熊との遭遇

 山で何が恐いと言っても、「熊」ほど恐いものはない。今まであちこちの山へ出かけたが、私も一度だけ熊と遭遇したことがある。
 もう何年も前、谷川岳へ一人で行った時のことだ。午後から西黒尾根を登り始め、その日はトマの耳とオキの耳の間の笹藪の中にテントを張って一夜を過ごした。
 翌日は茂倉岳、蓬峠を経由して土樽へ下るコース。天気は今イチで雨の中の縦走となったが、それでも最後の頃には天気も回復し、残雪を頂いた上越の山々が遙か遠くまで見渡せ、それなりの満足感を味わうことができた。
 あとは土樽の駅に降りてビールで一人祝杯をあげようなどと考え、樹林帯の道を下山していた時である。
 突然、前方20mほど先の笹藪で「ガサッ、ガサガサガサッ…!」と物音がしたかと思うと、大きな黒い岩のような固まりが物凄い速さで横切って行ったのである。
 「く…、くま?」
 あまりに咄嗟のことで、どう反応していいかわからない。見た目は人間よりも遙かに大きく、(実際はそれほどではないのかもしれないが)体長2m近くあるように見えた。幸い、その熊は獲物でも追っていたのか、こちらの存在に気付くことなく、登山道を横切るようにヤブの中へ消えていった。
 もし、私がもう少し早く歩いていたら…。
 あるいは熊がもう少しゆっくりしたペースで下ってきたら…。
 とにかく助かったのはほんのタイミングの違いでしかなかった。
 その後は、近くに落ちていた空き缶を拾い、それを棒で叩き、さらに大声で一人言を喚きながら下っていった。
 蓬沢出合に近づいたところでライフルを担いだ地元のハンター集団と出会った。
 「上の方に熊がいた!」と私が告げると、ハンターたちは別に珍しくもないといった顔でいろいろ話を聞かせてくれた。
 話によると、やはり熊に出会うのは春の雪解けの頃と晩秋の冬眠前が多いらしい。私が会ったのは一匹だったので、おそらくオスだろうとのこと。オスの場合、突然向こうから人間に襲ってくることは少ないそうだが、それも確かではない。
 むしろ、恐いのは子連れのメス。子供を守らなければならないという過剰な防衛本能ゆえ、人間が何もしないうちに向こうから襲ってくるという。

 あれ以来、私は春と秋の熊が出そうな時期には上越の山へ行かないことにしている。

 

1999.9.1〉

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