商品番号 |
KT8 |
商品名 |
野点茶碗 |
価格 |
45,000 |
寸法 |
径 10.5cm
高さ 7.5cm |
箱 |
合わせ箱 |
状態 |
良好 |
作者 |
(兵庫県芦屋 打出焼き) |
打出焼
打出焼の創始は斉藤幾太がその特有の粘りや土質の良さに着目して和田九十郎正隆や京都の陶工を招いて御庭焼の窯を築いたのが前身で、
明治42年(1909)には中川砂村指導のもと阪口庄蔵が打出春日町7(旧打出村字古敷23)の打出丘陵に登り窯を築いて独立、打出焼と称したのが始まりとされている。
作風は京焼系で阪口砂山(庄蔵)が手掛け、花入・菓子器・茶陶など、幅広く焼いている。
昭和12年阪口庄蔵死去にあたって阪口淳が二代目砂山を継ぎ、「陶芸趣味の会」を主催したりして昭和30年代までは阪神間の多くの人が参加した。
生徒も広く募集していたとの事で現在の陶芸家と同様の試みを始めていた様である。
しかし、窯場の周囲で宅地化が進み、陶土の採取も困難になり地元の土以外に、伊賀、信楽、京都等からも土を取り寄せるなどしたが、
昭和30年代後半からはその経営はおもわしくなかった様である。
昭和40年頃から製作を中止し病養に努め、打出焼は二代でその幕を閉じ、昭和48年春日町が土地区画整理事業の対象になり、打出窯も取り壊される。
その後、阪口淳は昭和53年6月逝去した。
阪口淳の次男の坂口孝は昭和23年京都市工業研究所に勤務すると共に、楠部弥弌氏に師事し、度々、日展入選を果たすなど父と同じ道を進んでいたにもかかわらず
打出焼三代目は継がなかった。
また、1933年7月与謝野鉄幹・晶子が、京都・四国・堺などの歌人と共に打出焼を訪ね、一同が歌の批評を行った後、打出焼の素焼きに与謝野夫妻が歌を記すという企画が催され、
与謝野夫妻の書いたお皿が来会者への贈り物となった。
兵庫の焼き物から引用