★はじめに★
 駿台と事を構える前後に、北海道新聞で戦後日本の思想の見直しとの企画で書評類を随分書きました。新聞企画ですので、誰もが学校の授業などで名前ぐらいは知っている人の、文庫本等で今も読める本を対象に、独自性を盛りつつ幅広い目配りで紹介して欲しいとの指示があります。
 私は戦争と革命の20世紀末のスタンスから、気楽に書きました。仕事は岡部隆志君などと分担しましたので、本の選び方に私の守備範囲が網羅されている訳ではありません。
また700字弱の字数に盛り込める内容は限られます。
 同年代の方にはあんな本も読んだなとの記憶再現材料になり、若い元駿台生諸君にはオヤジ連中の読書傾向の手引きに役立ち、掲示板の話の種にでもなれば幸いです。なお元原稿なので書評等の掲載日は入っていません。
 執筆時期が駿台争議と重なっていてデータ管理が不十分で、書評類が全部揃っている訳ではありません。ザルなデータ管理のお詫びに、同じ北海道新聞で20世紀の思想の見直しとの次企画に書いた書評3本とポルポトの死に際しての論評が見つかったので、おまけに付けておきます。
@谷川雁著「原点が存在する」

 弘文堂1958年,現代思潮社63年,その後潮出版社刊

 谷川雁は熊本県生まれ。東大社会学科で将来を嘱望されつつ従軍,敗戦後は西日本新聞社へ入社したが争議で退職,結核療養後に詩誌サークル村創刊し60年安保では自立派旗手,詩の放棄から幼児語学教育へ。黒姫山隠遁後の1996年の死まで戦中派の疾走の人生だった。
 雁には多くの顔があるが,韜晦色が強くて本音は喩の領域に隠れている。だが詩集の他の最初の著作「原点が存在する」は,彼の思想の原点を示すと言っていい。書名となった同名の短文は詩誌「母音」に掲載されたが,原点は退職後の貧窮・療養体験の産物だ。
 大学研究室と兵営を同等にみた自由人雁は,新聞社をGHQに追放され北九州工業地帯と南九州の貧農地帯のオルグになった。大地の母を模索する雁は,農鉱工業末端の貧民や部落民や原爆症患者の優しさとエネルギィに圧倒される,原点は下層に存するのだ。
 雁は文化基盤たる存在の原点への下降を唱え,原点を知らぬ「東京の進歩的文化人」への軽蔑を公言した。原点が前衛を作るとの斬新な主張は60年安保後に評価され,大正炭鉱闘争も話題となった。かくて雁は吉本隆明と並び60年代前半の自立派のヒーローとなる。
 雁の原点への固執は,政治思想的には毛沢東に近い。だが高度成長と都市化の大波は伝統共同体を解体し,個人主義を浸透させた。65年上京後に雁は詩の死滅を宣言し,幼児教育へ転じる。だが原点は失せたのではなく,都会人の心の暗部に残存するのではないか。(神津 陽・評論家)


A竹内著「近代の超克」竹内好評論集筑摩書房など
          
 竹内好(一九一〇〜七七年)は長野県生まれの中国文学者。大阪高校から東大支那文学科を出て中国文学研究会を組織し,月報発行。中国留学や応召を経て「魯迅」研究を基盤に,社会的発言を続けた筋の通った思想家だ。
 戦争協力を隠し戦後は民主主義へ迎合する風潮を,竹内は日本インテリの病理と考えた。事実を直視し啓蒙的口舌を嫌う思想態度は近代主義批判となり,五〇年の日本共産党批判や国民文学論を導いた。第二次大戦と並行した近代の超克の見直しは彼の真骨頂を示す。
 竹内は「大東亜戦争と吾等の決意」で開戦を了承したが,四二年の大東亜文学者大会へは非協力を通した。竹内は世界史的観点から,対米英戦は支持し対アジア侵略は否定したのだ。大東亜戦争に対する二重の視点は,五九年筆の「近代の超克」をも貫いている。
開戦直後の座談会名の近代の超克は流行語となり,旧青年には怨恨と懐旧の対象だった。
だが近代の超克を戦争とファシズムの象徴として全否定しては,歴史の偽造となる。当代最高の知性たちが,奴隷の平和より聖戦を支持した事実から学べとの提言は意義深い。
 弱者いじめは悪・強者討伐は善の倫理を竹内は全方位で貫き,六〇年安保で都立大を辞め日中国交回復に尽力した。吉本隆明は中国は田中先生より,友人としての一人の竹内好を誇れと述べた。だが欧米的近代の超克を中国に賭けた竹内は,現状をどう見るだろうか。 (評論家・神津陽)


B埴谷雄高著「幻視のなかの政治」
未来社1963年刊(中央公論社1960年初刊)
河出書房新社「埴谷雄高作品集3政治論文集」

 本年初頭に87歳で死んだ埴谷雄高は,生涯現役を貫いた息の長い特異な思想家である。代表作は五十年書き継がれた未完の思想小説「死霊」だが,クロスカバー装の「不合理故に吾信ず」と「幻視のなかの政治」は60年代の文学・政治青年に大きな影響を与えた。
 政治は生臭い権力抗争の縮図だが,埴谷が肉薄するのは左翼政治における革命観の革命である。「幻視のなかの政治」はスターリン批判後の58〜59年の政治評論の集成であるが,一方で既成左翼批判の教本とされ他方で政治不信と不参加の正当化理由にもなった。 
 埴谷は少年期にロシア文学,左翼運動の下獄時にカント哲学の洗礼を受け,戦後は雑誌「近代文学」を結成し中心的役割を果たす。「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」で始まる同書は,政府打倒を主張する革新勢力内部の指導の歪みや議論の欠如を鋭く告発する。 60年安保闘争を頂点とする政治の季節のなかで,米国追随よりソ連化がよいかは青年層には不明確だった。埴谷のロシア革命史考察は前衛党神話批判には有効だったが,権力批判者が権力を求める矛盾は自称革命党をも捕捉した。内部からの出口は今も見えていない。
 埴谷の権力論は,政治の死滅を願うアナーキズムに近い。刊行時は現実性は薄かったが,冷戦後の全世界近代化状況下では光って見える。能力主義・競争主義全盛の時勢で,搾取や抑圧や固定指導なき無階級社会への視点は新たな世界思想への可能性を秘めている。(神津 陽・評論家)


C吉田満「戦艦大和ノ最期(講談社文芸文庫,他)
 
 吉田満は一九二三年に東京に生まれ,東大法学部を出て、四五年に日本銀行に入り重役職を務めつつ晩年は日本銀行史の執筆に注力し一九七九年に死んだ。後世から略歴をみれば恵まれ過ぎた人生に思えるが、吉田には典型的な戦中世代としての別の顔がある。
 吉田は四三年に東大法科をくり上げ卒業して学徒出陣し、副電測士として海軍に入り世界最大の巨艦「 大和」に乗船する。大和は四五年四月に沖縄戦に出撃し、米軍機に轟沈される。負傷し漂流のあと救助された吉田は、終戦直後に「戦艦大和ノ最期」を書き上げる。
 冷静に壮絶な体験を記した同書は、戦争肯定文学と批判され講和後の五二年に漸く刊行される。戦後日本は占領下で平和憲法を導入して二次大戦を全面否定した。吉田は戦争協力の過去を隠した平和主義者による戦争否定を、同世代の死者への冒涜だと考えたのだ。
 同書は無駄のないカナ文語体で,大和の出港から敵機猛襲、自爆から沈没までを、艦内の議論と行動と死傷状況を交えて淡々と綴る。
玉砕命令が出たあとの乗員の運命についての議論は奥深く、極限状況の中での心的葛藤から熟慮の末の死の受容への経緯も説得的だ。
 各自の体験を反芻し思想の鏡となし得る者は希であるが、吉田は戦争体験の掘り下げからの再出発に生涯固執した。三十年前の体験を大言壮語し現状安住を恥じぬ自称全共闘世代の頽廃を見ると、世論に抗した戦争世代の「最期」に学ぶ所はまだまだ大きい。(神津陽 評論家)


D丸山真男「超国家主義の論理と心理」1946年
未来社刊「現代政治の思想と行動」所収
岩波書店「丸山真男集・ 巻」

 昨年秋に83歳で死去した丸山真男は,大塚久雄・川島武宣らと並ぶ古きよき時代の東大アカデミズムの代表選手だ。精緻な資料分析と厳密な文章が身上の政治学者で,主著の「現代政治の思想と行動」は体系書ではないが長く司法試験の政治学の基本書となった。 丸山は応召された数年を除き,身を縮めて東大法学部研究室で「日本政治思想史研究」を書き継ぎ,31歳で終戦を迎える。
 46年に発表された「超国家主義の論理と心理」は実態に即した天皇制批判であり,各自が巻き込まれた戦争の根因の思索として共感を集めた。 同論文の眼目は西欧近代国家の法の支配の裏面のナショナリズムとは異なる,天皇制下の超国家主義の思想と心理の検討だ。永続的に世界の日本化を目指す皇道の実態分析は,マルクス学説の移植論争としての講座派・労農派の天皇制論議の敗因をも示唆したのだ。
 確かに明治以降の近代日本は幕藩体制から天皇制国家への権力集中を軸に,列強に伍す国力増強を図った。欧米的な個人原理なき国家主義は宗教・学問・芸術から私生活価値までを統制し,万世一系の天皇制は古今東西の真善美の極致との妄想を定着させた。
 丸山の言う価値源泉としての天皇制は,やわな反発を平定し国内を席巻した。だが天皇制の特殊性の強調は,欧米国家の残虐性の免責を導く。むしろ近代天皇制は後進資本主義国のナショナリズムの一形態で,欧米の人権尊重は経済的勝利の歴史的産物ではないか。(神津 陽・評論家)


E廣松渉著「マルクス主義の地平」
(講談社学術文庫)

 広松渉は1933年福岡生まれ。高校時代から政治運動に関心を持ち,共産党からのブンド誕生に出会い65年に東大大学院修了。名大から東大に戻り94年に退官し病死した。新左翼運動と伴走し,マルクス主義の革命理論としての再生に生涯を賭した希有な哲学者である。
 どんな政治思想も時代や社会状況に規定されるが,広松の青年期は日本独立から日米安保体制の是非を巡る政治の季節だった。社会主義到来を確信する共産党系と主体的意識と実践を重視する批判派の対立下で,広松は正しいマルクス主義理解の必要性を確認する。
 広松はまず「ドイツ・イデオロギー」の検証からエンゲルスの役割を再評価する。更に初期の疎外論から後期の物象化論へのマルクス主義の飛躍と断絶を主張する。「マルク主義の地平」は,非共産党系のマルクス主義体系確立へ向けた69年初刊の労作である。
 本書で広松が強調するのは,後期マルクスに依拠しての近代的世界観批判だ。人と人との関係が物と物との関係として現れる物象化構造は,冷戦後世界を貫徹している。この結果は広松の近代世界批判の分析としての正しさと同時に,政治的予測の誤りを示している。
 だが革命理論の正しさは思考方法の通時的妥当性に担保されるに過ぎぬ。国家〜社会の等質成熟は表層欧米化に過ぎず,主要矛盾は国家間貧富格差に移行した。広松は欧米的世界観の清算と東亜新体制を遺言したが,個から共同性への架橋原理は遂に示し得なかった。(評論家・神津陽)


F平田清明著「市民社会と社会主義」

        岩波書店1969年刊

 平田清明は60年代末の全共闘運動の渦中で,最も多くの読者を得た経済史学者だ。平田はヒューマニズム的社会主義を目指した高島善哉の弟子で,マルクスの最終稿の仏語版「資本論」の所有・交通概念に着目し,経済学と唯物史観の全体的な再構成を主張した。
 60年代半ばまで学界主流はマルクス主義であり,土台を分析する経済学が花形だった。共産党系はソ連が理想だが,社会党系の資本主義自動崩壊論は先例なく,政治と経済を分離する宇野派は戦略が出ない。平田の社会形成論は経済決定論議を越える提案だった。
 資本主義から社会主義への歴史的移行像は,ソ連の現状でも政治的実践の産物としても疑問が残る。平田は革命による外形的な私的所有j国家的所有への変化は本源的な個体的・共同体的所有へ移行するとし,資本制社会には社会主義への萌芽があると主張した。
 平田はレーニン的革命党や社会主義国家の過渡性を,市民社会の内部成熟で根拠付けた。学園闘争の自主的な共同体験に自信を持った活動家は,平田清明の開明性に注目したのだ。平田理論は実践的レベルに置き換えて,前衛党批判や社会主義像の模索に役立った。 
30年近く前の激動期の話は,冷戦後の現在には通じない。ソ連は過渡性の克服より国家強化を選び自壊した。今は議会制民主主義と市場経済の世界化が進み,私的所有の弊害面が露出中だ。日本における個体成熟と共同化には,集団主義の構造的転換が必要だ。(神津 陽・評論家)


G宇野弘蔵「経済学方法論」
1962年東大出版会
        宇野弘蔵著作集岩波書店など

 宇野弘蔵は戦後日本で最も影響力を持った経済学者で,マルクス主義経済学界に大勢力を築いた宇野学派の総帥である。一八九七年岡山県倉敷市の生まれ。東大在学中にロシア革命に遭遇して社会主義に関心を寄せ,生涯を「資本論」研究に捧げて〜一九七七年没。
 冷戦後の現在では思いも及ばぬが,つい三十年前頃までは学界の主流はマルクス主義だった。土台が上部構造を規定するとの唯物史観においては学問の花形は土台を扱う経済学だ。慶大や一橋大を除いてマルクス経済学が全盛期に,宇野理論はその頂点を占めた。
 マルクス主義はロシア革命を経て巨大な勢力となり,各国共産党がその主流となる。革命運動においては学問は闘争の武器であり,理論は実践への奉仕を求められる。だが共産党が路線を誤れば学問も追随するのか。宇野は底に着目し理論と実践の分離を唱えた。
 宇野は理論の役割は政党への迎合ではなく,実践活動の基準として役立つことだと考えた。そこで経済学研究は「資本論」の原理論的純化,歴史発展に応じた段階論,実践基準に資する現状分析に分化せよとの主張となる。この三段階論は「経済学方法論」に結実する。
 「経済学方法論」が示す三段階論は六十年代には,政治勢力からの学問の自立に役立ったが,全共闘時代には学生は学問に専念せよ徒の反動的主張となる。政治からの学問の自由の次に教授からの自由が課題となったのは歴史の皮肉だが,現状分析は現下の必要事だ。 (神津 陽・評論家)


H大塚久雄「共同体の基礎理論」

         1955年刊・ 岩波書店

 大塚久雄は一九〇七年に京都に生まれ,東大経済学部を出て長く母校教授を続け,後にICUに移る。大学で矢内原忠雄に聖書講義を受ける。誠実なクリスチャンとして経済史学の研究に没頭し「大塚史学」と呼ばれる壮大な学問体系を生み出し,九 年に死去。
 大塚はマルクスの史的唯物論とウェーバーの宗教社会学の統合を,生涯の学問的課題とした。彼はキリスト教信仰を基盤に「株式会社発生史論」「近代欧州経済史序説」「共同体の基礎理論」へと歩むが,全盛期のマルクス主義側からは近代主義者と論難された。
 大学院の経済史総論講義をまとめた「共同体の基礎理論」は,共同体の賛美ではなく近代社会の成立前提としての共同体の崩壊経緯の分析の書である。大塚は本書でドイツ中世都市とギルドの分析から,ゲルマン共同体内分業と局地的な市場経済圏成立を辿った。
 この学究的なマイナーな理論書は,マルクス主義的な経済発展史観への素朴な疑問の解決へ糸口を与えた。生産力発展と生産関係の矛盾による生産様式変化による資本主義j社会主義j共産主義への移行必然論より,共同体編成史の方がリアリティがあったのだ。
 ソ連崩壊により社会主義必然論は終わった。今は欧米個人主義に比しての,日本的集団主義批判が流行だ。だが集団と無縁な個人はなく,欧米的個人の成立は神の前の平等やギルド的団結の背景を持つ。本書は日本的集団と拮抗する個人像の析出への検討材料となる。  (評論家・神津陽)


I羽仁五郎「都市の論理」1968年勁草書房刊

 羽仁五郎は一九〇一年群馬県に生まれ,ドイツ留学の後に三木清らとプロレタリア科学研究所を結成,更に野呂栄太郎と「日本資本主義発達史講座」を企画し明治維新史を担当し,人民史観を確立。戦後は参議院議員を務め,社会的発言を続けつつ一九八三年に死去。
 羽仁の人民史観では知識人は人民の頭脳の使命を有し,羽仁本人がその使命仁準じて戦前・獄中を非転向で通したとの自負を持つ。この自負を背景に,羽仁は権力と独占資本を批判し人民を啓蒙する進歩的知識人の役割を担い,68年には「都市の論理」を出す。
 「都市の論理」は川上武や武谷三男らの科学・医療・福祉関係者の研究会討論をまとめた本だ。羽仁はルネサンス研究から,人間の解放をコミュニティの形成史だと考えた。人間の家族と農村からの解放を前提に,自発的共同体賭しての都市形成を主張したのだ。
 ベトナム反戦や日米安保を頂点とする視点からは「都市の論理」は微温的な構造改革仁見えた。だが政治論議の空転に疑問を持つ者には,羽仁の提起は地に足を付けた政策と写った。かくて「都市の論理」は革新自治体ブームを背景にベストセラーとなったのだ。
 七〇年代の住民運動や反公害運動の指針となった「都市の論理」は,冷戦後世界で再評価に値する。他方で今も日本民衆の殆どは家族からも地域からも未解放だ。五郎の欠点は桐生の豪商に育ち自由学園を創始した羽仁家仁入った,特権的環境への無自覚にある。 (評論家・神津陽)


J江上波夫「騎馬民族国家」
1967年中公新書

 江上波夫は一九〇六年に下関市生まれ。東大東洋史学科を出て大陸に渡り,長く遊牧民系騎馬民族の生活と文化を実態調査する。 奴研究が専門だが広くユーラシア全般に目配りし,戦後四八年に大和朝廷は東北アジアの騎馬民族の制服王朝だとの仮説を発表した。
 在位百年もいる非科学的な天孫降臨説は脇に置くとして,従来の日本国家と民族の起源探求は中国三世紀の「魏志倭人伝」の評価に集中していた。卑弥呼が支配する邪馬台国の大和説は「日本書紀」の天皇記述を重視し,北九州説は倭奴国王印の史実を強調した。
 だが江上は邪馬台国論争を軽く飛び越した。皆が裸足で貫頭衣を被り入れ墨をして朱丹を身体に塗る倭人風俗は,中・南シナの稲作モンスーン地帯原住民に近い。江上は四世紀前半に北方騎馬民族が侵入して邪馬台国を征服し,今に続く日本風俗を移植したと言う。
 江上の騎馬民族説を平易に示した六七年刊の「騎馬民族国家」は,ベストセラーとなり毎日出版文化賞を受賞した。江上説は右翼的国体観に冷水を浴びせたが,土器・石器・青銅器から地層・古生物・植生・風俗まで目配り広い実証の前に反論の声は弱かった。
 江上説は夫余系の辰王朝の騎馬民族が,古墳時代後期に南朝鮮から筑紫に入ったと言う。任那の日本府を拠点とする倭国連合王国の東征説は雄大だが,騎馬民族の操船術は元寇を見ても疑問がある。柳田国男の言う海上民と騎馬民族の通交と混合位が妥当でないか。(評論家・神津陽)



K毛沢東「実践論・矛盾論」岩波文庫ほか

 戦争と革命が席巻した激動の二十世紀は、他方では欧米の世界支配の終焉の時代とも言える。近代中国は欧米列強の植民地政策の餌食となり、清朝末期には世界最大人口を抱える眠れる獅子も瀕死の状態に陥った。孫文は興中会を結成し民族の奴隷状態からの脱却を訴えたが、幾多の屈折を経てその夢が実現するのは五〇年も後のことだ。日清戦争の翌年に生まれた毛沢東は。祖国の分断に抗し勢力を拡大し中国革命を勝利に導いたのだ。
 毛沢東は根っからの運動家・組織者であり、学習熱心だが書物主義型知識には当初より反対していた。彼の著作は膨大だが人民解放運動の要請に応えた情勢分析や方針の類が多く、後には批判され政争の具ともなった。だが彼の著作は常に現実に立脚しており、易しい比喩を用いながら論旨は明快だ、一括される「実践論・矛盾論」jは蒋介石軍包囲下で長征し延安に根拠地を構えて後の一九三七年の連続講演をベースとした労作である。
 両書は毛沢東が国共分裂後の党内論争の混乱から共産党の主導権を確立した経験を踏まえ、革命運動における理論と実践の関連を整理する。毛沢東は両書でマルクス主義文献の片言隻句を鵜呑みにする教条主義と断片的活動を一般化し理論を軽視する経験主義を批判し、革命の大道の作風を提起する。彼の強みは中国史と権力抗争の現状を踏まえた先行革命家らの著作の読み替えであり、中国革命の正当性主張は今も圧倒的迫力を有している。
 毛沢東思想は六〇年代末の学生反乱時に、先進国知識人にも大きな影響を与えた。西欧型近代文明打破への期待は文化大革命の末路や後の天安門事件で地に落ちたが、依然として中国建国の父は毛沢東だ。昨年の香港返還に英国は民主主義後退を懸念したが、盗人猛々しい物言いだ。また天安門事件の非を鳴らす米国は、七二年まで中国及び中国人民を敵視したのだ。戦争賠償を免責された日本も同罪との反省が外交の基本だろう。   (神津陽・評論家)


Lケルゼン「民主主義の本質と価値」岩波文庫

 一八八一年に生まれたケルゼンは、戦前オーストリアを代表する法学者である。彼はウイーン大学教授の傍ら、第一次大戦後にオーストリア共和国憲法を起草し、新設された憲法裁判所判事となる。また「一般国法学」や「純粋法学」に代表される独自の法理論を精力的に提唱し、他方で時代へ警鐘を鳴らす啓蒙的な法・政治思想論文を発表した。一九二〇年刊行の「民主主義の本質と価値」は後者の系列の代表的著作である。
 一次大戦はロシア革命を生み、ベルサイユ条約は敗戦国にナショナリズムの種を蒔き、二十年結成の国際連盟も米国不参加となった。一次大戦後の混乱はオーストリアも同様で、ケルゼンの想定した二大政党制はキリスト教民主党右派と社会民主党左派の台頭で基盤が崩れつつあった。「民主主義の本質と価値」はかかる状況下で、左右の全体主義の自己絶対化傾向をに批判し、民主主義の本質を相対主義に価値を民意反映においたのだ。
 マルクス主義陣営は議会制民主主義をブルジョワ民主主義だと規定して批判し、保守系右派的傾向も弱腰の議会を批判し後のファシズムへ道を開いていく。だがケルゼンの関心は大義名分ではなく、個人の自由確保にある。民主主義の理念は個人的自由の社会的実現携帯だが、実際は大規模組織への完全な意志反映は不可能だ。そこで全員ではなくより多数の成員の意見反映手段として、間接代表制と多数決による議会制民主主義を採るのである。
 ケルゼンの民主主義論はワイマール憲法下のナチス政権樹立で踏みにじられた。だが戦後の冷戦体制では社会主義独裁や自由主義圏の買弁政権への批判の武器となった。だが議論による相対的妥当な合意形成、決議の変更可能性がある故の少数意見尊重などは未だに日本でも成立していない。冷戦後世界では旧社会主義圏へも開発途上国へも、市場経済と議会制民主主義が導入された。だがユーゴやカンボジアを見るとケルゼンは学ぶに値する。  (神津陽・評論家)


Mジェームズ「プラグマチズム」
岩波文庫

 アメリカは戦争と革命の二十世紀を通して国力増強を続け、結果的に冷戦後は世界一の超大国となった。西欧諸国は近代五百年を通し非西欧社会を支配し異民族・宗教・文化研究を進めたが、西欧の植民地として出発したアメリカの躍進も大きな謎であった。一九世紀中葉にトクヴィルは「アメリカの民主政治」で大陸と異なる草の根民主主義を賞賛したが、庶民の独立精神の背景は生活域へ浸透したプラグマチズムだったと考えられる。
 プラグマチズムは実用主義と訳されるが、単なる処世術ではなく論理学から自然・人文・社会諸学にまで幅広く応用された思想運動である。プラグマチズムはマルクス主義のような思想体系を持たず固定的定義も不可能だ。プラグマチズムの名称の創始者は数学者のパースであり、ジェームズはパースの影響を受けつつ一九〇七年に「プラグマチズム」を書いた。だが内容的にはデューイが大成するプラグマチズムの本流はジェームズと言えよう。
 プラグマチズムの語源のプラグマはギリシア語で行動・実践を意味し、従来の哲学の理念・思索整序とは目的や関心が異なる。ジェームズは宗教・社会問題の著述家の父親や小説家となった弟とともに少年期をヨーロッパを放浪し,画家から化学・医学・生理学・心理学・哲学へと関心を移した。ハーバード大学教授末年の書の「プラグマチズム」は,ヨーロッパ的伝統と格闘しつつアメリカ風土に根付いた哲学創出の試みである。
 ジェームスの哲学は相対主義・非決定論・多元論・反主知主義などが特色であるが,主張を貫通するバックボーンは個人の意志実現としての行動と経験の重視である。
彼の主張は国家主義全盛期には大局的見地を欠くエゴイズムとみなされ、マルクス主義陣営からは正当評価もされなかった。だがJ、S、ミルに捧げられた本書の真価は、冷戦後の諸イデオロギー解体状況を打開し得る主体的行動原理として再評価されるべきだろう。(神津陽・評論家)



N付録:
<社会主義>信仰の悲劇 ポルポトの死とクメール・ルージュの末路

 さる四月一六日の各紙朝刊はタイ軍情報として、カンボジア元首相で反政府勢力の首魁のポル・ポトの死去を報じた。ポル・ポト派は陰謀的集団で自他の目を欺く事は朝飯前、今回も米国などの国際訴追を逃れる偽装工作ではとの疑問の声が出た。だが一六日にポト派は遺体を公開し、ポト派放送は一五日に七三歳でポル・ポト死亡と報じた。表舞台から退き自宅軟禁と伝えられたポル・ポトも鬼籍に入ったと判断してよかろう。
 西側世界ではポル・ポトは一九七〇年代後半のカンボジア大虐殺の首謀者として著名で、悪魔の別名のように扱われている。だが世界を震撼させた有名人ながら、ポトの出自や経歴や私生活は杳として知れない。ポル・ポトの名は一九七六年春の民主カンプチア国の首相として登場したが、偽名でありゴム園労働者の肩書きも嘘だった。一年がかりで西側研究者は、ポル・ポトが元教員のサロト・サルである事を確認したのだ。
 一九七五年に入ってカンボジア共産ゲリラは攻勢を強め、四月に政権を奪取し長い内戦は終了した。だが政権を握った実態不明の革命組織が最初の仕事は、人口の半分以上を占める都市住民の農村への強制移住だった。無人となったプノンペンから政府は通貨・市場・郵便制度・私有財産の廃止、小学校から大学までの各学校・僧院の閉鎖を命じる。住居や職業の選択・表現の自由なく華美禁止の恐怖政治の下で粛正が日常化してゆくのだ。
 ポル・ポト政権は七九年一二月にベトナム軍に敗北するまでの三年八カ月の間に、狭いカンボジア国内で百万人以上を虐殺したと言われる。米国は虐殺事実のみを強調するが、それなら親米ロン・ノル傀儡政権の五〇万人虐殺も、引いては米軍のベトナム北爆やソンミ村虐殺も同罪の筈だ。完全無欠の人も党も国家もない以上ポト派の大虐殺の検討も、歴史背景や国際関係を押さえた「理由」の考察に焦点を合わすべきであろう。
 カンボジアは五世紀に及ぶアンコール王朝の栄光の後は、東のベトナムと西のタイに国境を侵犯され服属を強いられてきた。一九世紀末の仏領インドシナ以降の独立運動においても、カンボジアはベトナム勢力の後塵を拝してきた。ロンノル政権と南ベトナムの連携に対抗してきたポル・ポト派がクメール民族独立を叫び反米反ベトナムを掲げるのは当然だが、都市住民憎悪・原始共産制・教育否定の政策は飛躍があり直結し得ない。

 カンボジア共産党のポルポト派の別名は、周知のように仏語のクメール・ルージュだ。ポル・ポトはコンポントム近郊の富裕なクメール農家の出身で、王室舞踊団から国王夫人となったプノンペンの従姉に幼時に預けられた。彼は小学校からパリ留学後の工科大学中退まで正規教育一七年間を全て仏語で授業を受け、上流階級の娘と結婚し、仏語の教員もしている。だがポルはこれらの経歴を秘匿し、地方の貧農出身者として振る舞った.
 戦後激動期のフランスはマルクス主義全盛期であり、二一人のパリ同期留学生のうちポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サムファン、フー・ユン、フー・ニムの五名は仏共産党に入党し、帰国後も政治活動を続ける.カンボジア最高の知識層による革命組織派なぜ経歴秘匿や出自否定に陥ったのか? フランス流の先端思想が農業人口八五%の後進国の従順な国民性屁の着地失敗が、ポル・ポト派が大虐殺へ向かう最大要因ではないか.
 長い戦後史においてポル・ポト派幹部が世に顔を出したのは政権時の三年八カ月のみで、あとの前半は非合法の二重生活、後半は山間部の密林に入ってのゲリラ生活である.またシアヌーク殿下がクメール派の軸となるが、
フランスやアメリカからのインドシナ半島爆撃にさらされつつ、タイとベトナムに挟撃され中国に傾斜してゆく.
長い地下生活の中でポト派のクメール自立の夢は困難を増し、味方の他は全て敵の戦争観となったのだ.
 ポル・ポト政権はパリ和平協定発効・親米ロンノル大統領の亡命・米軍のプノンペン撤兵のラッキーな条件下で誕生した.だがポト派は軍事空白条件下での国内共産主義化を急ぎロンノル派・ベトナム系処刑、ベトナムに進攻しベトナム開戦、党員・軍部・離脱者の虐殺に驀進し、ベトナム軍に敗北する.ポト派はクメール自立を夢見ながら情況判断を誤り、ヘン・サムリンから現在のフン・センまでベトナム系政権を許す結果を作ったのだ.
 カンボジアの惨状はパリ留学知識人の悲劇であり、彼らはポルポト・シアヌーク・ベトナム系に基本分裂しつつ未だに抗争を続けている.五〇年間もの同志イエン・サリの九六年の投降により、ポルポトの政治的命運は既に尽きていた.ポルポト派の大虐殺は許せぬが何事にも機縁がある.ゲリラ戦士に名前は要らぬと公言したポルポトはあたかも映画「アンダーグラウンド」の地下軍のように世界に背を向けて生き、裏切られて死んだのだ.(神津陽・評論家)

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