〈タイ紀行〉

神津陽

<2002年 >年頭所感


★2001年年頭に「21世紀になりましたね」と題して、タイのパンガン島を舞台にした戯作案を出しましたが、本稿は日録風の続編素材です。

★2000年2月15日に駿台予備学校との労使争議が妥結しましたが深刻な労組内難題を引きずり、2001年末に漸く解決しました。支援頂いた皆様に感謝します。

★私にとっての駿台争議は足掛け四年で終わりましたが、組織維持を頑張るほど不要な内紛を抱えてしまう自立労組の困難に駿台労組も直面しているようです。私も今の時代状況だったら、争議とは別の解決法を考えたかも知れません。

★てなことで、ガンとの闘病中の千早さんの見舞いを大義名分に1カ月のタイ旅行に出掛けましたが、自分自身への慰労が第一だったかもしれません。以下の日録風メモは、前回同様に事実をデフォルメした下書きです。

<バンコクへ>
★12月中旬の朝7時半に家を出て、上野で京成電車のスカイライナーで成田第2ターミナルに10時ころに到着。インド航空301便が13時発から12時45分に繰り上がり、それほど待たずに機上の人となった。時差マイナス2時間なので10時45分に時刻を変更し、ゆっくり食事をしビールを3缶飲んで、正味6時間で夕方5時前にバンコク空港に着いた。

 空港のシャトルバス側出口で迎えに来ていた上沼と落ち合い、5バーツの鉄道便でバンコク中央駅に出る。上沼は千早さんの看病疲れの様子もみせず、すっかりタイ人同様に地肌から日焼けしている。駅前からバスもあるが、荷物が重いので、日本では今は見ることもないない自動三輪車で今日の宿であるチャイナタウンの台北ホテルで旅装を解く。
 旅行者に人気のカオサン通りは最近は20代の品の悪い日本人が多く、リピーターのオジサン連中は駅近くで交通の便のよいチャイナタウンに落ち着く人も多い。台北ホテルは比較的安くて管理もしっかりしているので、4年程前のゴールデンウイークに春君と宿泊した事がある。
 台北ホテルで冷房付きの部屋を奮発して300バーツ(千円くらい)で確保し、シャワーを浴びて後に近くの上沼の行きつけの北京飯店に出かけた。北京飯店は数多のタイ小説の舞台となっている日本人好みの食堂だが、驚くことに高円寺の眉山亭でよく顔を合せる旧知の大原君が先客でいるではないか。聞くところでは彼のミャンマー人の細君が訳あって母国に入国できぬので、大原君が連絡役になり彼女の親や親戚へ物資を届けているとのことである。

★17日は上沼の案内で、久し振りにチャイナタウンを見学し徘徊する。タイの12月は日中はTシャツ一枚で動いて汗をかかず、夜は冷房でなく扇風機ていどでも寝苦しくなく安眠できる。心身の解放にはよい環境といえよう。

★翌18日は、上沼とバンコク最大の繁華街のシーロムスクエアに出向き、見学のあと食事。そのあとは別行動で、私は一人で歩いて駐在員や会社員に人気のやっポンやタニヤの日本人むけ歓楽街を視察。近寄って来る客引きを振り切ってチャイナタウンに戻り、夜市の露店を冷やかして小仏像を10個ほど購入。
 仏教徒のタイ国民は各地の寺で製作し入魂するプラ・クルアンと呼ぶ小仏像をお守りにして首に掛けている人が多い。だがこの小仏像は信仰対象であるとともに収集熱も高く、何十種類もの収集・鑑定雑誌も出ている。そこでバンコクなど大都市では、田舎の逸品を集めた金属・木製・粘土製の露店商売が盛んである。偽造品を欧州人に売りつけているカオサンは論外だが、現地人気のタマサート大近くの露店営業が規制されたので、治外法権に近いチャイナタウンに集ったようだ。素人見のお宝発掘もなかなか面白いものだ。

★19日、宿のチェックアウトは午後2時だそうだが、あれこれ準備もあるので11時頃に宿を出て駅に向かう。本日で半年ぶりに日本に帰国予定の上沼と別れ、私は入れ替えにパンガン島へ向かうことになる。駅左の荷物預かり所にリュックを預け両替をするが、1万円が成田では3750バーツだったのに円安の影響か3370に下がっている。また駅のインターネットボックスも日本語変換と検索が対応せず時間がかかるし、先が思いやられる。
 18時20分の夜行の寝台列車でスラターニへ向かう。駅前で焼き鳥を買ってビールを飲んでいる間に、都市部を離れた列車は漆黒の闇に包まれる。 


<パンガン島での足馴らし>

★ 翌20日は朝は時刻表の2時間遅れでサムイやパンガン島への連絡フェリーが出るスラターニ下車。バス〜フェリーは複数便が競合しており、いつもながら切符指定を無視して運転手が客を奪い合って自分のバスに乗せようとするので、正規資格カードを付けた旅行案内人に複数聞いて確認が必要だ。なんとか最短距離でパンガン直行フェリーに乗り12時半に到着。
 だいたいの予定は上沼経由で伝えていたのだが、気の早い千早さんは昨日かから港に迎えに出て待ちくたびれていた様子である。千早さんはガンで半年間も闘病中のはずだが、まったく元気で驚くより感心する。上原がいた時より千早さんが長期予約で押さえてあるA3室に旅装を解く。
 その後 一人漁で疲れていた様子の千早さんにせかされるようにカニ網を上げに行き、ついで出漁したがイカ切り身の餌で日本と同じ桜鯛を中心にまあまあの釣果だった。

★21日。本日は大釣果。千早さんと相談し三食分の食費を1日100バーツと決めて、宿代を含め20日分2000バーツを払う。同伴看護してきた上沼は食費は50バーツだったそうだが、命の恩人と見舞客は違って当然だし、日本円でみると大した違いではない。ビールっを表通りで1ダース350バーツで購入、一本100円は宿代に比べるとむしろ高く感じる買い物だ。
 千早さんの紹介で日本語変換ができる機械を入れたという旅行会社に行くが、中国語システムを経由して日本語変換のため用語選択に時間が掛る。千早さんはインターネットをやらず、現地のネット屋も事情が分からぬので、説明に苦労する。結局、島内のニュースペーパーでインターネット専業店をみつける。
 
★22日。本日は波が高いので漁は休み。近場に前日に餌を付けて沈めてあったカニ網を揚げに行くと渡りカニが大漁である。渡りカニは四国の宇和島ではトワタリと呼んでよく取っていたが、タイの方が型が大きい。
 新たに見付けた1分1バーツの安いインターネットは旅行客で盛況だ。ホットメールからの日本語読み取りへのアクセスはスムーズだが、書き込みはローマ字の点が今後の課題だ。日本人には白人の中の区別は分かりにくいが、英・独・仏を中心とする欧州人が殆どで、地理的に遠い米国人は珍しいとのことだ。

★23日、日曜日。夜寝るのが早いので7時頃目が覚める。7時半にカニ網を揚げに行くが、本日は潮流のせいか泥カニが多くねらいの渡りカニは少ない。ウナギとウツボの中間のぎぼしに似た細長い魚が二匹入る。これは私が後で蒲焼きにする予定。波が少しあるので本日の出漁は見合わせ、明日に備える。
 パンガン島野旅行客の中心はクリスマス休みの欧州人で、若い人が多い。殆どは日中はおっぱい丸出しでゴロゴロ日光浴をし、夜は時間を掛けて食事をし、ロック音楽で騒ぐ。水泳するのは身体を冷やす水浴び程度で水に潜る者はいないし、漁の成果を珍しそうに見に来る。私も朝食後はひと泳ぎしている。
 本日は気分が良さそうな千早さんに誘われるままバイクの後に乗って、直径五メートルのビッグツリーを見に行った。この島の聖地の前の食堂で二種のヌードルを食べる。一皿25バーツだが、魚の練り物の方より豚のレバーや内臓煮込み添えの方が美味で人気があるようだ。
 帰り道で魚を網から外していた漁師に形が不揃いの小魚やタイ人が余り食べないしゃこを貰うが、売り物でないので金は受け取らない。カニ網のエサにする予定だったが、鮮度がよいので夜の酒のつまみに加える事にする。

 一休みした後で、千早さんは買い物、私はメール。だがホットメールは読みは日本語、入力はローマ字で書けるが、どんな訳かホームページに入れない。店員に聞くとタイではワンクリックとのことで、日本流のダブルクリックではだめなのだそうだ。やってみるとワンクリックで神津塾に入れた。
 フェリー船中で話が合ったバンガロー手伝いに来た女性に、貰った小仏像のお礼を含めて電話をしたが不在だった。パンガン島ではカードしか使えないとのことで50バーツで購入した。バンコクでは1バーツのコイン電話がどこにもあるのに、島では1回5バーツのカードしか使えぬのは解せない。
 港の商店街の帰り道で、見たことのない楽僧の仏像を見かけ言い値で購入。帰宅後、私の仕事になっている火起こしと夕食準備を手伝う。 夕食は毎日食す茹でカニが三杯、あとは貰い物の15センチ位ある大型しゃこが山盛り、日本の桜鯛に似た25センチ位の焼き魚、肉の付け合わせ、野菜のお新香。ここでは比較的地味目だが、日本なら贅沢な食事だ。

 昨年このバンガローに長期滞在して七輪担当だった古島さんの行方を聞くと、不都合があったので出て貰ったとのこと。ビザ書き換えの他はタイ暮らしの古島さんはパンガン島を気に入って日本からの友人を何人も呼んできたが、わが物顔で振る舞って手数料も取っていたため、漁や食事を用意する千早さんが激怒したようだ。狭い島の人間関係でも駿台労組末期と同じ問題が出たのかと愕然とする。
 千早さんのガン看病が不要のため、私は漁や釣りに同行しこちらも楽しみつつ、魚のうろこ取りや三度の食事の火起こしや片付けなど頼まれた役割を淡々と果たせばよい段階だ。これからはパソコンモと、持参した投網の練習に力点を移して行く予定。だが日常の付き合いは裏表も習慣も性格も出るので要注意。
 さて、パンガン島での主用件だった千葉さんのガンは、すっかり小康状態とのこと。千早産はパンガン島から名医を求めてバンコクに出て、高いカネを払って入院し、体重は40キロに落ち、半年の命と宣告された。死を覚悟した千早さんは自分なりのホスピス経路を考えて、薬類を捨てて馴染みのパンガンにもどり、身辺整理を隣のサムイ島にいた上沼に頼んだという。
 その後、地元の知合いから島の秘伝のガン療法を何度も勧められ、騙されたと思って食してみたら1カ月で快方に向かい、病院と縁が切れたあともこの秘伝だけで、今ではガン発覚以前の8割まで快復とのことである(千早さんを快復に導いたガン特効薬は、商売に悪用されては困るので詳述しない)。


<クリスマス>

★12月24日、月曜日。クリスマスイブとて市街は欧米人であふれ、メールも行列だ。朝7時半にカニ網を引き上げにゆくが、意外に渡りカニが多く、ウナギに似たぎぼしが2匹入る。これは夕食の蒲焼きにする。     
 この間2日ほど波が高かったが収まってきたので漁に出る。いさぎ(日本では人気の魚だが骨が多く、小さいと刺身は無理で焼き物用にしかならない)、小いとよりが多く、刺身用の鯛は食い付きはよいがなかなか上がらない。千早さんの大型用さおに売り物になるはたが二匹かかったのが救いというところだ。
 バンガローからフェリー接近が見えたので、千早さんがバイクで出向き田山しょう子という横浜在住の30歳女性を連れてくる。バンコクからのバス便で少し前に高速ボートで着いたそうだ。バスのジョイントチケットは船便を指定せぬと到着時間は分からぬようなので、フェリーと直結している列車便(遅れるのを見越してバンコク夕方発の少し早い便)が確実なようだ。
 夕方メールしようと市内に出たが、クリスマスのためか欧米人が行列しており、中止した。夕食はクリスマスイブに田山さん歓迎の意もあってか千早産が張り切って、大きめのカニ、ピータン、お新香、肉付け合わせ、鯛刺身、鳥唐揚げ、ウナギ風蒲焼き、ピンク色の現地とろろいも、なすのみそ汁、ごはん、ビール。いわばパンガン島のフルコースである。
 千早さんはガン8割快復というが、漁師の日課はやはりきついようで睡眠時間は必要なようだ。食卓をさっさと片付け、トランプをやるというので、つもる話もあるだろうと伝えて、これ幸いと後は田山さんに任せて、私は自室に戻った。      
 
 クリスマスイブのため欧米人があちこちに集まっている。浜では花火もやっているが、予想したほどうるさくはない。当然のことだろうが8割は背伸びしたがる年齢のガキで、残りに子連れ夫婦と訳あり風の中年独り者がいる構成だ。 隣室に欧米男とタイ女が入るが音楽がうるさいので注意すると少し静かになった。昨年は隣室のオーストリア男をどなりつけて謝罪させたが、大人気がないので耳栓を付けて寝る。鼻は弱いが耳は敏感な方なのだが、飛行機用耳栓は性能がよく花火や隣室騒音で起きることもなかった。
 こちらは自分都合で周りに迷惑を掛けるのは許せぬと考えて時折気まぐれに怒鳴っているのだが、逆に隣室男やタイ女や花火狂の欧米若者には、一人で一ヶ月も異郷に来ている中年(老年?)男は、どう写っているのだろうか? 考え所であろう。(注:この時点では後の騒音紛争は予測していない)。


<バンガロー騒音紛争始まる>

★12月25日。カニは大型が多く、魚も大漁だ。1キロ近くのほごの大型の黄黒点々のトッキー?は引きが強く釣りごたえ十分だが、中国人がキロ150バーツで買うとのことで浮き倉庫に入れる。田山さんも女性だから華やかで千早さんは可愛いがるし話すのは面白い。パンガン島に学生のころから通い詰めとのことで、あれこれ経験もしてきたようだが予備校の教え子と同レベルで、精神年齢は10歳引きだろう。では自分なども同様か?
 さて本日、隣室A4との騒音戦争勃発。夜11時にタイ音楽とタイ女性の歌で目が覚め、「音を小さく・ドアを閉めろ」と当然の主張をすると、入れ墨の小柄なオーストリア男が、血相を変えて「おまえとは英語が話せない。自分のバンガローに近ずくな。音楽が嫌いなら浜へゆけ」と片言英語で怒鳴る。さらに私が反論すると、ドアを閉めてボリュームを最大にして中でわめいている。前のA2もびっくりして飛び出してくるが、結局は午前1時に女が叫びつつ部屋を出て行き、男が追い掛けるまで騒音は続いた。

★26日。昨日の騒音事件の流れにはみょうな既視感がある。パンガン在住8年の主の千早さんに聞くと「地元で半年仕事をして金を持って半年パンガンに来ている、オーストりー人のリピーター兄弟の弟だ」とのこと。さらにいつも真夜中まで騒音をまき散らしマナーも悪いが、注意すると英語が分からぬ振りをしてドイツ語で答えて直そうとしない。昼間はおとなしく他人の顔を見れないほどの小心者だが、葉っぱもやっているらしくアル中気味で夜になると空威張りする鼻つまみ者とのこと。今はタイ女が同居中だからなお強気なんだろう。「この迷惑オースト男には上沼もほとほと困っていたようだが、去年安い方のバンガローでは、君の隣だったのじゃないか 」との話が出た。
 ここまで聞くと、みょうな既視感の理由がはっきりした。昨年も注意すると大声で怒鳴り返し、なにの脈絡もなく「(自分がか、相手がかもはっきりせぬのだが)英語は話せない」と叫んだのはよく覚えている。昨年はこちらがさらに強面で迫ると、翌朝に「アイムソーリー」とわびを入れ、不良欧米人のたまり場のハードリンに逃げたのだった。ここで筋は読めたが、バンガローにとっては金の入るリピーター客だし、アル中気味だと対策が大変だ。
 本日はカニは大漁だが、魚はまあまあ。最初の30分は入れ食いだったが、あとはだめだ。  千早、田山組は隣のムーンライト・バンガローへ連日トランプに出かける。こちらは自宅、事務所、宇和島、大野に航空書簡(1通15バーツ)を出した。

★27日。夕方ネットに行くが、このところ1バーツの店は欧米人で混んでいる。しばらく待ったがどのみち日本語変換似店員の助けが要るので止めた。田山さんがムーンライト女経営者と外食に出たので、千早さんも気力がない。こちら二名も今日の夕食は外食と決めてバンガローを出ようとすると、千早さんの顔見知りという30代の夫婦連れが来る。
 何のことはない、昔はパンガンにも来たが最近は隣のタオ島直行ですっかりお見限りだったのに、波が荒くてタオ島へ船が出ぬので寄ったらしい。最近は日本人にもダイビングマニア中心に透明度の高いタオ島ファンが増えているが、年末年始に予約もなくどっと押し掛けるので、しょっちゅう欠航のタオ島便のあぶれ客がサムイ島やパンガン島の安宿にあふれるのだそうだ。
 この夫婦もあわてて宿を探したが、本来のパンガン客で満杯で空きはなく、旧知の食堂の二階に泊めてもらうことにしたらしい。千早さんが漁師として天候を見て「ともかく安宿を確保し手おいた方がよい」と進言するが、この夫婦は「明日はタオ島便がでる」との船会社の説明を鵜呑みにして聞く耳を持たない(その後、彼等は痛い目に会うことになる)。
 さてカニは食事分だけはとれたが、波が高いので魚は不漁で小魚ばかりだ。  隣の騒音組は一一時頃に怒鳴ると、戸を締めて静かになった。どうも気味が悪い。
 このところ睡眠時間が多く長いときは12時間くらい寝ている。結構、出てから帰るまで三時間位の漁が疲れるのかもしれないが、何時間でも眠れる。食事も栄養バランスばっちりだが量はふつうで食べ過ぎではない、ビールは一本に押さえ、体調は万全だ。面白いことにパンガンに来て最初は例の中年喘息向けの薬を飲んだが、殆ど咳はでなくなり薬を飲むのも忘れている位だ。本日、右鼻より垂れるほど出血し気味が悪い。特に鼻の中に傷はないので、高血圧気味なのか、それとも体調がよすぎるのか、何だろうか?

★28日。今日は新年用餅つきをした。餅米(東南アジアでは需要が多く、タイ東北部のイサーン料理の主食はほとんど餅米だ)を少し堅めに炊いて深鍋に入れ、椰子の木で作った杵でぺたぺたついて、水を入れて裏返してまたぺたぺたし、粘りが出て米つぶがなくなると出来上がりだ。三センチほどの小丸にして、大根下ろし・砂糖醤油・日本より持参した海苔・チーズで食べたがなかなかの味だ。日本で殆どすなる餅つきをタイで味わうとは?夕食もイカ・小魚・豚肉・タマネギ・人参などの天ぷらと、焼き飯で豪華だった。
 タオ島行き船便は本日も波が高く欠航。例の夫妻はあわててバンガローを探したがまったくなく、1500バーツの中級ホテルを予約。結局イサーン食堂の二階に500バーツで連泊する事になったが、ホテルの予約金500バーツは帰ってこなかったとのことだ。
 隣の騒音組に夜11時頃怒鳴ると静かになる。だが裏側の欧米人のバンガローでフルムーン前夜祭のつもりか重低音のシンセサイザー音が11時半時頃からかしましくなり、夜1時半まで続く。これじゃ騒音組を怒鳴っても説得力がない、踏んだり蹴ったりだ。
 本日もカニはまあまあの所だが、波が高いので出漁は中止する。


<フルムーン>

★29日。本日は満月だ。島はずれの欧米人のたまり場のハードリンで盛大にフルムーンパーティをやるとの貼り紙が、港近くのあちこちに出ている。  朝5時くらいに目が覚め読書・ワープロ入力を楽しんでいると、何の脈絡もなく隣の騒音タイ女が私の部屋の前に怒鳴り込んでくる。タイ語で大声を出すので英語でしゃべれと言うと、英語は話せないと居直る。部屋に帰って寝ろと言うと、ノースリーピングと答える。
 とすると彼女はこちらの英語の文句の内容を理解しており、こちらがタイ語が分からぬことを承知の上で、朝6時にタイ語で怒鳴っているのは一種の威嚇だろう。だがこの騒音女は葉っぱのせいか目が泳いでいて焦点が合わない。騒音組が私に圧迫感を持ち反発しているのは事実だが、まともな相手ではない。
 時系列では7時に肉まんとコーヒーで朝食。次にカニ網を上げるが、波で海底が逆巻いているのか、大潮の前だと言うのに食い物にならぬ泥カニが多い。それでも夕食分の渡りカニを引き上げるが、海藻が打ち上げられている状況なので出漁は中止する。
 本日もタオ島連絡船は出ない、例の夫妻は丸3日パンガンに足止めとなった。その部屋なし夫妻の仲間も今日パンガンに着くとのことで、千早さんは日本人3名が宿もなくどうするのだろうと、他人事ながら心配している。船はどんどん着くが、皆パンガン止まりである。
 クリスマス期の混雑の反省もあり、漁も休みのため10時前に町に出る。上沼のメール情報によりアジアホテル前の空いているアジア旅行社で、ゆっくりとメールを送り、神津ホームページのゴミ投稿を削除し、新年の挨拶を日本語で入れる。均一20バーツかと思っていたが、20バーツはミニマムで後は加算され結果は62バーツだった。30分以上も専用で使って結果も良好だったから文句はない。その後セブンイレブンで買った8バーツの豆乳を飲みながら、子供らに航空書簡を書いて出した。
 夕食後に田山さんに貸していた水中眼鏡を回収方々ムーンライト・バンガローに出向く。女性がいるといつもドイツ人のジミーが加わるが本日はハードリンのフルムーンパーティで珍しく不在とのことで、誘われるままにトランプの「大貧民・大富豪」に初めて参加する。フランス革命とテルミドールを思わせる権力交替が面白いからか、上沼がいた頃からパンガン島の小社会ではこの大貧民が大流行らしい。
 千早・田山・サホ(ムーンライトの女性経営者)の常連3名のゲームを見て、話を聞き、少しずつ分かったルールを次に記しておく。


 <大貧民・大富豪パンガン島ルール>

1 手持ちカードを3分する(2名の時、一山は使わず)。3〜4名の時は4分する(3枚ずつ配る)。マッチ手元10本から各自が場代を1本出す。 最初はじゃんけんの敗者から、時計回りでゲームを始める。

2 原則の強さ順(ジョーカーは全ゲームで常勝1位)は最弱3で数が大きいと強くなり(4、5〜クイーン、キング、1の順で)2が最強である。革命が起きた場合(配り手がジョーカー加算を含めて、フォアカードかフルハウスの4枚をそろえて出した場合)は強さ順が逆転し、最弱2で数が小さいと強くなり(1、キング、クイーン〜5、4の順で)3が最強だ。

3 2回目からはゲーム敗者がゲームの最初の勝負札の配り手となり、まずゲーム敗者の最強札とゲーム勝者の最低札を交換する。ゲームは何から配ってもよいが強いカードが勝ち、一巡した最強の勝者が次の勝負札の配り手となる。

4 ゲームの勝負札は何をどのように(同数字ワンペア、同数字・同種続きスリーカードなども可)出してもよいが、参加者は時計順に前札より強い数字の札を出さねばならない。 場の札より強い札がないときは3回迄パスできる。
手持ちに強い札があっても出したくないときもパスできる。パス者を飛ばして強い札をさらに出し、その勝負札の最強の勝者が次の札の配り手となる。

5 手持ち札が最初になくなった者が一位で上がり、なくなった順に次々に順位を決める。最後の敗者が次の勝負札の配り手となる。

<注> 配り手の順番ではどの札も出せるし、最強のジョーカーはいつでも出せる。次々に強い札を並べるルールなので、弱い札は先に出さぬと出しにくい。だが強い数を先に出すと他のパスが続きその場は勝つが、弱い札が残れば後では出しにくい。また組合わせカードは最初はすぐ出せるが、後では出す機会が減る。更に心すべきは、革命が起きて強弱が逆転すると強い札はクズとなり、更に反革命が起こると元の強弱に戻る点である。要するに座の他者の手の出し方や残り枚数を読み、自分の手持ち札を早く捨てる工夫がポイントとなる。
★30日。満月で大潮であり、本来は本日がフルムーンだ。。昨夜はフルムーン流れで遅くまでの空騒ぎ予測したが、意外とあっけなく静かになった。9時頃まで満月が雲間に見えたが、そのうち曇り空から雨が少し降る。深夜1時頃にもっとも潮が引いており、10メートルも引いた海岸線や遠くに現れた神秘的な地面の写真を撮る。だが朝6時頃には通常に近く満ちてきていて波も荒い。
 本日は年越しの祝いか、島への帰省組らしい家族連れが地元学生を含めて10名位が、目の前の浜辺にテントを2張り設営しキャンプを始めた。 欧米の若者男女はともかく酒を飲み、音楽で踊って海でチャボチャボし、ハンモックで寝て、また起きてまた飲むくりかえしだ。金に飽かせたバカンスとはこんなものか。逆に地味なテント学生はおとなしく浜を散策している。
 本日はカニ網も仕掛けず、漁も休みだ。タオ島便はこれで連続4日欠航だと言う。こんな日は読書と思索に限る。本といえば、島の弁護士が経営する古本屋にガンで死期を覚悟した千早さんが蔵書を売り払い、秘薬で快方に向かった後で何倍もの値段で買い戻す悲喜劇が起きた。島で読んだ本では、わにブックスの高野秀行「タイ極楽暮らし」が面白かったが、その他は略す。   
 世界の電子化は急速に進み、メールは手紙よりも電話よりも速報性がある。自宅からのメールでは、年末年始に米国行きも含めあれこれ動きがあるらしい。自分が元気になることなら自己責任で誰が何をやってもよいと考えるのだが、いつも私へは事後報告である。もっともその方が気が楽なので納得している。


<年越し・正月>

★12月31日、大晦日の一日。既に餅にミカンを供え、カレンダー、船飾りなどの正月準備はできている。今年最後の日とて田山を含めた千早組の3名で年末年始の計画を立てた。ともかく田山は正味であと3日の滞在(3日早朝便でスラターニへ出発)なので本人希望を優先する事とした。田山希望順は第一はハードリン、2は釣り、3はお汁粉、4は年越しそば、5はお雑煮、後は正月準備で万々歳のようだ。本日の時系列で上記希望の進行状況を示す。

 第1のハードリン行きは、田山とさほで31日の深夜決行の模様。

 第2の釣りは3日間の休漁を挟んで満を持して出船したが、波がなく潮も流れず不漁。潮の調子を読むと年が明けても期待できそうにない。

 第3のお汁粉は、島で買った小豆を二日間水でふやかして、七輪でゆっくり煮たが、十分に粒の中まで火が通らず固い。餅も溶けぬようさっと火を通したため固く、縁起物として食したが、とても美味とはいえぬ代物だった。

 第4の年越しそばは、一度に湯がいた量が多すぎ、時間を置いこともあり、越が弱く柔らか過ぎだ。

 わざわざ材料を取り寄せた正月用の日本食は、ただ日本のようにやってみたと言う程度で決して美味ではない。ガン快方に向かってからは食事も美味しくなり料理自慢の千早さんが料理番を仕切っているが、これでは名折れだ。
 だが自給自足をベースとする現地食は、味付けも付け合わせを含めて工夫されており、31日昼のカレーなども極めて美味だった。料理の味が生きるのは、本人の腕自慢より慣れが優る好例だろう。後は母親仕込みの富山の味を広うっする殿触れ込みの、田山さんの明日の第5の雑煮に期待しよう。

 パンガンの大晦日はともかく爆竹・音楽・歓声・太鼓などなどで騒がしいのが特色だ。元々が旅行客の大半を占める欧州人にはクリスマスは厳粛な祝祭行事の側面を持つが、大晦日は単なる年度代わりの区切りに過ぎない。また観光収入に頼る地元のタイ人にとって重要なのは、仏教式の2月の旧正月や春節であり、大晦日は気楽に騒げる正月休みのイベントなのだ。
 例えばムーンライトのサホちゃんは大晦日は欧米人の馬鹿騒ぎに対等にとけ込めるチャンスと考えて、友人の田山さんを誘いハードリンに行った。他方でパンガン・リピーターのドイツ人・42歳のジミーは、混雑して騒がしいハードリンにはもう飽きたと、バンガロー食堂で満月を見ながら大貧民を楽しんだ。 30歳のサホはようやく手が空いてハードリンの欧風年越しを久しぶりに楽しもうとしたのに、彼氏候補にすっぽかされ同年の田山さんを誘ったようだ。だが35歳のムーンライト共同経営者のスースー(彼女がガン特効薬スープを差し入れてくれた千早さんの大恩人だ)は、客の殆どがハードリンにゆく中で,気楽なサホを牽制しつつ、閑散とした食堂を喜々としてしきっていたのだ。
 千早さんや私は騒ぐ年でもないので、大貧民のあと自室に戻った次第だ。
 タイは日本の2時間遅れのため、9時半にはNHK短波放送ラジオにっぽんの紅白歌合戦が終わり、タイ時間10時には日本の除夜の鐘が鳴る流れだ。
 その後暫くして現地11時半位から島のあちこちで爆竹が鳴り、浜の向かい側のサムイ島で花火が続き、島の右端のハードリンで対抗するように打ち上げ花火が上がる。太鼓は鳴るし、いつもは流行らぬサンダンスの食堂ではタイ人が騒ぎ、街では太鼓が鳴り響く。ともかく音響がやむことがない。
 新年に入っての大音楽や嬌声はバンガローに届き、ハードリン帰りの騒ぎは朝まで続いた。
★2002年1月1日。新年の日の出は7時前だが雲が厚い。雲の下方が旭日旗のように筋状に広がり雲の上方が輝いているが太陽は顔を出さない光景を、2002年の象徴として撮影する。ちなみに新年の落日は浜の前方のサムイ島の横に真っ赤にゆっくり沈んだ。 確かに島の朝日・夕陽は一見に値する。
 昨日の夜はつないである漁船の後方まで30メートルも潮が引き珊瑚礁の前に島ができた。そのせいか知らぬが、カニの初漁は不出来。カニかご在中を含め20匹位を、千早さんがスースーとの約束でムーンライトに渡しに行った。
 昨日は海が濁っていてカニ網は入れていない。案の定今日は海が荒れている。千早・田山組は桟橋にさびき釣りに出かけ、短時間でイワシをバケツいっぱい収穫。田山さんは家計の助けになると自慢顔で戻ったが、毒舌家の千早さんにせいぜいカニのエサで人間の食い物にならぬと言われ不満顔になる。
だが田山さんの第5希望のお雑煮は、日本から基本材料を自賛し慣れ親しんだ味付けの再現のせいか、いかにも風の正月料理の味わいで美味しかった。


<元日の大ニュース?>

 夕食時にすぐ隣のバンガロー経営者の海坊主の弟で「犬殺し」(薬をまいて野犬狩りに協力)の悪評のある25歳男がやってきて自慢気に「世界の大スターのマイケル・ジャクソンがパンガン島に来ていて、今日ウォーターフォールでコンサートをやるが知っているか。50ドルらしい」と言う。地元では噂だが、タイ人は50ドル出せないが日本人は金持ちだから連絡に来たそうだ。
 そういえば千早さんの弟がフェリーで一緒になった日本女性が正月のパンガンのコンサートの切符をロンドンで買ったとか・田山さんが昨日のタクシーで大スターがパンガンに来たと言っていたとかの、最近の噂話を突き合わせると、マイケルのパンガン来島の噂とのつじつまが合う。
 だが千早組3名の分析では、噂は悪いジョークだとの否定結論となった。
 第一に会場だという島の中央部にある滝は、観光案内図には印があるが実際は殆ど枯れていて、外部観光客はゼロに近く、島の人間でも若者は道も知らない。街路灯はあるが道幅は狭く駐車場はなく、近くに行くにはバイクも途中で捨てて、10分以上歩かねばならない。こんなところが会場になり得るのか?
 会場が滝ではなく、同じパンガン島でも映画ビーチの原作舞台でヒッピーの聖地のハードリンだとすると企画はあり得る。だがマイケルがデカプリオの後塵を拝して50ドルでコンサートをやるか? ハードリンの浜全体には数千人は入るが出入りの管理はまず無理だろう。
 更にマイケルは落ち目とは言え熱狂的なファンも多く、パンガン島のコンサートなら、サムイ島、タオ島やバンコク、シンガポールから特別船が出て、タイの芸能ニュースの目玉にもなるはずだ。だがテレビの話題に成るどころか、パンガンニュースレターにも記事はなく、単なる噂の可能性が高い。
 てな事でデマと承知しつつ、物好きにも千早・田山がバイクで調査に行った。万々一マイケルそっくりさんがいたら、コンサートに潜り込むか写真でも撮ろうとの魂胆である。だが目的の滝では会場設営をしていたが、マイケルとは何の関係もない別グループの100バーツのコンサートだったそうだ。だがその受付の日本女性(愛媛県新居浜市出身とのこと)は、マイケルはハードリンに来ているのではないかととぼけて答えたそうだ。マイケルコンサートの噂の背景は地味グループの客寄せ宣伝の可能性もあるとの判断で、一件落着。


タイ紀行パート2(余力があれば後で文章化します)

<この後はトピックスのみの簡略メモ化>

★1月2日
 隣家のアル中オーストリア男といかれたタイ女の騒音問題を糸口に掘り下げ、<公共性の比較文化的考察>をまとめる。(別稿)

★1月3日。早朝のフェリーで、10日ほど近隣生活をした田山祥子さんが、島を離れた。残る千早・神津2名も、8日昼の船・バス・列車でパンガン島を出て、9日朝にバンコク着のジョイント切符購入(寝台下段で700バーツ)。

★1月4日。潮の流れが変わったのか、カニは大型そろいで網が重い。また海、釣りは根魚三匹含めタイも小魚も入れ食い状態で、文字どおりの大漁だった。 この日の午前中に隣のバンガロー経営者の海坊主が、お調子者の騒ギ屋のヤンキー男の部屋に怒鳴り込む。ヤンキーは退出し、騒音問題も峠を越す。

★1月5日。今日は不漁と思えたが昨日と比べての話で、結果的にはカニも魚も順調だ。使いすぎか砂が入ったのか、カメラのシャッターのスライド板が、左右に動かなくなった。バッテリーを170バーツで買ったが動かない。スライド板の爪が外れていたので、瞬間接着剤を買ってくっつけようとしたが上手く行かない。カメラは壊れたものとして、扱うことにする。
 1バーツネットでは店員はメール設定しかできない。だが不便なので独力で日本語読み書き設定を工夫し、本日はメール、インターネット、ネット管理者機能で嫌がらせ投稿の削除などがスムーズに進んだ。

★1月6日。昨日、夕食の後にまたトランプをやり、もの足りぬので残菜をつまみにビールを1本飲んだ。 隣のオーストリ男とタイ女の音楽のボリュームは低くなり、女が外付き合いのよい男に私と友達とどちらが大事なのと怒鳴り、男はごもごも答えて静まる。 だが夜2時半に隣家にバイク男が数台来て、男に遊びに出ようと誘っていたようだ。気弱なオーストリ男は例によって出て行くのかなと寝ぼけ半分で聞いていたら、すっとこどっこいタイ女が全面に出て交渉。都合の悪いことは英語が分からないと居直って、一時間ほど怒鳴っていたバイク連中は帰ったようだ。このタイ女も隣のパンガンビラの海坊主を見習ってか、気弱男の所に出張して馬鹿騒ぎをやろうとする無責任野郎たちを追っ払ったのだから大したものだ。翌日この騒音組は報復を恐れてか、こっそり右端バンガローに引っ越した。
 そんな深夜観察の影響か分からぬが、今日は寝坊して起きたら七時半。急いで浜に出たら、せっかちな千早さんは待ちきれずに出漁していた。立場も構えも違うのだから、これでよいのだと考える。

★1月7日。正味の所ではパンガン島ラストデイだ(と考えたのは勘違いだった)。本日は潮が悪いのかカニも魚も不漁である。
 帰国後に春までに互助会関係のの集まりを持ち、駿台争議の最終報告とお礼を述べる予定。全共闘以降の自主的組織運動の流れと駿台労組の命運を重ねて検討したい。だが経験の包括性と影響の持続性では全共闘と比肩し得るのは二次大戦しかない。そこで「全共闘を歴史化するために」を基軸にして、我々の戦争体験のくぐり方の諸相を思想的に概括し、今後の構えを示す予定(別稿)。

★1月8日。明日はパンガンを出発する。前述したように、千早さんの看病予定で出向いたのに、末期ガン患者がすっかり快復していた。日常ではお気楽な性格の私がせっかちで完全主義の千早さんの釣りや食事段取りの足を引いた形だが、私の方は釣りも海浜生活も十分に満喫した。最後の方は1日12時間寝たり・本をじっくり読んだり、あれこれ私自身の来し方行く末を含めじっくり考えるゆとりも持てた。これで思い残す事はない。
 上沼のメール返答により、咳を止める薬草のファータライジョーンを探すと、何と私の部屋と隣のパンガンビラの境界に多数自生していたのには驚いた。パンガン土産は例年通りの瑚礁の小石と貝と小仏、新顔は地元産の山芋、それに観賞用のふれ込で薬草も加える予定だ。
世界でもっとも重い果物は40キロになるジャックフルーツ(写真あり)。千早さんの説だと果物の王様はパパイヤで、女王はマンゴ−スチンだそうだ。バンコク土産は果物の女王を探してみよう。

<持ってくればよかったもの>
 住所録、最近の重要事項メモ(緊急措置など)、変圧器(村内2000円の全対応型)、ネット接続(プロバイダーを確定すれば台北ホテルでも使用可)予備タオル、台拭き、ティッシュ(タイは高い)、アロハかカッターシャツ。

< 持ってきて不要だったもの>
 投網(練習はできたが、遠浅で投げる範囲には魚がいない。湖か川の方が実用性が高い)、防寒マット。英語辞書(中レベルの電子辞書か会話辞典の方が便利)、雑本(中身の濃い本2冊で可)、雑物(現地に殆どある、ゴム靴(ゴムぞうりで十分)。


<バンコク1週間>

★1月9日。12時半のフェリーでスラターニ港に4時半着、バスで駅に向かい夜7時半の列車に乗り、明朝8時10分バンコク着の予定。日本ではとてもこんな悠長な予定はないが、実際は列車が100分も遅れ、1時間延着した。
 千早さんよりピータン50個土産。それと別に千早さんに千バーツ見舞金渡す。

★1月10日。暑いバンコクで重いリュックを担いで歩くのも芸がない。食事の後はまず台北ホテルへ出向いて部屋を予約し、9日夜に先着している上沼と合流。バンコク発16日深夜なので、リコンファームを済ませ、荷物を預け、11〜15日くらいタイ東北部の山地に行くのも一案だ。だがチェンマイでもは快速バスで10時間かかるし、私は旅行マニアでもない。台北ホテルの部屋が気に入ったら懸案原稿の執筆を軸に、バンコクお気楽1週間も悪くない。  上沼はうるさいバンコクに飽きてか、本日古巣のサムイ島に旅立った。
 
★1月11日。昨日・今日でいろいろな事があった、上沼に日本製変圧器を返却後にバンコク随一の専門店街のマーブンクロンで購入した変圧器の調子が悪く心配した。だがノートパソコンの説明書を熟読し最悪事態を覚悟の上で、変圧器なしでパソコンコードを直接にタイ電源につないだら問題なく動いたのだ。 今は65バーツで買った豚煮込みとビールを食しながら入力している。
 
★1月12日、本日も東芝パソコンは快調。ノートパソコンは持ち運びできるのが強みでバブル期の開発時に、主要メーカーは海外持参も当然視野に入れていたわけだ。価格に見合ったサービスの充実努力もあるだろうが、ノートパソコン一台あれば世界中どこに行っても、電話さえあればメール作成も送信もでき先端情報が入手できるというインターネット理念と、それに協力した先進諸国電機メーカーに、その点に限っては敬意を表する。
 12日にバンコクで驚いたのは、駿台争議前に実用新案を取得しておいたゲームの実用化の件だ(この場で話題とする意味はないので割愛する)。

★1月13日。チャイナタウンで50バーツのホラー映画を見る。制作アメリカ、タイ語吹き替えの内容を類推するのも一興だ。チェンマイのひょうたんを買うが、観光客向けにニスを塗って光らせているのが困りもの。実際に使うと剥げてまだらになる。いい加減で何でも許容するタイ文化は気楽で好きだが、いい加減さがいい加減続くと飽きてくるようだ。
★1月14日。朝食、50バーツの散髪、3265バーツに下がった両替を段取りよく済ませ、マンゴースチン探しに向かうが時期柄かインド人街近くの市場にはない。帰路にチャロンクルン通りの泥棒市場の入り口で、デパートでは高値の品薄品を安価で買う。洒落たウイスキーフラスコ8オンスも購入した。

★1月15日。関心幅広く雑物集めも好きなので、1カ月もいると澱が貯まってくる。心配で荷物を整理しリュックに詰めると何とか収まった。バーツもまだ余っているので300バーツのフカヒレと燕巣でも食べに行こうか。

★1月16日帰国日。16日の朝1時の出発時刻は15日の深夜である。だが16日の夜の1時と勘違いしていたことに、夕方になって気付いたのだ。 「急いては事をし損じる」のことわざ通り、空港行きと勘違いして長距離バスに乗ってしまい、最後までドジが続いた慌ただしい旅立ちとなった。薄手衣類を重ね着しての日本着だが、17日は暖冬だったのは有り難かった。
                                              了  



<2001年 年頭所感>

神津陽


 21世紀になりましたが、外的時間単位が変化しようと私の心身はただ持続しています。思えば昨年初は駿台予備学校の裁判と争議の山場で、解決の方位は定まるも糸口は見えずヤリナゲ気味の新年でした。駿台争議は二月一五日に組合側に勝利的に終結しましたが、まだ未解決の難題が残っています。あれから一年経ち21世紀になって何が変わったか、月日が移って私たちが年老いただけではないか。若者には全共闘は遥かな昔話で、私たちが力を注ぐべき世代的課題は既に終わっています。だが世にはびこる団塊世代の名を掲げてのおためごかしの指導者面や懐かしのメロディの主役の自作自演を眺めると、問題なのは誰もが生理的に年老いる事の思想的意味や差異ではないかと考えます。
 そこで最近私が見聞した事実を脚色し、フィクションの背骨を通した戯作の下書き骨子を提供します。皆様の来し方行く末を省みる正月休みの酒肴となれば幸いですし、当方も興が乗れば何らかの形で書き上げる積もりです。ともあれ本年も宜しくお願いします。


<世紀は変わり、私たちは残る>
   (↑仮タイトルはシャンソンのミラボー橋?のアレンジの積もりです)


<導入部骨子>往復三万二千円の安チケットを手に入れ、私は夜遅くバンコクに着いた。最終のエアポートバスに駆け込みホアランポーン電車駅横のステーションホテルに入り、翌日はバンコク内の変化をあれこれ探索し、夕方のジョイントチケットで南部のスラターニで下り、フェリーでサムイ島に向かう。あまり迷うこともない、いつもの手順だ。
 普通なら十二月は乾季のはずだが、今年は天候不順だそうでサムイ島はスコールが多い。先客の上沼が泊るパールバンガローの旧知の管理人や家族と祝宴を張り、世界一と折り紙つきの落陽も堪能したところで今後の予定を見直すことにする。上沼のように半年単位で日本とタイを往復している身なら悪天候は寝て過ごせばよいのだが、こちとら三週間弱の滞在では予定の有効活用を図るのは当然だ。そこで、今年は雲がよく流れ釣果もよいとの噂が伝わって来た隣のパンガン島に出向く事にした。 サムイのナトン港を離れると急に雲間が開き、フェリーは一時間で小さなトンサラ港に着く。元々が半島部に比べ島嶼部は開発が遅れ、尤も大きいサムイが独立百余年、パンガンに電気が付きトンサラ港から欧米人が開いたリゾート地のハードリンまでの島内道路が開通したのが十年位前とのこと。不便な頃のハードリンは欧米ヒッピーの聖地とされ、デカプリオの映画「ビーチ」の原作の舞台である(ただし撮影場所は奇岩で有名なピーピー島)。今もトップレスビーチは健在で、満月の夜のフル
ムーンパーティも盛況だ。


<哀愁のパンガン島>

 ビール三本とウイスキー瓶を求め、旧道からヤシ林に入り名前だけ知っている千早氏が住むサン・バンガローに向かう。地図ではすぐ近くなのに曲がりくねったヤシ林の内道で、何度も場所を確認しつつバンガローの地所に入る。海沿いの部屋へ足を向けるとどうやら昼食の準備中のようで、煙がたなびき焼き魚の匂いが鼻に届く。うちわで風を送りつつタイ風七輪の前に陣取る白髪頭と、部屋の中で刺身を作っているらしいだみ声男の間には、中年世代には懐かしい「雪の降る街を」のBGMが流れている。
 このシーンは絵になるなと凝視しつつ、白髪頭に近寄り挨拶するとだみ声男も顔を出してくる。取りあえず前に行き来のあったサムイの上沼の紹介状を示すと、三日までは客人扱いとの現地ルールに従い昼食をごちそうになる。だみ声のやせ型中背男が五九歳の千早さん、白髪小太りの七輪担当が隣室に住んで半年の五五歳の古島さんとの紹介を受け、世代的に近い二人のパンガン自炊生活に到る経緯にやじうま的関心がつのる。
 今日はもう漁には出ないとのことで、昼間から酒盛りで話に花が咲く。千早さん(以下、パンガン千早、ガンさん)は岩手の一ノ関出身で、小さい頃から漁師に憧れ水産高校を目指すが親の反対で果たせず、普通高校を出てコンクリート撹拌施設基盤設置の技術を習得しODA関連の仕事でアフリカ中心に海外生活三〇年。その間に
ヒッピー文化の洗礼を受けインドやネパールの聖地を巡礼、タイやインドネシアにも足を伸ばす。五十歳を機に南洋での定住を決意しパンガン島を選び、漁船を買って漁労での自活を目指している。
 七輪担当の古島さん(以下、七輪古島、七さん)は福岡の小倉出身で地元の大学を出て三菱系の鉄鋼商社に普通に就職した。だが「少年ケニア」の読者だった昔から南洋志向が強く、就業規則で定められた休暇を完全消化して東南アジアの海岸部を訪ね歩いた。だが管理職になり四〇歳を越すと会社からの風当たりが強くなり、退職金上積みの退職勧奨に乗り五十歳で退社。日本語の出来るホテル支配人募集に応募し現地採用で二年働きつつ南洋を探索。インドネシアのロンボク島で建築資金を出して新築コテージに三年住んだが、地主に意地悪され国外追放。反撃材料を求め地主関係者の住むパンガンに来ている。


<面白ストーリー案> 

★私は誰か。「兎の耳」は私の郷里の宇和島伊達藩のお家騒動と藩主ぐるみの隠蔽劇の謎解きでしたが、これはノンフィクションです。この新戯作を小説の形とすると、私の位置や役割が要ります。事件調査では元刑事・探偵・新聞記者・当事者の身内などが定番ですが芸がない。フリーライターでは腰が定まらず、予備校講師は時間的余裕がありますが別作で使いたい。そこで「私」は事件との関連付けに無理がなく内情も分かっている法律事務所職員、常勤ではなく嘱託調査員の形を考えています。ちなみに宮部みゆきの作品の多くに法律事務所職員の経験が活かされていますが、ストーリーにはあまり出ませんね。

★謎解きの集約点の予定のパンガン島には、サムイ島でタイ語の英日翻訳をしている上村が合流します。千早と私の接点には日本のヒッピー元祖のせむしのポン太、最盛期の高円寺の飲み屋ハルが入ります。古島はひとひねり脚色を加え、体育会系だが上村の元過激派の先輩山元の親友とします。ロンボク島のホテル王川野は悪玉ですが、それらを操る元締めがパンガンの港地区のヤシ林の大地主で自動車工場経営のチイの娘婿の浅野です。
★日本とパンガンやバンコクとの関連は? 既に終了した実際の破産事件を取り込詐欺事件の一部として再構成。二千年の介護保険導入を当て込んだ会社概要と詐欺的仕入れと、一万台のコンピュータと社員三十名が突然消え司直の追及を逃れるからくりは後述。日本での仕掛人は金貸しでバッタ屋の堀島だが、会社はあるが工場も倉庫もない。堀島とパンガンの浅野はかつての中古車販売会社の同僚で、接点はコンピュータとバイクと車。
★これらのグループの目的は? 導入部の「雪の降る街を」の望郷的情景・千早と古島の五十歳での転進・千早の漁労での自活・古島のコテージ建築、サムイ島パンガ村のパールバンガローでの上沼の擬似家族形成がヒント。タイ民主化運動とカラワン音楽、バンコクのカウボーイ居酒屋、カラワンを日本に招致するプロデューサー唐沢も加えます。
*正月の初夢物語と考えて面白案があれば連絡ください。採用分は薄謝呈。

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