商品の詳細

商品番号 KJ109
商品名 観音図
価格 売却済み
寸法 本紙 幅   21cm
    高さ  61.5cm
総丈 幅   24.5cm
    高さ 131.5cm
軸先 溜塗
あわせ箱
状態 良好
作者 難波 覃庵(略歴等末尾記載)


難波家は1582年(天正10年)羽柴秀吉による備中高松城水攻めの際,城主清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする。伝兵衛宗忠は宗治の実弟であるが,難波家はその血のつながりを超え,清水家の家臣として忠勤に励み,高松城以来の主従関係は連綿として絶えることなく明治にまで及んでいる。
 覃庵は,難波家11代の後裔に当たり,伝兵衛惟道の長男として立野村に生まれ,幼名を正太郎,また恒次郎といった。長じて伝兵衛を称し,諱は周政,字を以西といい,七渓・楽如・更狂・覃庵などと号した。8歳のとき父を失い,母の手厚い薫陶によって育てられた。
 覃庵は,三丘宍戸家の徳修館に学んで英才の誉れ高く,1825年(文政8年)15歳にして主家清水元周の命により,世子親春の相伴役となり,以後清水家にあって取次役,世話役として主要な役目を果たすこととなった。
 1834年(天保5年)立野に牧馬場を開き,1858年(安政5年)には樟脳製造所を設けて,主家の財政を助けまた,1862年(文久2年)自宅立野に私塾養義会場を開き,翌年4月領主清水親春の命により,立野長徳寺境内に墓義場を開設してその主宰となり,文学,西洋銃陣・槍術・弓術などにより青年子弟を教育した。
 同年,藩主毛利敬親の密使を受けて,周布政之助と江戸・京都の間に奔走し,このころから諸国の志士との交際が頻繁となった。
 1866年(慶応2年)6月の四境戦争に際しては,第二奇兵隊の総督である親春を補佐し,清水家の家兵を指揮して大島郡占領中の幕府軍を撃退した。また,立野において主家の経営を援けるとともに,正義霊社を立てて主家の霊を祭り,年ごとに祭事を怠らなかった。
 維新後立野の自宅に帰り,詩歌や絵画に余生を楽しむ傍ら,自家収集の書籍に清水家の蔵書を加え,向山文庫を設けて一般に公開した。
 絵画や書においては,もちろん天性の資質を認めざるを得ないが,竹田,米芾,唐伯虎ら先人の画法に学んだ臨画の作品も見られ,60歳代の前半は技巧習得の時期と思われるが,間もなく円熟,70歳をすぎ晩年にいたるにしたがって技巧を離れて人格そのままに恬淡として,とらわれず,てらわず,絵の本質を目指している。白描に近い作品もあるが,骨格と画格の高さは,画家を超えた画家といわれるゆえんで,南画の真髄を貫かれたものといえる。
 山水画が特に多いが,花鳥画も残っており,優れた筆法や表現の確かさが見られる。また,進んで色彩を用いることも試みられ,進取の気性歴然たるものが見られる。立野の屋敷を訪れる文人画家も相当あって,若い時から親しくしていた森寛斎なども寄寓し,色紙や画稿をおいて行った事実もある。
 1888年(明治21年)1月24日78歳をもって立野に没し,1912年(明治45年)2月,正5位を追贈された。

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