大庭学僊(おおば がくせん)
文政3年(1820)に徳山の刀工三好興次兵衛の次男として生まれる。
三好家(明治以降は三吉と書す)は,安芸の出身で興次兵衛の代に徳山に移り住む。
百合吉と名づけられた学僊は,11歳で徳山藩の絵師朝倉南陵に学んで南江と号した。
15歳の時には,谷文晁の門人と称す原文暉なる人に師事し,18歳となって,京に上り小田海僊の門に入る。
海僊からはその才能を見込まれ,30歳ごろに養子となったが,後にこれを辞し徳山に帰る。
さらに萩に居を移して,洞春寺の寺僧大庭氏の名跡を譲り受け,大庭学僊と称するようになる。
萩時代の作品には,山水,花鳥,人物,真景,それに肖像などあらゆる画題があり,さらに絵馬も多く残され,町家の有力者や庶民の依頼によって活発な制作活動を行っていった。
明治維新後,活動の舞台を東京に求め,明治5年53歳のときに上京する。
明治10年,14年の内国勧業博覧会に出品し,後者では褒章を受け,次第に頭角を現していく。そして経験と画才を認められて博物局供議人となり,明治15年と17年の内国絵画共進会では審査官を務め,17年の共進会では銀賞を受賞している。
こうして,学僊は明治前期の東京画壇で重要な位置を占め,明治新宮殿(明治21年10月竣工)の杉戸絵制作に参加する。
この杉戸絵制作には,学僊のほか柴田是真や川端玉章,荒木寛敏ら,当時の日本画壇を代表する27名が選ばれている。
その後も,内国勧業博覧会や日本美術協会展で受賞を重ね,また明治27年には,ベルギーのアントワープで開催された万国博覧会で銀牌を受賞するなど,明治日本画の大家として活躍したが,明治30年(1897年)に長府そして下関へと居を移し,明治32年に80歳でこの世を去った。
学僊の娘美津は高島北海に嫁して明治30年から長府に居住しており,最晩年は北海一家に見守られて過ごしたと思われる。
江戸期の学僊は,師の小田海僊のたどった四条派から南画のコースとは逆に,南画から四条派,そして浮世絵を含めた諸派を学び,依頼に応じて適宜各派の長ずるものを使い分けた。
諸派を折衷するような作風から,明治となって,南北合法を標榜するようになる。
学僊の淡白な色彩と温和な筆線は,感覚的な領域にあって清高な品格を備え,動乱の幕末と変革の明治前期を絵筆一本で生き抜いた気骨の画人といえよう。
学僊は晩年,狂歌と戯画の世界に遊んだが,そのことが市井の垢にまみれながら,高踏的精神を保とうとした彼の気骨を示しているだろう。