ホームへ戻る

信心の広場
四十五号 平成十四年九月

教会長講話から

   伏見教会長 橋本 真雄  

 平成十三年天地金乃神大祭教話 天地のことは、人の眼をもってしりて知りがたきものぞ、おそるべしおそるべし

 私は今日まで思いもかけず八十歳近くまで命を頂いてまいりまして、いろいろなことを思います。長生きをして良かったなと思う反面、なかなかしんどいものだなというのも実感です。階段を上がるのもトントントンというわけにはまいりません。途中で休んでまた上がるというような状態ですから、ある意味でお話もとぎれとぎれになる時もあります。しかし、私もいろいろ先輩達から教えられたことお伝えしていく義務がございます。そういうことでお話をさせて頂きたいと思います。
 私がお道の教師になりましたのは、昭和二十二年の秋ですから、戦争が終わった翌々年です。物資の無い時でした。金光教学院の生活も窮屈なものでした。食べるものが無いものですから当時の若い人は、しょっちゅう腹をへらしておりまして、寝ていても食べるものの夢を見ることが多かったようです。
 そういう中で私が問題にした事が二つございました。ひとつは満州から帰国してきた時のことです。もう一ヶ月程満州の国境に残っておりましたら、ロシアの軍隊と衝突して、私の所属していた部隊は全滅していました。その前に、私は六月の終わりにアメリカ軍と本土決戦をするために内地(当時は、日本の本土をこう言いました)に帰ってまいりました。そして毎日のように掩壕で、上陸してくるアメリカの軍隊と戦闘するための訓練をいたしておりました。結果的には終戦になって帰ってきたために、命拾いをしたので、皆は運が良かったねとか、喜んでくれました。
 ところが一人だけ金沢一雄という信者の方で、京大の助教授で(後に原子力委員になった人)その方が青年会の集まりの後でお話をなさって、その後で、ひとりひとりにおかげをいただいた話をせよということでありました。そうして「橋本さん、あなたはおかげを頂いて帰ってこられて、命を助けられたけれども、あなたといっしょに陣地へ行って、戦死した人はどうなりましたか」と言われました。私が小隊長をしていた部隊は、ソ連の戦車部隊の攻撃を受けて全滅しました。そのことをどう思いますか、と聞かれました。おかげを頂いた、助かったというそれだけでは足りませんよ、人間として、もうひとつたりませんよ、と言われました。あなたのかわりに前線へ出なければ、その人は生きて帰ってきたかもしれないと言われました。あなたのかわりに陣地へ行って、戦死した人のことなど、全く考えもしなかった。皆回りの人が運が良かった、おかげ頂いたなと言われると、その気になってしまった。なおかつ、そういう問題意識をもたなかったのです。そう言われたことで、私は調子に乗ってはいけないのだと、反面そういった重みをもっている。それを教えられたわけです。信心している者はもう一つの片面を見ていくというか、ひとところだけを見ておってはいけない、大事なところを気づかされた。それがひとつです。
 もうひとつは、高橋一郎という学院生時代の先生に、学院で宗教哲学を教えてもらいました。教材に、浄土真宗の仏教の本を通して、生神金光大神のありかたを教えてくださいました。天地金乃神様は天地をまる生かしに生かしてくださる、日々生かしてくださっている、いのちを与えてくださる、そういうありがたい神様だとみな思っている。それに違いはないが。例えば天災地変に遭って人が死んだりする。これはいったい何の働きだろうか、天地金乃神のはたらきでは無いにしても、天地の働きには違いない。天地の働きと天地金乃神は同じだろうか、という問題を高橋先生から突きつけられたのです。
  これは、逃げ道はあるわけです。地震災害天災とかは、天地がこの人を殺そうと思ったものではない、これは自然の現象なんだ、とそこにいる人間を目指して災害が起こったわけではない。これは、その疑問に対する逃げ道なんです。しかし、天地一切が神の働きである、神とは人間を助けるものである、では天地一切が人間を助けるものではないのか、という三段論法でいきますと、天災というものは神様と矛盾するのであります。これが二つ目の問題でありました。未だに解決はしない、いつも問題が起こる、いつも事件が起こる度に、そのことを思い出します。それでは、信心は何のためにするのか、というところに至るのです。天地とは一体何者か、この問題に突き当たるわけです。
 もちろん、それを悩んだり、嘆いたり、人生を暗く考えたり思ったりはしません。ありがたいと思います。八十歳近くまで命を頂いているということは、私にとって実にありがたいと思っています。しかし、ありがたいという反面、それだけで喜んでいていいのか、有頂天になっていていいのか、というところに私の信心の出発点がありまして、それから五十年を越えました。
 いろいろな勉強をし、また長年教えてもらいながら、あるいは読ませてもらながら、最近は、これから先のことを考えるようになります。もう、あと何年とも生きられませんけれどもこれから先、生きていく人はどういう問題を抱えていくだろうかと思いますね、私の抱えてる問題は、とうに解決しておるかもしれません。しかし、新たに私の今感じていることは、やはりこれも二つあります。ひとつは世界の情勢であります。殊に各地で暴動や内乱が起こっております。その背景にあるのがアメリカという強い国家です。それともうひとつはロシアとか中国とかいう「国家」というものです。その国に住んでいる、ひとりひとりはみないい人です。喜びも悲しみもかかえながら、われわれと同じよういに生活をしいおるのです。けれども、ひとたび「国家」ということになれば、別ものなのであります。「国家」とは、巨大な化け物にもなるので一体何だろうかと思うわけです。その化け物が暴れ出すことが、もうないのかどうか。金光教の百年余りの歴史の間にも、二回の大きな大戦と、その間にいろんな紛争や内乱を経験してきています。まさに、「国家」という化け物が暴れているわけです。この妖怪をどうして鎮めるのか。これは今の私の問題意識であります。
 それと、もうひとつは、その化け物とも関係があるのですが、自然科学と言いますか「サイエンス」というもののもっている力です。ここ何ヶ月か毎日新聞に「神への挑戦」という連載の特集があります。生命科学では、生命を科学的に分析していくわけです。そこでは生命というものを、物質として捉えております。生命は一体どういうしくみになっておるか、人間だけでなく、あらゆる生命あるものが、どうしてどういうことから産まれてきたのか、そしてこれから先どうなっていくかという、科学の道程といいますか、研究の成果が発表されていきます。究極までいきますと、人間そのものが、どういう仕組みになっているかというこが、全部といっていいほどデータとしては解釈解明できるというのです。人ゲノムといいまして、細胞の中に遺伝子として、先祖代々というか、最初に宇宙に生き物が生まれた時以来のプログラム、つまり設計図がどの人の細胞の中にも含まれているのだそうです。その「装置」を世界中の科学者が解読しようとしているわけです。その人の解読した細胞は、商業化できるわけです。つまり売るわけです。まさに、命を売るのです。細胞のどの部分をどうすれば病気が治るか、あるいは又ひとつの細胞から人間の複製を造るという、可能性としては、そういうものができるような現代科学の力です。
 それが、人間を幸せにできるものならいいけれど、不幸せなことに使われるのであればこれは大変なことになります。それを商業ベースに載せることで、人間はなんでもやります。楽して生活ができるのであればと、皆それをやる。しかし、ある人は幸せになることが出来ても、ある人は不幸せになっていくのではないか、そこが解決しなかったら、非常に心配です。それはありもしないことだと思っていたのに、現実にできてくるわけです。クローン牛、クローンにわとり。極端に言えば、ある人の細胞の中に特殊な操作をして、肝臓や腎臓を作る。それを内臓の悪い人に移す。拒否反応なしに使えますと言うものの、それは命ではなく、部品です。そんな時代になった。おかしな世界ですが、そういう世界になっていくのです。
 これは、どこかで方向転換をできないのでしょうか。そういうところを、もっとプロの人が考えてもらわなければいけない、と思います。ご祈念をさせていただいている中身に、少しばかりそういうようなことが入るわけです。これがご祈念の中心ではありませんが、どうぞ科学というものが、人間にとって幸せなものでありますように、お導きくださいという祈りです。私が死んでから後のことでも心配になります。天地のことは人の眼をもって知りて知りがたし、天地は人間の能力ではわからないものばかりだ、と思うこともできます。いや、知ることは知っても、本当のことはわからない、幸せになるか、不幸せになるか。人間の肉眼で分かる程度のことは、たかが知れています。ゲノムであろうが原子力・中性子であろうが、それが人間にとって幸せであるものかどうかはそれらの科学を取り扱う人、人間の心のあり方次第であります。
 さて、教祖様の時代、教祖様の問題関心は金神信仰でした、それまで生活の中に生きて働きをしていたのは金神です。金神は陰陽道から生まれてきた神で、そのころの流行神です。それが、教祖様の信仰のバックボーンになっています。教祖様は、金神の祟り障りという呪縛にかかっていた人間の心を、じっと見ていなさるわけです。それを解き放すには、どうしたらいいのか、手っ取り早くは金神を殺してしまえばよいのですが、殺しても八百八金神ですから次から次へと金神が生まれてくる、そういう立ち向かうような、相手をやっつけるようなやりかたでは助からないのです。そういう呪縛の中で、内側から金神自身がその呪縛をうち破るというか、その金神の心を解き放すことができたのは、最後には金神様が、教祖様の純粋さというものに負けた、というか、一つの思いこみから解き放たれたということです。「神も助かり…」という言葉の中には、神様が教祖様と出会って、呪縛から解き放されて、神様が助かったというのです。それまで神様も苦しんでいた、悩んでいた、そういう経験をしてきておられるのです。
 ひるがえって、今日の科学の呪縛、あるいは国家権力の呪縛から人間を解き放すには、どうすればよいのでしょう。科学が作り出した技術、その技術が作り出した世界、その中で、その世界みずからがあやまちに気づいていく、そのためのひとつのテクニックが信心という方程式であります。信心をもってときほぐしていく、その手本を教祖様は示してくださっているのです。このお道の信心は、ひとつには、そのためにすると言ってもよいのではないでしょうか。皆さん方の、子や孫が科学的な呪縛、国家権力の呪縛に苦しめられて、幸せになりようがないという嘆きの人生を送ってしまったら、かわいそうですね。それを、なんとかおかげをいただかねばならない、とこう思っている、祈っているのが現在の私です。

  南部教会連合会信徒部主催

  対話のつどい発表 八月二十五日 発表 T・K氏 

 私が金光教にご縁を頂きましたのは、母の木村八重の親にあたる、坂本さとからで、この祖母が、六地蔵の畑町にありました松井フサという方が開いておられた金光教のお広前にお参りしていたということです。
 母の木村八重は、学校を卒業すると、京都電話局に電話交換手として就職しました。電話交換手というのは、当時の職業婦人の花形であったそうですが、大変きびしい仕事でありましたので、身体をこわして休業することになりました。その時、伏見教会の信者で松田千賀という人に誘われて参拝してお取次をいただきました。その後に、伏見教会の信徒総代になられた熱心なご信者の園源治郎さんから、「毎日お参りするだけでなく、教会のお便所のお掃除をさせてもらいなさい。病気のおかげがいただけます」と、教えてくださいました。母はその言葉通りのおかげを受けました。対象三年二月には、父の木村義信と結婚させていただきました。
 次に、私のことについて、母が後に話してくれましたおかげを受けたお話を、させていただきます。
 私が五歳の時の八月十二日のことです。昔はどこの家でもよく見かけました石造りの手洗い鉢がございまして、どういう拍子かよく分かりませんが、その大きな石臼のような鉢が子どもの私の上に倒れかかりました。そして、その下敷きになった私を助けようと、母が必死になって石の手水鉢を起こそうとしますが、女手のことで、ビクとも動きません。母は私を助けたい親心の一心で「金光様、金光様」と念じながら、力の限り石鉢を動かしますと、不思議にも動いて、わずかな隙間が出来、その下から私を引きずり出してくれました。私はこの母の一心で、命拾いのおかげを頂きました。今では、私も三人の子どもを育て、孫までも恵まれましたが、この時、母の驚きの中から、神様を一心に念じて子どもを助けてくださったのです。教祖様のお言葉の中に「女の一心、岩をも通す」とおおせられた、その通りの「おかげ」のありがたさが、心の心底からわかせていただき、その日が来ますと、母の真一心の信心と、神様のおかげへのご恩返しがなかなか出来ませんが、御礼のお届けをさせていただいています。
 戦争が終わって、母は昭和二十四年に、入信五十年と結婚二十五年のお礼のお祭りをさせていただき、その後も元気で朝まいりの日参を続けました。そして教会から帰ると、掃除道具を持って、観月橋の駅前から自宅までの歩道の清掃を毎日のように続けていました。それは、母のせめてもの天地の親神様への御礼の奉仕であったと思います。
 母は、昭和六十三年の十二月三十一日に八十九歳でお国変わりさせていただきました。

 全教勢をそろえて社会奉仕の日   七月二十一日    

 今年は神徳会では、全教勢をそろえて社会奉仕の日の活動として、東近畿教務センターで行われた、平和集会に参加しました。
 当日は、八時から教会の清掃を行い、そのあとセンターへ行きました。
 平和集会では開会セレモニーが行われ、伏見教会の舞人橋本美子さんと安永明代さんが、奉納舞を行いました。楽の方でも橋本綾子先生、梶井雅光さんが奉仕をしました。教区の青年代表等が献花をして、集会が始まりました。
 バザーではセンターの一階に本当にいろいろなものが、所狭しと並べられ、目当ての品を探すのも大変でしたが、みな沢山購入していました。この、収益金はすべて、地雷撤去の為の活動に寄付され、五万円余りあったそうです。
 そのあと、天台宗のお坊さんで、滋賀県在住のサンガラトナ・法天・マナケ氏からインドにおけるNGO活動ついて、流暢な日本語でのお話を聞きました。先進国と他の国々がいつまでも援助をする側、される側という関係では、どちらにもよいはずがない、というお話で、「私達が平和のために、世界のために最初にしなければならないのは、贅沢で物を粗末に扱う自分の生活を見直すことだ」と、まさに目から鱗が落ちるようなお話でした。同時に、前教主の「世話になるすべてに礼をいふこころ平和生み出すこころといはん」というお歌を思い返すこととなりました。
 その間、子供はTシャツ作りを楽しみ、みな思い思いの絵を描いて、世界に一つしかない自分のシャツに、さっそく着替えていました。
 昼食後、子供達は親子のつどいの参加者として、市内をウォークラリーして、梅小路蒸気機関車館見学する、楽しい一日を過ごしました。
 なお、皆さんにバザーへの出品をお願いしたところ、たくさんの品物が寄せられました。当日売れ残った品物も、福祉施設へバザー用品として寄付され、大変喜ばれたそうです。

 野外研修会開催  九月十五日  

 神徳会行事で恒例となっている野外研修会を行いました。滋賀県の信楽にある、教会の常設野営場でバーベキューをするのですが、今回はボーイスカウトとその、保護者も対象にしたので、総勢四十名の大人数になりました。マイクロバス一台をチャーターしましたが、全員は乗り切れないので、さらに三台の自家用車に分乗しての出発となりました。
 数年前に連合会から預かったままの鉄板を磨き直して、また西野信義さんが、ドラム缶を利用したかまどを提供して下さったので、大変都合よくいきました。焼きそばと沢山のお肉を頂いて、お腹がいっぱいになりました。
 食後に、大人は霊祭で使う榊を探しに行き、ました。あちこち苦労して探した甲斐あって、ちょうどよいくらいの枝を持って帰ることができました。ボーイスカウトと、カブスカウトは、この日がスカウトデーという社会奉仕の日に当たっていたことから、町の美化運動に出発しました。ペットボトルや空き缶をたくさん集めて来る頃が出来ました。低学年のビーバースカウトと幼児参加者は、水が少なくなった川でしたが、石の下をひっくりかえしながら、カニを捕ったり、ダムを造ったりして遊びました。途中でまむしに遭遇し、びっくりしましたが、保護者の方がみつけてくださり、何事もなく安心しました。
 町の中ではなかなか忘れてしまっているような、天地の神様のお働きを身近に感じて、一同無事に帰り着きました。

  実りの秋の発見      橋本 美智雄  

 今年の春、子供達がいろいろな種を植えるというので、勉強につきあわせてもらいました。
 種の中には稲もあり、幾粒か小さな鉢に撒きました。ひょろひょろとした芽が出て、面白半分にバケツに土を入れて一株植え、二回の屋根の上に置きました。その苗がぐんぐんと育ち始めると、なんとまあ水の要ること、要ること、二日に一回小さなバケツ一杯の水を吸い上げるのです。うっかりしていて、何度も干上がる直前になっていました。
 夏の盛り、田圃に水が満々とたたえられた状態を、いつも目にしていましたが、あの水は飾りではないということに、やっと気が付きました。たった一粒一株でさえバケツ何杯もの水を吸い上げるのですから、田圃の稲はいったいどれほどの水を吸い上げていることでしょう。日の光もさることながら、豊富な水の恵み無しにはお米を口にすることなど決してないのだと思い知らされました。大した肥料をやったわけでもなく、また私のずぼらが原因の干ばつにも関わらず、屋根の上の稲の穂は、今、頭を垂れるような実りの秋を迎えています。
 一粒万倍という教祖様の教え通り、たった一粒の稲粒から、本当に沢山のお米ができそうです。ちょっと子供の勉強につきあって、万倍の天地の道理を教えられた出来事です。 

 伏見教会 今後の行事

十月 六日  (団体の申し込みは締め切りました) 本部生神金光大神大祭団体参拝

十一月三日 午後一時三十分から 生神金光大神大祭 執行

十一月十七日 午前九時半からの教会清掃後 清水信奉者墓地墓前祭 執行

十一月二十二日 正午出発 難波親教会生神金光大神大祭参拝

十二月七、八日 本部布教功労者報徳祭 一泊バス参拝

十二月三十一日 午前十時から 越 年 祭 執行 ○年末に餅つきを行います。 日にちはまだ未定ですが、ご奉仕いただける大人の方、またお子さんの参加も募集しています。

  教団新内局が発足しました

 教団の御用をしてくださる、教務総長以下の人事が、九月十八日付けで、次の通り交代されました。

 教務総長 鈴木 甫 先生

 総務部長 久保田紘二先生

 育成部長兼教会部長 松沢光明先生

 布教部長 藤井 潔先生

 財務部長 塚本憲正先生

 これまで、東近畿教務センターの所長をしてくださった、松沢先生が入局されています。それだけで、私達にとっても、少し身近な感じがします。