商品番号 |
KJ77 |
商品名 |
李白図 |
価格 |
200,000 |
寸法 |
本紙 幅 29.5cm
高さ 79cm |
総丈 幅 43cm
高さ 161.5cm |
軸先 |
象牙 |
箱 |
合わせ箱 |
状態 |
良好 |
作者 |
狩野 常信(略歴等末尾記載) |
狩野 常信(かのう つねのぶ)
寛永13年(1636年)から 正徳3年(1713年)
江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位,右近と称し,養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男・周信,別に浜町狩野を興した次男・岑信,さらにそれを継いだ甫信がいる。
1650年(慶安3年)父の尚信が没した後,15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年剃髪,養朴と号し家光にお目見え,後に家綱の御用を勤めた。狩野探幽にも画を学び,古来より狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが,意外にも狩野派内での地位が上がるのは遅い。叔父・狩野安信に疎んじられたからだと言われる。その間に和歌に興じ,徳川光圀の愛顧を得,幕末に著された「古画備考」には多くの歌が収録されている。また,探幽同様に古画の学習に努め,後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え,粉本・画稿を残した。そうした甲斐があってか,天和2年(1682年)二十人扶持を拝領,宝永元年(1704年)に法眼,同6年(1709年)には法印に叙し,翌年には二百石を加増された。
狩野派,特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方,晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり,以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。
代表作
・屏風
中国故事人物図(富山・瑞龍寺),山水図(弘前市立博物館),四季耕作図(致道博物館),四季花鳥図[1][2](板橋区立美術館),四季花鳥図(京都・知恩院),鳳凰図[3][4](東京藝術大学大学美術館),唐獅子図(三の丸尚蔵館),糸桜図(三の丸尚蔵館),桜楓図御簾(出光美術館),高士囲碁喫茶図(大分市美術館),松鶴図(個人蔵),波涛・花鳥図(静岡県立美術館),
・絵巻物・画帖
三十六歌仙図画帖(斎宮歴史博物館),瀟湘八景図帖(陽明文庫),瀟湘八景図巻(金沢市立中村記念美術館),四季耕作図巻 (ホノルル美術館)
・掛軸
唐人物図(高知・土佐山内家宝物資料館),柳沢吉保像(山梨・一蓮寺、常光寺、個人蔵)