数学の偶然性 ~聖なる魔王がサイコロ審判~

制作者:KrK (Knuth for Kludge)

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現代科学は兎角「数学的確かさ」を重要視する傾向がある。しかしそれは絶対なのであろうか?

数学は「1+1=2」から始まる。しかし、これとて「定義」に過ぎない。「ここりんごが1個あり、他方にもりんごが1個ある」と「りんごが2個ある」は同義ではない。ここに在るりんごと他方に在るりんごを同じ「1」とする時点で、それはもう抽象化であり「事実」ではない。他方に在るのがみかんである場合を考えれば明確であろう。

とは言え、「1+1=2」が「1個と1個が近づくと2個になる」という「見た目」に近いことは確かである。しかし、その後四則演算に始まり、分数・小数、微積分、複素数と「定義」を重ねるにつれ、「見た目」から遠ざかっていく。

その様な様々な「定義」を「公理」と呼び演繹していた結果、複雑な式が「導出」される。はたして、その複雑な式が「事実」と一致すると保証できるのは何故であろうか?

x2で推移する数の増加速度は2xである。数学的には正しい。だが、x2で推移する物理量の増加速度が2xでなければいけない理由はどこにもない。たまたま今まで計測してきた物理量が数学上の値と一致しているからといって、物理量のすべてが数学上の値と一致する保証は一切ない。

そもそも、数学はどこかに「存在」するものではない。あえて言うなら人の心の中にしか「存在」していない、言語ゲームである。そんなものが観測機器の値と一致したところで、「偶然」である可能性は否めない。

宇宙が数学という言語で書かれている保証はどこにもない。

「すべての科学は、物理学か切手収集。」Ernest Rutherford


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