ボニントンはだらしない男?

  おそらく、60〜80年代の海外クライミング事情に詳しい人ならクリス・ボニントンの名は聞いたことがあるだろう。

 世界的に有名なアルピニストで、イギリス人として初めてのアイガー北壁に登ったり、当時ヨーロッパ・アルプス最後の課題と言われたモンブランのフレネイ中央岩稜初登、さらにヒマラヤではアンナプルナ南壁やエヴェレスト南西壁などのビッグクライムを成功させた遠征隊隊長として知られている。
 ボニントン率いるイギリスの先鋭クライマー集団は、その頃、世界最強の「ボニントン一家」などと呼ばれ、私のように70年代後半のW級クライマーにとってはまさに雲の上の存在だったのである。
 ボニントン氏の写真は山岳雑誌などで、いくつか見かけたが、中でも印象的だったのはアイガー北壁を登った時だったろうか、ビバーク時に食事をしている時のものだった。
 何とその写真の中でボニントン氏はハーケンをスプーン代わりに使っていたのである。彼らは、荷物の重量を1グラムでも減らすため、余分な物は一切ザックの中に入れなかったという。そういった話は山の世界ではよくあり、やはりイギリスの登山家シプトンとティルマンはヒマラヤ遠征の際、フォーク一本持っていくかどうかで口論したという逸話がある。
 それにしても、その時のコッヘルからハーケンでメシをすくっているボニントン氏を見て、ヨーロッパのクライマーに憧れていた私などは単純に「カッコイイ!」などと思ってしまったのである。

 それから十数年。あのボニントン氏が来日するという。その頃、私はアルパイン・クライミングの世界からは遠のいていたが、かつて若かった頃に憧れていたボニントン氏をぜひこの目で拝見したいと思った。

 その日、群馬岳連のエヴェレスト遠征報告と一緒にボニントン氏のスライド講演会が東京のとある会場で行われることになっていた。朝から大雨が降っていたにも関わらず、さすが世界のボニントン氏。かなりの人出で賑わっている。
 とりあえず会場の座席を確保し、講演が始まる前にトイレに入っておこうと思った。便器の前に立つと、いきなり私の横に大柄の外国人が並んだ。ボニントン氏の連れかな?と思いながらも用を足し、その後、手を洗っていると、どうもその外国人は手を洗ったはいいもののハンカチを忘れてしまったらしい。
 一瞬、貸してあげようかと思ったが、咄嗟に言葉が出ないうちに、その男は困ったような顔をして、その場でプルプルとしぶきをまき散らして出ていってしまった。

 そして、いよいよ講演開始。群馬岳連の報告が終わり、やがて壇上にボニントン氏が姿を現した。
 「げっ、さっきの外国人・・・。」

 そう、先ほどトイレでハンカチを忘れて途方に暮れていたあの男こそがボニントン氏だったのである。どうも私たちはイギリス人というと、立派な英国紳士を想像してしまうが、案外「山屋」なんてどこの国でもいい加減でガサツなものなのかもしれない。あのアイガーでの写真も実は荷物を軽くするためではなく、単純にスプーンとフォークを忘れてしまっただけだったりして…。

1999.8.31〉

Essay Index