともしばしお別れである。
  聚光院では女子大生ガイドさん二名が、宝鏡寺のときと同じようにわたしたちを二班に分けて案内
 してくれた。最初に「ようこそ・・」と口を開いた方の女の子はまだ新米なのかぎくしゃくと何度もつまっ
 てしまっていた。わたしはもう一人のガイドさんの後ろにつくことになる。この人の語りは流暢だ。色が
 白くて北の方の出身かなと思わせる。BUT、抑揚のあるくっきりしたよく通る標準語で聚光院の6つ
 の部屋を案内してくれた。茶室は二室。パネルを使っての間取りの説明と炉の切り方客座と点前
 座の位置関係などかなり詳しい説明を聞いた。この二室は真ん中に水屋をはさんで繋がっている。
   ここには百積の庭といって苔庭に直線上に庭石を配した石組の庭がある。これは利休の作だそ
 うだ。聚光院を出る前にこのとびきり素敵な声のガイドさんに声をかけた。「演劇か、歌か、何かやっ
 てる?」彼女は一瞬きょとんとしたが気を取り直したように「ガイドやってる学生ばかりのサークルが
 ありまして、そこで演劇を少し・・・。」「ちゃんと発声練習してる人だなって思いました。うっとりするほ
 どよく通る良いお声でしたよ、ありがと。」と言うと恥ずかしそうに目を伏せて彼女はおじぎをした。
  アルバイトとサークルに明け暮れた自分の大学時代を思い出しながら私も少しくすぐったかった。

  聚光院を出ると待っていたバスガイドさんに連れだって、総見院へと向かう。こちらでも同じ、バス
ガイドさんとしばしの別れ・・・・本堂の前では60代後半とおぼしき男性ガイドのおじさまがいらした。
  さすがに・・・何と言えばいいのだろう。「歴史好きです、秀吉?まかせてください!」って感じの、と
てもシルバーなんて言えない高校の歴史のせんせ然としてはりました。
  さてさて総見院は1582年秀吉が信長の菩提を弔うために古渓和尚を請じて建立されたもの。
  当時は豪壮で華麗を極めたと言うことだが廃物毀釈で一時廃絶、その後大正期に再興されたそ
うだ。なんでも本堂は僧堂(禅僧が修行をするお堂)として長く使われていたらしく畳の配置にその名
残があった。こちらでは参拝者にお茶とお菓子がふるまわれ、冷え切った手と身体にとてもありがた
かったのだった。流暢なガイドさんで、でもでも「あまり冗談をいわない」堅物系なせんせの感じ。
  ここには大きな茶室が3つもあった。大きいというのは比較的時代が新しいせいかもしれない。
  境内には信長をはじめ織田氏一族の墓がある。惜しむべくは、秀吉が利休から譲り受けたという
豊公遺愛の”わびすけ椿”(市の天然記念物)が咲いていなかったこと。かなり大きな古木で固い蕾が
たくさんついていた。椿は「わびすけ」である。
  総見院の前ではガイドさんがいらいらしながら待っていた。時間はずいぶんと押しているようだ。
  「まだ中にいらっしゃる?」と聞かれたので、「わたしは信長のお墓までは行かなかったけれど、皆
さん境内の奥の方へ向かってはりましたから、あと10人くらいはまだではないでしょうか。」と答えた。
  もっとも「信長の墓」だと知らずに「奥にまだなにかある。」と言われてぞろぞろついて行った人が
大半みたいだったけど。なぜにガイドさんはいらいらなさるか??? それは昼食の時間だからです。
  ぞろぞろと出てきたお後の方々ともどもやっと集まったところで割烹着を着たおばさんがおもむろに
携帯を出して「いまから冬の旅わび3号車のみなさま向かわれます。」と宣った。
  昼食は同じ大徳寺境内にある「泉仙」という精進鉄鉢料理の店。「泉仙」は実をいえば懐かしい。
  何年前だろう。熊本のネット友が上洛したおり、名古屋に住む京都大好きの御仁が京都駅前駿
河屋ビルにある「泉仙」でごちそうして下さったのだった。春・・・それもたしか4月のはじめ。もう飛行機
に乗ったろうか・・・とぼんYり考えていたわたしのデスクに電話。「ひゃー、いまどこ?」「んー、実はまだ
熊本出てない。」「え??」「こっち大雪で飛行機飛ばない。」「うっそー、こっち晴ててあったかいよー。」
  ずっと後で聞いた話だが九州は以外と雪が降るらしい。・・・・話しは大きくそれましたがもどしましょう。
  「精進料理は食べた気がしないからなー。」とかってやや不満げな父を伴って座につきました。
  寒さのせい、板張りトイレの床暖房がとてもとてもありがたかった。ひとしきり鉄鉢料理の由来を
聞きながら意外とボリュームのある精進料理を堪能。向付八寸、煮物、揚げ物、椀物・・・・なかでも
胡麻豆腐の葛あんかけは大変美味しゅうございました。申し訳ないが胡麻豆腐にはちょっとうるさい
わたしであります。市販のもののなかには一流老舗のだってあまりに「葛」が多すぎて胡麻の風味が
少なすぎるものがある。ときたま「わーはずれ」(涙)に出くわすのでした。こちらのは生姜入り葛あん
にも負けないほどの胡麻の香ばしい香り、ひさひさに堪能しましたです。お酒を頼んでらっしゃる方々
もちらほら。寒いし当然かな・・・「父さん、呑まへん?」「昼間呑むと眠くなるからいらん。」おっ、賢明
でないの。仲居さんがもってこられるお酒を見ていると鉄瓶に入れられてくる。なんだか時代がかって
いて素敵なのでした。もうひとつここの名物は「梅の甘露煮」。いただいたお膳ではこの甘露煮をテン
プラにしてありました。わたしには胡麻豆腐のほうがずっとありがたいけど・・・。だってお茶菓子みた
いなんだもん。でも非常に手間のかかるものらしく、梅干しの梅と同じ、いったんは塩漬けにしたもの
を何日も水をかえて塩分を抜き、その後蜜で煮るらしいです。手間がかかるということは・・・そです、
お高いですね。紀州にも甘露煮はありますけどあちらは紫蘇で巻いてあって甘酸っぱさに紫蘇の香り
がいい感じでお酒にはこちらのほうが似合うかと・・・。

  さて昼食をすませた一行はバスに乗り込み、京都の繁華街祇園を横目に東山の高台、高台寺周
辺「ねねの道」へと向かいます。

  ねねの道自由散策の時間はわずかに30分。円山公園横から八坂の塔を横目に高台寺へ続く道
(そこから清水坂までの坂道は二年坂や産寧坂)が「ねねの道」とネーミングされたらしい。沿道には
「掌美術館」という小さなギャラリーがあってここにはねねの縁の小物、蒔絵の文庫や手鏡などが数
点展示されていた。おつけものやはん、抹茶ソフトの幟をたてた甘み処、お箸やはん、珍しいところ
ではお坊さんグッズを売る「倒変木」などというお店が軒を連ねている。30分ではとうてい見て歩けな
い。「掌美術館」をさっと流して早めに集合場所である八坂の塔の前で待った。陽はずいぶんと落ちて
来て寒さがまた一段と厳しくなる。しかし斜めから石畳にさす西日の色はいい感じ。少し人恋しくなる。
  バスガイドさんの旗のもと、連れだって西行庵へと向かった。西行庵は屋外コンサートで有名な、
円山公園音楽堂のすぐ南側にある。平安の歌人西行ゆかりの西行堂のほか、母屋、離れ、皆如庵
という茶室がある。この茶室は桃山時代宇喜多秀家が娘の嫁ぎ先に引き出物として持参したと(茶
室を持参するのか!?)伝えられ円窓を持つ床と道安囲いが特徴で夜咄(よばなし)の席とも呼ばれ
る名席であります。また母屋は大徳寺真珠庵にあった浄妙庵室を移築したもので、主室、二畳台目、
土間席、居間など住居を構成している。土間席はつまり土間に床几が並べられ椅子に腰掛ける形で
いただける現代風なしつらえであり、ここは非公開ではあるけれど今でも月に二度、西行をしのぶ形
で茶のお稽古が行われているということです。こちらでも若い大学生が男女二人ずつ狭い庵の中に
いて案内してくれました。

  西行庵をあとにした一行はバスへと戻った。わびコースの見学はここでお終い。あとは京都駅まで
しばしの別れを惜しむ30分ほどが残されたのみ。泉仙で昼食をとったとき斜め向かいに座られたご
婦人に見覚えがあって数分ぼぉっと見とれていたらそちらから声をかけてくださった。「どこかで・・って
さきほどから思いだそうとしてるんですけど・・。」上品な抑揚の声を聞いてふぅっと湧いてきたのは懐
かしい左京区にいたころの事。「あ、岩倉で生協の委員か何かされてませんでしたか?」「幡枝のセン
ターの委員をしてましたけど、あぁ、生協で、たしか・・・。」「はい、ブロックの委員をしていて岩倉は受
け持ちでしたから度々よせていただいていたので・・・。」「懐かしい・・・バリバリともっと上のほうに行
かはったんでしょ?」「いいえ、転居して今はフルタイム働いていますから、すっかりただの会員です。」
 その後懐かしいお名前を2,3あげながら「また岩倉のほうへもいらっしゃいな、毎月料理教室みた
いに材料持ち寄りで美味しいもん作って集まってますのよ。」とにっこり笑ってくださった。岩倉は懐か
しい。いまでも緑あふれているに違いない。遠くに来てしまった思いがまた人恋しさをつのらせる。
 
 それぞれにバスの中では、言葉が交わされていた。京都駅についたら三三五五なのである。なん
だか、袖すり合うひとときを過ごした者として言葉を交わしたくなるそんな気持ちが誰にもあるのだな。
 お隣の列の六人連れは職場のお仲間だそうだ。わたしが京都在住だと言うと、お土産はなにが良い
と思うか?と聞かれた。7,8歳下とおぼしきが38だというのでそんなに離れていなかった。娘には近く
でおもちゃと決めているという。「賢明よ。」と答えておいた。「奥様には?」「少しでもたくさんお金を残
して来いって。」「すばらしい。」その隣の妙齢の女性は「一点豪華主義で清水焼きの茶しんこ」と言っ
て見せてくださった。わびコースを選んだ値打ちのある方だ。
 前の席で父は隣のご婦人と談笑していた。女性ばかり四人で今朝静岡から来たそうだ。京都駅で
一休みして今日中に帰るのだとのこと。すごいバイタリティ。女のグループは老若問わず元気である。
 ってなわけで、はじめてのおつかいならぬ「はじめての京の冬の旅」でありました。観光客じり貧だ
と噂される京都。大学の他府県への流出も著しく「学生街」としての趣も遠からず変わっていくのでし
ょう。景観の問題、社寺の問題、交通、ごみ、産業・・・・。伝統を背負ってるだけに抱えてる問題も重
たい。どんな風になっていくのでしょ、京都は・・・。いつの時代も市民の動きは活発で時々明るい光
が差し込みます。ドーナツ化で廃校になった町中の小学校、アーチストたちに貸し出してなかなか面
白い取り組みをやっているようです。この前もタウン誌に、以前住んでいた山里の近くにいらしたピン
ホール写真家のお名前を見つけて「あ、」と思ったことでした。またそのうちそんな様子でもちんたら
書いてみるかもしれません。・・・・そのうち。ご静聴(??)ありがとうございました。
                        <完>

 

<冬の旅数首>

利休作とふ石庭に人の立ち並び「百人の庭」とて石に見らるる

どれどれと首差し入れて探さねば千利休の小さき木像

躙り口と貴人口より吹いてくる風は明度とにほひが違ふ

「下萌え」とふ菓名やさしき如月の呈茶受けしは人形の寺

つま先のストレッチ足袋に目をやれば「おまつとうさんどす」と声かけられぬ

三月堂古書店に『鵞卵亭』あるやらむ京都寺町御池を上がる


          
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