商品番号 |
KJ115 |
商品名 |
六字名号 |
価格 |
70,000 |
寸法 |
本紙 幅 34cm
高さ 130.5cm |
総丈 幅 56cm
高さ 185.5cm |
軸先 |
金軸先 |
箱 |
合わせ箱 |
状態 |
良好 |
作者 |
周湛(略歴等末尾記載) |
即真 周湛(そくしん しゅうたん)
天台宗の僧。延暦寺管長。天台座主。大僧正。岐阜県生。昭和46年(1971)寂、82才。
天台座主
天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。
ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。
天長元年(824年)に義真が初めて天台座主を称した。
2世圓澄までは延暦寺内の私称であったが、3世の圓仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871年)まで続いた。
1人で複数回任命されることも多く、慈円・尊圓法親王などは4度、天台座主に就いている。
中世になると、摂家門跡、宮門跡の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮院・三千院(天台三門跡)から法親王が天台座主として就任することが多くなった。
また、室町時代には足利将軍家からも出ている。
天台座主となった後に還俗し、将軍となった例として、尊雲法親王(還俗して護良親王)や、義圓(還俗して足利義教)などがある。
元亀2年(1571年)、正親町天皇の皇弟である覚恕法親王が織田信長による比叡山焼討ちにより甲斐へと追われ、武田信玄より保護を受けた。
江戸時代になると、幕府によって東国の天台宗の大寺院として日光の日光山輪王寺と上野の東叡山寛永寺(開山は天海)が建立されて、
輪王寺は宮門跡とされ(輪王寺宮、日光門跡)、明暦2年(1656年)以降は、輪王寺宮は日光山と東叡山の門跡を兼務し、天台座主にも就任し、三山管領宮と呼ばれた。
これは、輪王寺宮が天台座主にも就任した意であり、三職を兼務するという意味でない。
例えば、江戸時代、尭延法親王は妙法院門跡から、尊融入道親王は青蓮院門跡から、昌仁法親王は梶井門跡から天台座主に就任した。
また、公現入道親王は天台座主職にはなかった。
明治4年(1871年)をもって太政官による任命は廃止され、天台座主そのものも無くなったが、天台宗内外に復活を望む声は多く、明治17年(1885年)より再び私称として復活した。
現在の天台座主は、256世の半田孝淳。歴代の座主の補任記録、修法、行事、事件の記録などは「天台座主記」に残されている。
天台座主への道は、坂本の東南寺で毎年行われている戸津説法の説法師を勤めることで開かれる。
説法師は山家会と天台会において問者と講師を勤め、長講会の五役(講師、問者、散華師、唄師、執事。ただし延暦寺一山以外の僧は二役)を勤めた者の中から選ばれる。
戸津説法の説法師を勤めると望擬講となり、その中から選挙で擬講が選ばれる。
擬講は已講の代理として法華大会中日に広学竪義の問者を一昼夜だけ勤める。4年後の別請竪義で講師を勤めると已講となり、法華大会において広学竪義の問者を勤めることになる。
次の法華大会で探題となり、座主が空位となった時に探題の経歴が長い者が座主となる。[1]
ウィキペディアを引用