MMR事件に先行して発生していた症例

 阪大微研会製「おたふくかぜワクチン」接種後に「てんかん」を発症し、知的障害、身体障害をきたし、医薬品副作用被害を認められ、医薬品機構から救済給付を受けている事例があった。
 これは1例だが、MMRワクチンはもともと問題のあるワクチン「阪大微研会製おたふくかぜワクチン」を含んでいたのである。

 接種:1983(昭和58)年12月2日 4歳男 医薬品機構の障害年金1級受給

 損害賠償請求の調停:1987〜1989年 相手方、阪大微研会と田辺製薬は関係を否定しきれず「見舞金」を支払った。

 報道:1994年(平成6)年6月1日 朝日新聞朝刊 大阪版

 MMR大阪訴訟での証言:

 厚生省薬務局でMMR製造承認に関する生物製剤基準作成に当たり、副作用情報を知る必要のある立場にいた國枝証人は、この症例を知らなかったと証言している。この症例がMMRの製造承認に際して参照されなかったことになる。


─────任意接種被害の手記────────
  被害体験から告発する!
おたふくかぜワクチンと医薬品副作用被害救済制度の問題性
  ────京都からの報告・宇治市 栗原 敦──

        1994年2月起筆 95年10月改訂
注:昨2001年12月の閣議決定を受けて、医薬品機構を改変するための法案が上程され、関係者が問題視しています。(02.11.5注)

■誕生1979(昭和54)年5月1日生まれの長男は、歩き出すのがやや遅れたようだったが健康そのもの。3300cで出生。おじいちゃん、おばあちゃんの初孫誕生。私の職場が学校であることから「おとうさん」と言うまでは「ガッコウ、ガッコウ」と言って皆を笑わせた。  「昭和55年4月28日(月) やがて一年になろうとしている。たけしと桜並木を散歩しながら私は今最高に幸せだと思う。自転車に乗せるとよろこんでバンザイをしたり、移り変わる景色をキョロキョロとしてながめている。病気をせずにこのまますくすくと育ってほしいものだ。」「昭和56年2月15日 この頃、チュンチュンとニャンニャンが言えるようになった。仏様のお参りも上手にできる。毎日、ちゃんと鐘をならして手を合わせて「マンマンマン・・・」とお経のような口調で何か言ってから、最後にチョコンと頭を下げる。知らないなりにもこうしてお参りをしていたら、きっと仏様もたけしを守って下さることでしょう。」(母の育児日記より)  予防接種は「まじめに」おおかた受けさせたが、副反応は何もなかった。三種混合、ポリオ、麻疹、日本脳炎の接種を昭和54年から、同58年までに受けたが何の異状もなく過ごしてきた。発病する4才7ヶ月までには「ヘンゼルとグレーテル」を読んだり、時計も読めるまでになっていた。  国産第1号のおたふくかぜワクチン「ビケン」市販が昭和56年だった。

■被害発生 83(昭和58)年12月2日、4才7ヶ月の長男におたふくかぜワクチンを接種させた。翌春の幼稚園入園をひかえ、感染症や予防接種の知識が「生半可な」(世間なみ)両親は、事故など全く予想だにせず実行してしまった。約2週間後、39℃余りの高熱が続き「耳が痛い足が痛い。」など訴えた。3、4日後回復したかにみえ、長男は屋外で遊び始めた。12月20日午後4時頃、病み上がりのわが子を気にしながら見ていた母親が「どこへ行ったのやろか」と捜しに行くと草むらに意識を失い口角に泡を出して倒れている長男を発見。隣家のおじいちゃんに頼んで車で5分程の救急病院に運ぶ。即入院となり、父が付き添った。翌21日朝、初めて「てんかん発作」を目撃、これがわが子かと目を疑った。無知ゆえ、あわてて指をかました、強烈な痛み。以後頻発する発作。主治医は外科医、今思えば「髄液」の検査はなかった。数日後、非常勤の脳外科医に「てんかん」の告知をうけた。ワクチン接種は、近くの開業医にしてもらったが、この時その先生に報告することなど思いもしなかった。てんかん治療のために国立病院、私立病院、てんかんセンター等通院・入院を慎重に繰り返したが、12年めの今もてんかん発作はコントロールされず、知的退行と機能障害を合併している。正確なことは不明だが、ワクチンウィルスによる「遅発ウィルス感染」(麻疹後の後遺症として亜急性硬化性全脳炎=SSPEがある。難病にして短命に終わる)も疑われた。現代医学の限界にかかわる程の症例といえそうである。今もって薬物療法による発作の解消には至らず、難治てんかんである。93年4月から5月にかけて東京都立神経病院に入院し、外科的治療(脳内の発作焦点部位の手術)の可能性を検討したが「処置不能」とされた。  てんかん発病直後から「薬で治るよ」といわれていたので、しばらくはことの重大さがわからなかった。国立療養所静岡東病院(てんかんセンター)で執拗な問診と精密な検査の結果、「精薄ですね」を聞いたとき我が耳を疑った。賢そうに順調に成長してきた我が子が知恵遅れを指摘された 時、最も落胆し戸惑ったことを覚えている。それまではワクチンとの因果関係などどうでも良かったのかも知れない。  行政が認定した障害の程度は、療育手帳A(重度)、身体障害者手帳4級。ただし申請当初の療育手帳はA(軽度)だった。脳障害が進行したことがわかる。12年後、95年7月宇治市の障害福祉係から紹介され「障害児福祉手当」を請求したところ、簡単に認定された。係いわく「これは最重度の在宅障害児に支給される手当です。」  接種と発病の翌84(昭和59)年、接種医に報告し「副反応ではないか」といわれた。

■被害の認定・救済 幸いなことに、接種医は「医薬品基金」(財団法人、医薬品副作用被害救済基金=当時、現在は医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構、略称=医薬品機構)の存在を教えてくれた。後にわかったが、医師でさえ存在を知らない者が多い「医薬品副作用被害救済制度」を接種医が教えてくれたことに感謝している。「任意接種」後の被害救済はこれによってなされる。この制度は「スモン」以後法制化され、医薬品関連企業の拠出金によって運営される。また認定は厚生大臣(中央薬事審議会)が行う。関わる部署は薬務局安全課医薬品副作用情報室(当時)及び同企画課医薬品副作用被害救済対策室である。  さて、長男の発病を被害と認識して約2年かけて「救済申請」した。2人目の主治医(国立京都病院小児科)は、長男の接種した「阪大微生物病研究会製おたふくかぜワクチン・ビケン」接種後の同様の副反応を知っていた。その医師を中心に基金の所定の申請書類以外に「意見書」を4人の医師に書いてもらって提出した(1985年12月)。翌年8月上旬「支給決定通知」が届いた。8ヶ月後であった。ただし、受給した医療手当は満額ではなく、24ヶ月分の内の8ヶ月分のみだった。  判断の詳細は公開されないためわからないが、不十分ながら救済給付が支給されたことは、一定の因果関係が認定されたわけである。通知を受け取った直後から「審査申立」(通知を受けた日の翌日から2ヶ月以内)の文書作りにかかった。基金は長男の発病した1983年12月から翌84年7月までの医療手当を認定したが、退院日の同月20日をもって「てんかんの診断と治療方針が確定したと思料される」(審査申立に対する「厚生大臣の裁決書」の記述)として棄却した。しかし、7月20日の退院は決して医師の判断ではなく、やむを得ないものだった。本人の祖母が気管支喘息を発病・入院したため、2歳の長女を見る者がいなくなり新潟の義母に預けられていた。幼子が遠く母親から離れて長期間過ごすことは無理だった。2ヶ月にもなると限界だった。新潟から届いた写真には、従兄弟達と一緒にいるが寂しそうな表情ばかりの長女が写っていた。今あらためて「可哀想なことをしたな」と思う。つまり、入院で薬合わせを続けることが不可能になったのである。厚生大臣、厚生省は非情である。  往復3時間京都市内への通院が続き、特に母親の心身の負担、経済的負担を強いられた。これ程理不尽なことはあろうか、被害としてのてんかん治療、その通院に伴う様々な負担がなぜ救済されない。医療手当の申請、不支給、審査申立そして棄却が繰り返された。重積発作などで入院した時しか医療手当が支給されない。おかしい!今もなお申請、審査申立を続けている。  ところで長男の症状が改善されず固定した時点で、「特別児童扶養手当」を可能な限りの資料を例外的に添付して申請した。市の職員は「こんな申請事例は初めてだ」と言いつつも受理した。そして、期待した「1級認定」がなされたが、重度障害児のレッテルを貼ることになった。しかし被害者意識は強く、享受できる福祉の全てを獲得しなければと必死だった。それをふまえて医薬品基金に「障害児養育年金」の請求をし「2級認定」がなされたが、認定基準が「特別児童扶養手当」の基準と同じような内容だったので1級認定を求めて等級の「改訂申請」をし、意外にも「1級認定」が実現した。何とか、2つの年金を獲得できたが、そのための労力はあまりに大きかった。  ことある度ににぶちあたる壁は厚く、それを打開しようと年々多大の労力を費やさねばならない宿命を感じてしまうのである。  年々発作は増悪し、その度に意識と言葉を失い、寝たきり状態、飲食困難で服薬がたいへん。介護の労が増大するに比例するかのように、行政とのやりとりを始め「活動の量と質が高まる」ことは被害者家族には避けられないようだ。

■損害賠償請求 私達の闘いは新たな段階にさしかかった。1987(昭和62)年から1989年2月にかけて、阪大微研会と田辺製薬(販売会社)を相手どって「調停」に入った。基金が不十分ながらも認定したこと、学界論文のなかに「おたふくかぜワクチンの問題性」を指摘するものがあったこと、等を土台にして踏み切った。しかし、本訴にもっていくには因果関係を証明するに十分な資料がなかった。日弁連で薬害を含む公害問題を担当していた中村雅人弁護士の支持もあり、また京都のスモン弁護団の一員であった中島晃弁護士(現在京都水俣病訴訟の弁護団事務局長)を代理人として申し立てた。有能な弁護士との出会いがあった。相手方は当方が提出した資料には全くコメントせず、長男のカルテのささいな記述を過大にとりあげワクチン由来のてんかんではないことを強調した。結局「見舞金」の支払いを認め、自己矛盾をさらけだした。1989年2月、和解。「180万円」なりだった。当初の提示額は2桁。これを見舞金とは思わない。利潤追求最優先、非情な企業の仕業と思っている。  まもなく同ワクチンを含むMMR新3種混合ワクチン接種が厚生省の鳴り物入りで開始、被害が続発する前夜であった。

■事故は何故隠されるか  予防接種後の健康被害の事実は多くが結果として行政によって隠されてきた。副反応、特に重度の障害発生や死亡など重篤な健康被害は国民には知らされない。接種以外に考えられる原因が他になければ疑ってかかるのが科学の(医学の)当然の思考であるにもかかわらず「社会防衛」を最優先するため、接種率の低下を避けるためか、行政やワクチンメーカーの利害からか、うやむやにされてきた事実が多数存在したことが強く推測される。4大裁判がそう断定した。  大阪府堺市にある「予防接種情報センター」の藤井俊介さんは毎年の被害の認定状況(行政が被害認定をした事例のみ)を情報公開請求をし、入手されているがその公開のために報道関係に発表してもとりあげられないという。当局から圧力がかけられるのか、自主規制があるのか結局関係者の手元にとどまって一般大衆の目にはなかなか触れない状況があるという。 予防接種の健康被害に関しては、つまるところ「情報が隠匿されている」のである。その中で、行政もマスコミも「最後は保護者の判断が重要だ」と異口同音に言う。十分な情報がないなかで判断できるものではない。市町村の担当職員は情報を提供されずに、住民の迷いや不安の声に対処させられることになる。真剣な保護者は育児雑誌や本を読む。しかし、「御用学者」の書いたものから純粋に研究者としてまた科学的な思考力をもった専門家によって書かれたものまで読みあさってみると「予防接種をめぐる専門家の間にある意見の相違」が明らかになって、結論は「ああ、ますますわからない!」となるのである。 さて、任意接種である長男のケースが「隠匿されてきた」原因を具体的に考えていくと、次の2点にあると思われる。@厚生省薬務局の仕事である「医薬品副作用モニタ−制度」の欠陥もしくは限界。A医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構が情報を制限していること。もちろん、根本は厚生省が命に関わる「医薬品」の安全性に関する徹底した監視体制をもたない、国民に積極的に情報提供する姿勢がないことであるが、現行の制度すら十分な運用がなされていないことを具体的に知ったので指摘したい。  【表】医薬品副作用モニターの報告数    年 度    報告数 1病院当たり報告数   昭和41('66) 3    51('76) 416   60('85) 803   61('86) 890 62('87) 854 63('88) 1025 平成 元('89) 1332 2('90) 1374 3('91) 1451 0.50 4('92) 1667 0.56 5('93) 1505 0.50 6('94) 1615  0.54   資料:国民衛生の動向'92,'93,'94,'95 より  @長男の事例を複数のルートで知りながら厚生省は「医薬品副作用情報」として認知しなかったという問題。  厚生省は、平成3年度では、全国の2923ヶ所の病院を「モニター病院」に指定し副作用情報の収集をおこなっている。しかし、同年度のモニター報告は1451件程だった。1モニター病院当たりおよそ0.5件の報告でしかない。その後も同様である(表参照)。関係者によると、日本の医薬品の市場規模からして、またアメリカとの比較においてもこの情報量は決定的に不足しているという。しかも医師向けの報告の手引きを見ると「未知の副作用」を報告せよとなっているから既知の副作用の発生頻度が算出できないことが分かる(基本的な欠陥)。厚生省はこのようなずさんな制度を称して「世界に冠たるモニター制度」 と自画自賛しているのである(日本薬学会第113年会「薬と社会」部会にて)。 因みに、日本の医療施設総数は約15万、医薬品生産金額は5兆6951億円('93)。  長男のケースは三つの経路で薬務局医薬品副作用情報室(現在、医薬品適正使用推進室)に報告が入ったはずである。1つは、企業報告制度によって阪大微研会が報告したはずである。2つは、2人目の主治医の書いたカルテ(国立京都病院)が厚生省によって「引き上げられた」と同医師が証言している。3つは、救済申請を基金に提出したことで情報室にわたっていたはずである。しかし、該当年度の「モニター報告概要」のどこを探しても掲載されていなかった。つまり、厚生大臣(中央薬事審議会)は被害を認定しながらこの事実を公表しなかったのである。隠匿された。  A医薬品基金が毎年度発行する「救済事例」の中に掲載しなかったという問題。  この「救済事例」という印刷物は、一般には申請者にしか配付されないものだからそれ自体意味がないに等しいが、現行制度では貴重な情報源といえる。しかし、何をもってか不明だが掲載される事例は「代表的なもの」に限定されている。だから同様の事実があっても何件おこっているのか全く不明。使いものにならないリストなのだ。一般国民にとって役にたたないものは専門的にも役立たずに違いない。  以上、厚生省の副作用モニター制度の欠陥と、医薬品機構の資料のずさんさから、長男の被害事例は関係者の間に公開されなかった。もちろん一般国民には知る術は全くなかったわけである。ことさら、この事例だけが隠されたとは断定できないが、調べた結果が右のようなことだった。  さらに、後述の「MMR事件」に絡んでの後日談がある。1989(平成元)年の秋、厚生省がMMR後の無菌性髄膜炎の調査を実施した際、単味おたふくワクチンによる無菌性髄膜炎も、そして「類似疾患」も対象になっていたことを知ったので、調査期間からはずれていたが阪大微研会の同じワクチンが問題を起こしている疑いが強かったので、長男の症例は重要な情報だと考え(また、行政がどう対応するかを見極めるためにも)宇治市役所保健予防課に趣旨を説明し文書で提出した。しかし一昨年宇治市と京都府に確認してみたところ、宇治市がもったまま埋もれたことが判明した。MMR統一株の問題を調査する際、単味おたふくも対象にしたことはよいが、調査対象期間を発売開始時までさかのぼるのが自然な発想だがそれをしなかった。また宇治市も主体的な判断をしなかった。このことも「隠匿」の一つと言えよう。また同年、あらためて京都府へ直接提出しようとしたが頑として受理しなかった。  目の前にある重要な事実を放置させるものはいったい何か・・・・謎だ!

■MMR事件 長男は2年間幼稚園に通い、その経過の中で私どもは養護学校に就学させることを決断した。入学1年目は夏休みの宿題があったが、2年時からなくなった。発達上の退行があった。発病の頃は、日常会話も早口の方で語彙も普通の子だった。しかし徐々に、発作後、ぴたっと言葉が消え、舌の機能が不調になるのか食事ができなく服薬にも苦労するようになった。また発作が群発(ピーク時は日に10から20回)し、3、4日を経過するまで寝たきり状態に陥るようにもなり、大きくなると共に失禁も常習化してきた。大便の失禁すら増えてきた。さらに風邪などを併発し高熱が出たりしたときに重積発作で危険な状況になることもあった。  発病の翌年1984年は5月に予防接種禍集団訴訟(東京)の一審判決が出た年であったが、私どもの関心は「任意接種、おたふくかぜワクチン、医薬品基金」の域を出なかった。年を経るにしたがい様々な事実を知る中で関心は予防接種全体に拡大していった。1992年12月の東京高裁判決、勝訴、そしてMMR問題の急転回。93年4月から6月にかけて、接種見合せ、阪大微研会の薬事法違反の摘発と営業停止処分等、たびかさなる報道を見聞きする中で、長男のケースを社会に公表する責任を感じ新たに行動を起こした。
1993年
 1月 京都府が把握している健康被害発生状況等の情報公開を求める。MMR関連の全公文書公開を併せて請求、以後1年半かけて入手。
 3月 厚生大臣「予防接種法改正」を諮問。
 3月31日 日本薬学会第113年会にて「薬と社会」部会で長男の事例で発言、医薬品副作用モニター制度の欠陥性を批判。(吹田)
 4月16日 日本感染症学会でMMR後の二次感染の報告を聞き、長男のケースを紹介。たまたま出会ったNHK科学文化部記者にも説明。同時に医薬品基金へ乗り込み、制度改善の具体的提言をする。(東京)
 5月31日 公表のため朝日新聞に取材要請。
 6月 2日 朝日新聞(大阪)社会面トップ記事となる。テレビ大阪にも取材要請。
 6月 3日 テレビ大阪「ワクチンは安全か?」(ニュースほっとラインの特集)で紹介される。
 6月下旬  「週刊女性セブン」7月15日号誌上にて紹介される(取材:油井香代子)。反響は大きく発売直後から読者、被害者家族、宗教関係者から電話や手紙が届く。週刊誌の威力大。
 7月 7日 MMR被害児家族訴訟準備の報道。
 7月20日 MMR被害児を救援する会々員として訴訟準備の支援をはじめる。弁護団会議への参加。
11月28日 子供のためのワクチントーク(静岡)初参加。
12月以降  NHK大阪等に、PL法制定、予防接種法改正に絡め、医薬品副作用被害救済制度の欠陥性を指摘。ソリブジンの被害が問題化されたことも契機であった。
12月24日 MMR後死亡した2児の親達が国と阪大微研会に損害賠償請求の提訴。大阪地裁。

1994年
 1月 ソリブジンの被害者家族と連絡がとれる。
 1月 9日 予防接種制度市民検討委員会京都で開催、参加する。
 2月 7日 国は阪大微研会に「営業停止50日」の処分。事故との関連不明とす。
 2月24日 MMR訴訟第1回公判、原告の陳述。傍聴。
 3月26日 北里研究所製「はしか、おたふくかぜワクチン」で「未知の副反応」報道。以後調査活動を展開。報告書を作成、その概要を「消費者リポート」(日消連)に投稿。
 5月30日 全日本教職員組合の「インフルエンザワクチン方針」を疑問視し質問書を提出。
 8月末回答、ずさんな回答。
 6月 「北里ワクチン」レポートを関係者に送付。
 7月12日 全国予防接種被害者の会発足総会 に参加、後日入会。(神戸)
 7月31日 全国障害者問題研究会大会にて、障害発生の社会的要因として薬害、予防接種被害に注目せよと報告。(京都)
 8月下旬から 京都府宇治児童相談所所蔵の発達検査の検査用紙の公開を求め拒否され、情報公開条例にて請求。以後1年余り継続。
 9月 4日 ワクチントーク全国集会(奈良)にて「北里ワクチン」をめぐる国、自治体等の対応を批判。「京都からの報告」提出。
 9月 5日 姫路のSさん長男「タケダムンプスワクチン後に難聴」被害か?の情報あり、以後救済申請の援助を開始。
 9月 「子ども白書94年版」の「予防接種記事」を批判、同書編集委員長正木健雄氏(日体大)に質問。同月に回答あるも不十分。(最近2回目の質問に回答あり、さらに質問・意見交換を継続する予定。)
11月 MMR、おたふく単味後の無菌性髄膜炎の長期予後について、障害発生の可能性とワクチン認可水準の低さを指摘した論文紹介レポート作成、関係者に配布。
12月15日 厚生省に対してMMR接種後の副反応について、因果関係はさておき全ての症例を公開することを請求(近畿地方医務局にて)。現在回答が検討されている。

1995年
 4月 予防接種制度検討市民委員会・ワクチントーク全国編「厚生省『予防接種と子どもの健康』攻略本」刊行。その執筆に参加「予防から身を守らねばならない矛盾」。
 5月 9日 京都府公文書公開審査会にて予防接種後健康被害者である長男の個人情報(発達検査の記録)を本人の発達保障のために公開するよう意見陳述。
 7月 MMR訴訟を支援するためにジャーナリスト斎藤貴男氏を大阪に招く。
 8月 薬務局安全課「医薬品副作用情報132」で注意喚起された「ワクチン添加物ゼラチンが原因のアナフィラキシー」をめぐり、薬事・予防接種行政の両側面から問題を指摘、予防接種制度検討市民委員会に行動提起。同委員会が26日付で厚生省に対して申し入れを行った。
 9月 6日 京都府に対する情報公開請求の件、事実上請求が通る。資料届く。
 9月30日 MMR被害児「上野花ちゃん」宅訪問。(花巻)
10月 1日 予防接種改革記念の集いに出席。

 このような行動の直接の契機は、阪大微研会・「MMR事件」である。また、厚生省をはじめ、行政が多くの情報を結果として「隠匿」した中で無意味で、危険なワクチンが接種されている疑いを強くしたからである。94年2月7日、厚生省は阪大微研会観音寺研究所の「営業停止50日」の処分はしたものの、国立予防衛生研究所は事故との関係は不明とした。93年12月大阪でMMR被害児の親2夫婦が提訴、94年2月大阪地裁で原告の悲痛な「意見陳述」が行われた。それを傍聴し、支援の決意をさらに固めた。

■欠陥ワクチン このような日々を過ごす中で次の論文に出会った。  堀内清「ムンプスワクチン接種後髄膜炎に関する諸問題」 小児科 Vol.32,No.4,1991 である。著者は執筆当時、国立療養所東栃木病院 の小児科医、昨年4月からワクチンメーカーである千葉県血清研究所の開発検定部長である。同著 はMMR問題の渦中に執筆された。同氏は自らおたふくかぜワクチン、MMRワクチンの開発や接種に深く関わってきたといい、MMR後に無菌性髄膜炎が頻発している中で以下の指摘を展開した。 @無菌性髄膜炎は小児にとって軽い疾患とはいえない。(厚生省は軽く考えていた―栗原)  A現行5社のおたふくかぜワクチンはこのままでは「使用に耐えない。」  B日本のワクチン認可水準は先進諸国に比して低い。  C最低5000例以上の単位で比較接種試験をすべきである。  この指摘は私にとって画期的なものであり、おたふくかぜワクチン欠陥論が専門家(接種推進論者)によって語られた唯一の論文ではなかろうか。  臨床試験の接種例数が少なすぎるというのである。しかも自ら参加した接種試験の結果を否定したことが次の論文の存在から判明する。宍戸亮・堀内清他「弱毒ムンプスウィルス鳥居株(武田)の開発に関する研究V野外接種試験」(臨床とウィルス Vol.9,No3,1981)において同ワクチンの接種例数を確認すると908人だった。しかし、よく読むとその中には、接種前に自然感染で免疫を獲得していた子どもが411人いた。つまり免疫のない子どもに免疫が獲得されたか否かをみることができる人数は908―411=497人となる。試験の結果、鳥居株ワクチンは「有効かつ安全」と評価された。しかし、10年後堀内氏は自らそれを否定したことになるのである。  一般にワクチンの安全性は、自然感染後に起こる合併症・後遺症などの頻度とワクチン接種後の同様の症状の頻度を比較して評価する。一般的には10万人に1人に相当の副反応がおこるワクチンは認められないという常識がある。479人の接種例数が妥当か否かは素人の常識からしてわかるというものである。 『小児科』誌上にかくもショッキングな論文が公表され、それもMMRでこのワクチンが取りざたされている最中だったにも関わらず学界で論争になった形跡はない。不思議なことである。如何に理解すべきか苦しむのである。敢えていうならこの事実は、ワクチン問題における学界・業界・厚生省の泥まみれの関係を疑わせるものではないだろうか。堀内氏は研究者・医師の良心から率直に書いたことだろうが、それはタブーに抵触したのかも知れない。どう考えても純粋科学の世界の出来事とはいえない。同氏の論文を国内医学文献のデータベース “JMEDICINE”で検索すると、何故か要旨を紹介する「抄録」が付けられていない。  MMR弁護団会議で「阪大微研のおたふくかぜワクチンは発売当初から、現場医師に不信感があったことが感じられる」と報告された。また某マスコミ関係者は厚生省予防接種研究班の重鎮といえる(接種推進論者)2人の人物が堂々と「おたふくかぜワクチンはたいしたものではない。」と語ったという。
 あと1つ『週刊ポスト』('84.10.14) に無視できない記事がある。ムンプスワクチンの製造承認の基準策定の中央薬事審議会の議事録を入手した高杉晋吾氏の告発である。問題の1つは、会議のメンバーの多くが開発者側の国立予防衛生研究所の所員であること。これでは客観的な基準は出来ないとみて当然ということ。2つは、組織毒性テストと神経毒性テストについて唯一山内一也氏が両テストが必要と主張したが、強引な議事運営で神経毒性テストを切り捨てる方向で会議が進行したということである。この記事は後に同著『告発ルポ 黒いカプセル』('84.5.25 合同出版) でも紹介された。  先に紹介した長男の2人めの主治医(国立京都病院)が検索してくれた論文(昭和60年以前)の中には「要注意」を結論とするものが何本かあり、その医師自身小児科学会京都地方会において接種後の無菌性髄膜炎を報告し、国内では初の報告とされている。また海外の文献をかいま見ただけでもワクチン接種後に糖尿病が発生したことや、副反応の追跡を2ヶ月後まで行っているなど、日本では考えられない事実が散見される。厚生省や学会は生ワクチン接種後の副反応の追跡を2〜3週間で打ち切っているようである。 素人にはこれ以上決め手になる情報はないようだが、ここまで来ると長男の体験をもった親としては「おたふくかぜワクチン欠陥論」となってしまうのは自然ではないか。麻疹は「命定め」の病気といわれたそうだが、堀内氏は「お多福」というユーモラスな命名からして重症の病気とは受けとめられていないことを示唆している。まして幼児期に不顕感染が30〜40%あるというからなおのこといかがわしいワクチンなどいらないというべきか。

■医薬品機構には欠陥が

 改訂予防接種法では、インフルエンザなどが対象疾病からはずされた。従来から批判され続けたワクチンの有効性と安全性への疑問を厚生省自身が認める結果となった。そして予防接種は「義務」から「責務」となり、任意性が強まった。さらに健康被害への救済内容がやや充実され、介護負担が考慮された。さらに被害者、家族のために1都道府県当たり平均2名の相談員が配置されるという保健福祉事業が追加された。20年以上の被害者の闘いが司法により認められ、法「改正」を実現したのである。  一方「医薬品副作用被害救済制度」は、数回にわたる法「改正」によって、当初の理念から遠ざかり、被害者救済の充実を図らずに、国の負担軽減、業界の相互扶助の制度になりさがっていると思われる。以下に機構のもつ問題を具体的に列挙する。  @機構の存在が知られていない、知らされていない。窓口が新霞ヶ関ビルの事務所に限定されている。決定的に宣伝不足。  A救済給付が現行予防接種法に比して少額である。旧法時代も低く新法で更に格差がついた。  B一旦被害の認定がなされて以後、2回目以降の請求する際、診断書の文書料を自己負担させられ、消費税までなぜとられるのか。  C不支給の決定や審査申し立ての裁決書に「医学的な理由」が明記されない(長男の事例では常にそうだった。被害者には医学的な証明を求めながら、それを否定する根拠を明解にしないという非常識な処理をする。)  D「法」に規定されている被害者に対する「保健福祉事業」を事実上実施せずに放置している。  E被害申請に必要な「診断書」を医師に依頼しても断られたり、なかなか書いてもらえないことが多いとの指摘がある。副作用被害か医療過誤かのチェックがなされるから医師は消極的になるのであろう。したがって、泣き寝入りする事例が多いと思われる。  F従来、「義務接種」も限りなく「任意接種」に近づいていた。予防接種法による救済内容を充実させると同時に基金法による救済内容も充実すべく法改正をせよと当局に主張してきたが、主管である薬務局では検討されていないようだ。重度の在宅障害者をかかえる場合、予防接種法では「介護加算」がなされる。本制度にはないことである。  G現在、機構は新薬の研究振興のためにメーカーに助成を行っている他、93年の法改正によって厚生省が行ってきた新医薬品の審査事務を業務とすることになるなど、急速に国・業界のための組織に変貌している。果して新医薬品の安全性はどうなるのか。今でさえ危険なことが多いのに。   等々、課題は山積している。

■薬・医療・情報公開 長男の事故、MMR事件等を通じて医薬品という特殊な商品の製造・販売、医療という高度な専門領域、密室性の高い行為にたいして、生命・人権の尊重を徹底して貫くために「規制緩和」どころか「規制強化」が必要であること、そのためには「情報公開」が前提であり、また国民が真に政治や社会の「主人公」になりうるかどうかの試金石でもある。阪神大震災に際して「インフルエンザワクチンの有用性」が誇張され、国の意向を受けて業界がワクチンを確保したが接種者はけた違いに少なく大量に余ったワクチンの処遇が話題になった。有効性が認められずこの度の法改正で「任意接種」になったのに、老人たちへの接種は有益などと吹聴する様が、見事に被災者によって打ち砕かれたのである。メーカーは国に泣きついたようだ。国による明解な科学的根拠をもった公衆衛生行政はどこにあるというのか。  予防接種は、人権問題として医療や薬害問題の一領域として日本国民の大きな課題である。薬害エイズを筆頭に薬害根絶や患者の権利を求める運動と如何につながるか、今後の課題だろう。芝田進午氏は「予防接種被害は最大の公害被害とみるべきではないか」と指摘した。これも検証課題である。国民本位の情報公開法が強く望まれるのである。  予防接種改革記念日の集いをひかえて記す。

★追記  この原稿は予防接種に関心の深い方々を対象に書きましたので、子育てを終えてしまった方々に耳新しい言葉がいくつかあっただろうと、少々説明させてもらいます。MMRによって行政や企業が死・障害・病気を発生させたのです。 @ MMRとは・・・・1989(平成元)年4月から導入された「新3種混合ワクチン」をこう呼んだのです。2つのMは「おたふくかぜ」及び「はしか」Rは「風しん」を意味します。アメリカなどでは、早くから採用されていた3種混合の手法です。DPT−ジフテリア・百日咳・破傷風の「3種混合」ワクチンと区別して「新3種混合」と一般に呼ばれたわけです。  1回の接種で3つの感染症が予防できることで幼児をもつ親たちに歓迎されたかのように見えましたが、何と導入間もなく「無菌性髄膜炎」が多発、死亡者も出、関係者から中止の声があがったにもかかわらず、厚生省は判断を先延ばしにしました。結局、難聴・重度脳障害、そして死亡者4人他がでて、93年4月27日にようやく「接種見合せ」となった次第です。ジャーナリストで唯一「MMR、厚生省を批判した」斉藤貴男氏は「日本の労働問題」の現れと評価しました。的確な指摘だといえます。共稼ぎ世帯では子どもに病気されると仕事を休まねばならないから、1回で3つの予防ができるMMRがエコノミックアニマルには大歓迎されるということ。業界はそこをねらったわけです。 A 統一株と自社株・・MMRワクチンは当初、厚生省の判断で3社がそれぞれに作った3種のワクチンから、最も優秀と考えられたA社の「おたふく」B社の「風しん」C社の「はしか」ワクチンを混合しました。これを「統一株」といいます。 株の交換でA、B、Cの3社で作られました。阪大微研会、武田薬品、北里研究所です。しかし、千人に1人の率で副作用が強く出たため、91年秋から3社が独自に認可されていたMMRワクチンに変えたのです。これを「自社株」または「独自株」と呼びました。これでもだめでした。 B MMR事件・・・・これは、私が「事件」と書きましたが、予防接種行政史上大きな「汚点」を残した訳です。死者が出たわけで正に重大「事件」です。具体的には@高率の副作用が出たこと、AおまけにA社「(財)阪大微研会」(財団法人でワクチン製造をします。大阪大学とは別者なのに「阪大」の名がつき、おまけに理事は大阪大学の教授が兼務というややこしい関係です。)が無断でおたふくかぜワクチンの製造法を変えて国の検定を受けました。薬事法違反をしたのです。一昨年2月から3月にかけて50日間の営業停止の処分を受けました。大阪府で2人も幼い子どもらが死亡しました。2組の両親は勇断をくだして、国と阪大微研会を相手に提訴しました。何とこの子らの被害認定に関わる自治体の調査委員会に、阪大微研会の関係者が名を連ねていたことが判明しました。開発者が被害調査委員会に出席して公正な判断が出来ると誰が思いますか。昨年7月7日に第3回公判が行われ、双方の争点が明らかにされ、現在立証計画が用意され、年内には本格的な審理が展開されようとしています。心ある方はぜひ傍聴をお願い致します。

 連絡先は以下の通りです。
 MMR被害児を救援する会:Tel 06-6858-2242  栗原:宇治市宇治蔭山68-37:Tel 0774-21-4533