活動家の進退出処〜島成郎を悼み三上治を諭す   
 

2000年11月 神津陽
   
★問題とする理由と切り口 
@政局は米国大統領選・森退陣茶番劇と、長野知事選・東京21区補選が併走しています。だが両者を包括し21世紀を拓く思想軸は見えず、旧思想の残骸ばかりが流通中です。元ブント叛旗派議長の肩書きであちこちで自己宣伝に熱心な三上治は新たな装いも出来ぬ旧思想家の典型で、まともに扱う意義はありません。だが自分がブント全体を動かしてきた、中大や叛旗派には竹竿以上の武器は持たせなかった、自ら作った叛旗派を自分が解散した等の歴史偽造は許されない。還暦間近で何を焦って大指導者面したいのでしょうか?
 75年のただ一人での三上逃亡劇を知る者は味さんはまだホラ吹きかと笑いますが、当時の兵士や三里塚・沖縄・早大闘争などの何十人もの被告連中は冗談では見過ごせません。三上は次々と新たな相手を騙す詐欺師の手口に従い、過去を知らぬ者に重信に最も近いブント指導者と詐称し、宮崎学らと第三次ブントを作ると与太ります。こんな三上に先月末のブント関係者追悼会の席で互助会三名が意を尽くし「ウソやホラは止めろ」と申し入れましたが、全く耳を貸さず皆は自分を支持していると居直る始末。三上は妄想狂かすでに耄碌か知らぬが、思想原則を堅持してきた旧叛旗派や互助会への冒涜は度を過ぎます。

A吉本思想を支え棒に叛旗史を偽造する手法は75年と同様ですが、三上は思想的には更に退行しています。最近の三上は人生の最大事件は60年安保体験と吉本隆明と会った事だと、叛旗派形成時の共通確認や関係者の参加意志と全く異なる思想的原点をでっち上げました。 そうならば60年安保世代の三上はよく納得せず叛旗結成に参加し、だから叛旗派の原点である全共闘体験や共同体論や関係の革命を理解できず、ピント外れに恣意的自由を主張し誰の支持も得れず脱走した経緯も理解できます。三上は大衆活動家で優れたアジテーターでしたが全共闘的理論家ではなく、政治組織指導者の器でもなかった事は明白です。

B三上は75年に叛旗派を辞めたが、残った連中も76年末に党派解散したから似たようなものだと居直ります。だが三上は兵士や被告の窮状を無視し自分だけ活動放棄して逃走し、逆に他の全叛旗員は内ゲバ全盛状況下では党派形態は無意味と判断して党派解散し互助会の形で被告救援・裁判闘争・労働戦線など諸闘争の連絡センター事務所を維持し出版活動を継続してきたのです。75年夏の逃亡以降25年間も互助活動に何の協力もせず逆にホラ吹き言動で邪魔をしてきた三上は、いいかげん叛旗は自分の古巣との妄想から覚めて欲しい。未練たらしい「父帰る」より、頭を切換えて「恩讐の彼方に」を目指してはどうか?
 誰も若ぶって喧嘩をする歳ではないし、外からは内輪もめにしか見えぬ立場表明は心底疲れます。だが愛想付かしの無視を暗黙の支持と勘違いする鈍感な王様は、誰かが裸だと言わねば目が覚めません。駿台で東大全共闘幹部や第二次ブント書記長の変節を批判した私が、身近で罪深い三上治の思想的欺瞞を座視はできない。勝手に何でもやって地獄へ堕ちてくれと言いたくなる気の重い作業ですが、行き掛かりから泥は神津がかぶります。

★島成郎の政治的沈黙と信義貫徹
C三上のホラ話とは異なり、名実ともに60年安保闘争を指導したブント書記長の島成郎が10月17日に死にました。著作を読み返すと、歴史的な安保闘争を推進した島成郎の政治的資質がよく分かります。「ブント私史」では島は大学入学の50年に共産党に入党し55年から党内闘争を持続し58年末にブントを創設。その後戦線拡大、事務量増加、党派闘争激化、逮捕者続出、闘争資金増大、カードル層払底の悪条件下で喘息を押して闘います。10年間積み上げた闘争に精根尽きた島は、安保後五大会での吊し上げ的な政治局批判の殺到に驚きますが、結局は愛想が尽きて何も方針を示さず退陣し自主的に政治的沈黙を続けます。
 吉本隆明は「沖縄タイムス」の追悼文で、安保後に旧ブント幹部の悪口を吉本が言うと、必ず反論して背景を説明し一貫してブント仲間を擁護した島は、谷川雁や武井昭夫と並ぶ「将たる器」だったと評価します(さすがに三上を将の器とは言いません)。だが島は行動せずして政治的言辞を述べぬとの信条から過去についての言及を避け、文化人と活動家を峻別し政治問題を内部決着する組織活動のイロハを守ったのではないでしょうか。

D吉本は独立左翼の理論と運動が安保ブントの成果と言うが、歴史の函数に過ぎぬ政治主張のかかる誇大視が不毛な安保後の党派闘争を生んだのではないか。島は文化人吉本に対してブント仲間を擁護したそうですが、ブント同志へは後に闘争中は対案を出さず邪魔をし後から批判する東大細胞への怒りや、ブントの誤りを坊主懺悔して革共同に移った戦旗派・プロ通派幹部への失望を述べます。だが当時は阿呆らしくて沈黙したのでしょう。
 三上が75年に叛旗派を離脱する際に、吉本は三上に個人表現の持続を勧めました。だが島を評価する吉本が、政治的にも文化的にも自立せぬ三上の今の二枚舌的処世を勧めたとは考えにくい。実際はブントの成果は島追悼会案内が言うように巨大な共産党組織と権威主義を相手に自前の組織を作リ上げた点であり、ブントを準備し殉じた組織信義の貫徹に対し、旧ブントの誰もが政治的沈黙後も島成郎に安保闘争の唯一人の見届け人の役割を与えたのでしょう。私とは経験も方向も別ですが、島の信義貫徹には学ぶところが大きい。

★それに引き換え三上は・・・・・

E60年安保は未曾有の大衆的政治行動ですが争点は日本の進路を巡る政治判断であり、闘争が終われば党派以外は各自の日常に戻りました。これに対し60年代末の全共闘は個人と社会の葛藤を争点とし、政治闘争は党派主導で武装攻防へ向かいます。全共闘や70年闘争の原動力は既存日常秩序拒否であり、この点で70年経験の方が政治談義が軸の60年安保より闘争幅が広く思想的にも重く、各自のその後の人生を思想的に左右しています。全共闘理念と運動を学生時代で終わらせず、継承・発展を目指したのが叛旗派だったのです。
 島が一〇年の組織活動の後に60年安保で燃え尽き、吉本が唯一の政治経験にこだわるのは当然でしょう。だが三上が18歳の時の60年安保体験を起点に、全共闘が正系で連合赤軍は異端だと断じるのは自己史を誇大視する歴史偽造です。実際は政治方針を巡る60年安保闘争と、全共闘運動を火薬庫とする70年闘争が思想的・歴史的に断絶しているのです。

F樺美智子・唐牛健太郎・生田浩二らの追悼辞を「ブント私史」に収め旧同志に届けた島成郎の死で、60年安保ブントは正味のところで終焉しました。また重信房子逮捕と米朝国交回復進捗で70年世代の抱えた思想的宿題も外側から剥離される筈です。来る21世紀の展望は若者が自前で切り開くべきであり、先世代は求めに応じた助力しか出来ません。
 既に60歳余の安保世代や50歳余の全共闘世代が21世紀の政治舞台に出張る根拠はないし、老人の願望の押し付けは若者には有害です。旧世代の我々は自分たちの経験に矜持を持ち、各自の糊口を凌ぎつつ、必要に迫られた課題を考え実践し相互扶助し、島成郎とは違う形で抱えてしまった仲間内の信義に誠実に対処すればよい。信義を捨てた三上は個人表現に転ずればよいので゛、相変わらずブントと吉本絡みで政治言語を売る図はみっともない。

G更に三上は武装闘争はやるべきでなかったとのベ平連的観点で塩見や重信や武装闘争派批判に熱心ですが、自分の過去史を偽造した世迷言です。叛旗派は武装闘争を巡って情況派と分裂し、三警官が死亡した71年三里塚闘争を頂点に数多くの被告を抱えました。また69年秋期決戦敗北後の閉塞情況下でハイジャックやアラブ赤軍は全共闘世代に大きな影響を与え、叛旗派もベ平連より武闘派に思想的に拮抗しつつ別の道を歩んだのです。
 政治表現は現場勝負で当時・その場で言えなかった主張の事後補完は卑怯だし、文化人が安全圏から活動家を断罪するのは醜い。自分で唯一主体的に関わった党派の始末も出来なかった三上に、ともかくも30年闘い続けてきたアラブ赤軍やよど号の連中に奴隷の言葉を吐くなと非難する資格があるでしょうか。むしろ三上は自らの活動家失格経緯と政治情報屋の実態を反省し、文化人を目指すならまず吉本思想の呪縛から自立すべきでしょう。

Hホラ吹き三上は自らの叛旗派逃亡経緯を偽造しいま政治的言葉の嘘を見抜く若者に期待するなどと能天気に語りますが、私は予備校講師の経験から今時のまともな若者は三上の大ウソを見抜くと確信します。太宰治が好きだと言う三上に1948年の太宰の文を送ります。
 「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです」(「かくめい」)

<注>トーンの違う文章で驚かれた人もいると思います。日記帳が工事中のままなので時事的文章を随想としました。上記内容は、ほぼ史料的事実に基づいています。
 説明不足のところや内容的疑問があれば掲示板にでも投稿下さい。資料の入手方法などは連絡いたします。
追加:「週刊文春11月30日号」に駿台予備校ジュニア失踪記事が出ています。参考まで。


                                            神津 拝


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