謹啓

 残暑の候、坂口大臣様におかれましては、益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。

 このたび、私達の娘が、新三種混合ワクチンの被害児として厚生労働省に出向き、大臣様宛のお手紙をお渡しすることができますのは、まるで夢のようで、いろいろな方々のお支えに心から感謝しております。

 私達は常日頃、私達の言動そのものが、自分からは何一つできない娘の大切な社会参加になると考え、なるべく外へ向かって行動することを心がけて来ましたが、今回の「薬害根絶デー」への参加に当たっては、日常生活とは違うある種の緊張感を覚えているところです。娘の方はと言いますと、私達を信頼し素直な様子でいつも傍らにいてくれますが、一応先日「今度東京へ行って大勢の人と会うことになると思うけど、いいかな。」と話して聞かせますと、ただニコニコと笑っておりました。きっと今回のことは、新しい体験として娘の心になにがしかの印象を残してくれるでしょうし、行く先々で誰かと出会ったり、すれ違ったりする中で、社会の中で娘が生きているということを再確認できる良い機会になるようにと期待もしているところです。

 さて、私達の娘は1歳10ヶ月まで順調に成長していましたが、MMRワクチンを接種されてから14日後に重篤な急性脳症に罹り、死線をさまよう程の苦しい闘病の後、全介助の重症心身障害児になりました。

 私達は当時のテレビニュースで、ワクチンの副作用で無菌性髄膜炎が多発していることを知り、その予防接種を受けさせるつもりはありませんでした。近々保育園に入れることを見越して、入園前に麻疹の予防接種だけは受けさせたいと考えたのです。姉娘が生後1年で麻疹に罹り、麻疹がどんなにつらい病気か身に染みていたからでした。そうであったのに、なぜ麻疹単独でなくMMRの方を接種されてしまったかと言えば、かかりつけの医師がMMRの方を強く勧めたからでした。接種医は「3回を1回で済ませられます」と自信を持って勧めたのでした。また、接種後すぐに体調を崩して通院することになった時も、「この辺では副作用は出ていませんよ」と看護師が慰めてくれたことでした。このように、私達が当時住んでいた町では、(少なくても娘に注射を打った医院では)あやしむことなく母親たちにMMRを推奨していましたし、市にしても、町の大切な赤ちゃんたちを伝染病から守るために善意でMMR接種を啓蒙していたのでしょう。

 しかし、それはとりもなおさず当時の厚生省が、各地でどんなに子供が倒れても、MMRの接種を推奨する施策を変えなかったからに他なりません。1989年から導入されたMMRワクチンは、当初から無菌性髄膜炎が多発し、従来のワクチンに比べてあまりにも副反応の発生率が高いことを懸念した群馬県前橋市の医師会は、厚生省に接種の見合わせを進言していたということです。

 なぜ、一人の子供に副反応が出た段階で、見直しをしなかったのでしょうか。二人、三人と次第にその数が増えて行った中で、なぜ早く中止してくれなかったのでしょうか?

 私の娘はMMR導入の年に生まれ、それから2年後にMMR禍に倒れました。そして、その後も2年間MMRは多くの子供達に打たれ続け、導入から4年後にやっと中止になりました。この間の副反応は1800件にも及んだということです。その4年間に居合わせ、まるで人体実験のように粗悪なワクチンを打たれ、副反応の苦しみを味わわされた子供たちは本当に不運でした。どの子供も皆祝福されて生まれ、少子化が危惧される社会にあっては、親や家族のみならず町の大切な宝物だったはずです。その子供たちの生命や健康を損なわせてまで、優先させたものは何だったのですか?その優先させたもののために、いったい何人の子供達が、苦しまなければならなかったのでしょう。それでも、治った子供達は幸いでした。しかし今でも後遺症の出現に怯えて暮らしている人がいるかも知れません。

 どうか、力尽きて死んで行った子供の苦しみを想像して下さい。私達の娘の闘病も、悲惨きわまりないものでした。どんなに苦しかったか、どんなに恐ろしかったか、私達にも計り知れません。小さな身体で闘いました。そして危篤を脱してからも様々な後遺症を一身に負わなければならなかったのです。この時のことは思い出すだけでつらく、胸が騒いでとても書き表すことができません。

 予防接種は、子供達が重い伝染病に罹らずに快適に生きていくためには、有益な側面もあります。現に、様々なワクチンがその有用性から長い間用いられて来ました。

 しかし、MMRワクチンは、4年で、姿を消しました。たったの4年でです。その短さだけ見ても、MMRワクチンがどんなに悪いものだったかは明らかです。

 娘が被害を受けた年、私は病院から療育センターを経て帰宅するまでの7ヶ月間、娘の闘病に付き添い、夫は、郷里から片道3時間かかる病院に何度も足を運び、上の子供達二人は同居していた夫の両親がなにくれと世話をしました。そんな中、新聞で知ったワクチントーク全国という集会に出かけた夫は、そこでワクチン禍に苦闘している人達や彼らを支援している人達と出会い、MMRワクチンの被害の実態に関する情報も知ることになりました。地方にいてテレビや新聞を少し見ていたくらいでは、知り得なかった情報であり、不審に思っていた娘の急病の原因に近付いた気がしました。その年の秋、被害の審査について市に相談、そこでの迅速で良心的な対応もあって、翌年には予防接種法により被害児として認定され、医療手当や養育年金の給付を受けることになったのでした。

 そしてさらにその翌年、当時の丹羽雄哉厚生大臣のお名前で、上等な紙に刷られたお見舞い状というものが私達の元に届きました。そこには、「社会防衛のための貴い犠牲であり誠にお気の毒にたえません」とありました。その一文を読んだ時、私達は釈然としない気持ちになったのです。本当に娘のことは痛ましいことでしたので、「お見舞い」ということばはありがたいとも思いました。しかし娘が被ったワクチン禍は、社会防衛のための犠牲ではなく、当時の厚生省が、未来ある子供達の生命や健康よりも、ワクチンメーカーとの利害を優先させたことの犠牲なのであり、「お気の毒にたえません」では到底納得できるものではなかったからです。いったい内情を知り得る立場にいた人は、自分の可愛い子供や孫にMMRを接種させたでしょうか。おそらくさせなかったでしょう。私はこのような仕組みに、娘をみすみす絡め取られてしまった自分自身が責められてなりませんでした。しかし同時に、ぼんやりしていると足元をすくわれるような社会は良い社会ではない、特にせっかく日本に生まれてきた無垢の子供達を一人でも大切にしない社会は、到底良い社会とは言えないという思いを強く持つようになりました。

 1993年、大阪で、亡くなった子供さんのご家族が二組立ち上がり、それから2年半後、私達もその闘いに加わりました。周囲の人達の中には、「何で今さら」という感想を持った人も多かったかも知れません。しかし、私達はMMRワクチンの被害がどれほど理不尽なものだったかを世の中の人達に知って欲しかったのです。厚生省の真摯な対応さえあれば、防ぐことができた被害に巻き込まれ、急病の苦しみだけでなく、順調に成長していけば次々に花開いて行ったはずの可能性をどれもこれも摘み取られ、自分では身動き一つできない身の上となってしまった娘が、可哀相でなりませんでした。MMRワクチンさえ打たれなければ、兄や姉について歩いてどんな高い階段も上りきってしまうような活発な子供でしたから。赤ちゃんの頃から腕の力が強くて、鉄棒にぶら下がって楽しんでいるような子供でしたから。歌も早くから憶えて、お昼寝から目覚めるとしばらくは鼻歌を歌っているような子供でしたから。あのまま歩いて走って飛び跳ねて、おいしいものをいっぱい食べて、みんなと一緒に楽しい子供の暮らしを続けたかったことでしょう。もし娘に訳がわかっていれば、どうしてあんな注射を打たせたのと私達に聞いたことでしょう。そして私達自身、表面上は立ち直ったつもりでもほとほと傷ついておりました。なぜ、あんなワクチンを作ったのか、なぜ早く止めてくれなかったのか、MMRワクチン禍の原因と責任を明らかにして、二度とこのような悲しく痛ましい被害を、いたいけな子供に与えないで欲しいと願って提訴したのでした。この裁判の経過については、坂口大臣も十分ご理解されておられることと思いますが、いよいよ11月28日に、判決が下りることになりました。

 坂口大臣は、先般、ハンセン病や薬害ヤコブ病の人達の闘いに、優れたご見識と恩情溢れる真摯な態度を示して下さいました。私達はその報道にふれ大変感銘を受けたことでした。

 どうか坂口大臣様、私達の子供達の、傷められた生命や生涯にも何とぞ温かい眼差しを注いで下さいますように、そして注意深く細やかに真実を想像して下さいますようにお願いいたします。そしてどの子供も、その可能性を損なわれることなく、安心して成長して行くことのできる日本にして下さいますように、心よりお願い申し上げます。

 

 娘が重症心身障害児になって11年の歳月が流れました。元気でおてんばの赤ちゃんだった頃が夢のような遠い過去のこととなり、今となってはこれが私達のふつうの暮らしになりました。時には現実の重さに押し潰されそうになったこともありますが、そのたびに傍らにいる娘の生命の温もりに癒され、そしてまた子供達との楽しい触れあいに励まされながら暮らしているうちに、気がついたら11年が過ぎていたというのが実感です。

 この6月で13歳になった娘は、身体の緊張がそれほど強くなかったのが幸いしてか、身長体重ともに順調に成長して来ましたが、その機能の方は、首を支えること、起き上がること、手を使うこと、歩くことなど一切できず、全介助のまま今に至っております。しかし、これまでの間には、本当に多くの良い方々との出会いや、様々な形でのご支援があり、そのお陰で家族だけの力では到底望めなかったような娘の成長を見て来ることができました。とりわけ心の成長はめざましいものがあり、今は、学校で先生やお友達と会えるのが一番の楽しみになっております。また家庭にあっては、兄と姉をとても慕い、音楽が鳴り始めると大声を出したり、顔なじみの人には愛敬を振りまくなど、その子供らしく純真な姿に私達の方が喜びと慰めを与えられているこの頃です。

 私達はこれからも、娘の人生をより豊かなものにするため、保健医療をはじめ学校教育や福祉等いろいろな分野の力をお借りしながら娘を育てて行きたいと思っております。

何とぞ坂口大臣様よりも、娘の行く末に温かいご支援を賜りますようお願い申し上げます。

 

 最後になりましたが、坂口大臣様の益々のご健勝とご活躍をお祈り申し上げまして、ペンを置きます。

                                                    敬具

 

                                   2002年8月23日

 

                                                  上野 花 の 母

 

 

         厚生労働大臣

坂 口   力