商品の詳細

商品番号 KJ133
商品名 福禄寿星図
価格 250,000
寸法 本紙 幅   41cm
    高さ 112cm
総丈 幅   53cm
    高さ 198cm
軸先 骨材
二重箱
状態 やや染みあり
作者 池上 秀畝 (略歴等末尾記載)

総丈

本紙

人と鶴

鶴

銘

軸先

ふたの表

ふたの裏

箱

感謝状


池上 秀畝(いけがみ  しゅうほ)
1874年10月10日 - 1944年5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。

長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。 本名は國三郎。
祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。
父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。
のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。

明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。
瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり文人画を学ぶ。
明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。
同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。

1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る。
1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査となる。
1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した。
晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦のさなか狭心症で70歳で没する。
戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。
昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。

代表作 [編集]
初冬 (東京国立近代美術館) 六曲一双 紙本著色 第4回文展三等賞
秋晴 (三の丸尚蔵館) 六曲一双 絹本著色 第9回文展ニ等賞
夕月 (東京国立近代美術館) 六曲一双 紙本著色 第10回文展特選第二席
峻嶺雨後 (目黒雅叙園) 六曲一双 絹本著色 第11回文展特選第七席
四季花鳥 (長野県信濃美術館) 四幅対 紙本著色 第12回文展特選第五席
雨中竹屏風 (佐久市立近代美術館) 四曲一双 紙本著色
巨浪群鵜図屏風(松岡美術館)


ウィキペディアを引用

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