京都の迷跡
ようこそ 京都の迷跡へ!
ここでは観光ガイドにあまり載らない隠れた史跡等を紹介します。
- 目立たない史跡
- 一の舟入(いちのふないり) ・・・・・・・・、江戸時代初期に京都と伏見を結ぶ運河として商人の角倉了以(すみのくらりょうい)によって開かれました。
当時、鴨川を船で上って伏見に着いた物資は陸路京都の中心に運ばれていましたが、この約10キロの運河によって大阪と京都の物資と人の輸送が飛躍的に楽になり商業の発達に大いに貢献しました。
鴨川に添って流れる小さな川は木屋町通りと伴に庶民に親しまれました。流れの源は鴨川に沿った「みそそぎ川」の二条通りの南です。
その船だまりとして港の役割をしたのが「舟入」(ふないり)その一番上流に位置するのが「一の舟入」そこには南へ下る高瀬舟が何艘も繋がれ、物資と人の積み下ろしで忙しくしていたものでしょう。
今は静かに水をたたえるだけとなってしまいました。木屋町通りを二条通りから南へ下がった右側にあります。森鴎外の小説でも有名になった高瀬川です。
- 目立たないけど日本一有名なお寺
- 本能寺 ・・・・・・・・ 戦国の武将、織田信長が明智光秀の謀反に会い1582年命を落としたのはほとんどの日本人が知っています。
しかしその本能寺が何処にあるかそれは意外に知る人は少ないはずです。しかもその場所が京都市の中心部にあり観光客で溢れる繁華街のすぐ側にあるというのは
ほとんどの人は知らないでしょう。
その場所は河原町通りを三条通りから北へ御池通りに向かって歩くと御池通りの30m手前にあります。河原町通りに面した入り口はほんとに小さく間口1.5m
しかなく、急いで歩くと通り過ぎてしまうから注意しましょう。
河原町通りに面した入り口
境内には織田信長の墓所もあります。
織田信長公廟、 境内の織田信長の墓所
注:信長が謀反に会って命を落とした時の本能寺は今の場所よりずっと南、五条坊門に在りその時焼失したので今の場所に移ってきたといわれています。
◎ 所在地は上の図参照
- 見過ごしてしまう幕末の騒動跡
- 池田屋跡 ・・・・・・・ 幕末に活躍した「新選組」誠の旗のもと“鉄の規律”と“一つの信念”の元に行動した彼等のエピソードは上げれば数しれません。
その中でも有名なのが“池田屋襲撃事件”勤皇の志士を三条の池田屋に襲撃した事件は数多くの映画やテレビで取り上げられました。
この襲撃で数多くの勤皇の志士が犠牲になり、明治維新が1年は遅れたと言われています。
20数年前は「佐々木旅館」が営まれていましたが今はテナントビルに変わり、その前に「石碑」が残るだけとなり当時の面影を忍ぶ事はできませんが、繁華街のすぐ傍に在ったと言う事を知って下さい。
場所は三条通りを河原町から東へ 80m北側にひっそりと石碑が建っています。(三条小橋からは西へ4軒目)
◎ 所在地は上の図参照
- 戦国時代の悲劇の関白
- 豊臣秀次 ・・・・・・・ 豊臣秀吉に運命を弄ばれ、三条河原で一族全員斬首に処せられた悲劇の関白。その墓所が三条木屋町を南に10mにあります。
◎ 所在地は上の図参照
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