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「心配は神様に任せて」

伏見教会長 橋本美智雄   令和2年5月

 緊急事態宣言が出される中、御本部での御祭典に習って、伏見教会の天地金乃神大祭は、皆様に遙拝をお願いして執行する事になりました。こうした、常ではない時には本当に大切なことは何かを考える機会かと思います。

 例えば、御本部参拝について、何故私たちは御本部へ参拝するのだろうかと考えてみます。教祖様は近藤藤守先生に「遠い所を入費を使うて大谷まで参詣するにおよばぬ。天地金乃神はどこのいずくにもござるのじゃから、どこから頼んでもおかげはこうむれます。余計な入費を使うて参らんでも、うちから頼みなされ」と、旅費を使って何度も大谷まで参拝してくることをたしなめておられるようです。そして、ある時教祖夫人のとせ様からも同様に言われて、「金光様とあなた様を両親様のお顔を見るように思い、これを夫婦が楽しんで、毎月、また月に二度と参詣いたします」と返答しておられます。藤守先生の参拝理由は非常に具体的でありますが、いわば個人的な理由にもとづくものでしたから、私たちが同じように答えることはできません。私たちが何故「世界中どこにでもおられる神様」に対して、「旅費を使って」御本部参拝をするのか、それぞれ自分にとっての意味を考えてみなければならないと思います。

 さて、話は変わりますが、先日新型コロナウイルスに感染して亡くなられた、志村けんさんの往年のギャグに「だいじょうぶだぁ」というのがありました。コントの中でとても大丈夫じゃないような状況にあって「だいじょうぶだぁ」と、訛ながら言うことが面白かったのだと思います。

この「大丈夫」と言う言葉は、不思議な力があると思います。「大丈夫、大丈夫」と唱えていると、実際に心が落ち着くものです。東北大震災の時に、津波被害の瓦礫の山から自衛隊員に救出された老いた男性が、「大丈夫だ、チリの津波の時もこんな所から復興してきたのだから」としっかりした声で言って、逆に周りの人を励ましておられるのをテレビで見て、すごいなあと思ったのを覚えています。チリ津波は昭和三十五年に起きたチリの地震が原因で、東北の沿岸に津波の大きな被害をもたらしました。皆が「もう駄目だ」と言いたくなるような状況下で、この人が「大丈夫」と言ってのけられたのは、ご自身の実体験を持っておられたからだと思います。志村けんさんのギャグも元は東北の訛をまねしたものだと言われています。そうしてみると、大きな自然災害に遭うたびに「大丈夫だぁ」と言って、生き抜いてきた方々の重みがあるように思えてきます。

そんな状況とは比べようもないですが、ボーイスカウト活動をしていたおかげで、私も同じ年代の人と比べて、何かと「大丈夫」と思えるような気がします。真っ暗な中をハイキングしたり、雨の中で炊事をしたり、辛かったりしんどかったことを思うと、まあこの程度なら「だいじょうぶだぁ」と言えるような、心の強さみたいなものを教えてもらったように思います。例えば、中学生の時に単独キャンプと言って、キャンプ期間中に一人用テントで一晩一人で過ごすという訓練があります。何とか逃げられないかと思いましたが、順番が来て行かねばならなくなった時に、家で持たされた御神米を身近において「金光様、金光様」と言いながら、就寝についたのを覚えています。最後は神様に頼るしかないと思ったのが本音ですが、頼れる神様が決まっていると言うことに、とても安心感があったのも覚えています。寝てしまえば何でもないことで翌朝には「大丈夫だ」と胸を張って戻りました。

また、金光教の学生会の地方大会では、熊本で開催した会場から十数人が博多まで夜行バスで戻る計画をして、高速バス停へ行った時のことです。最終便に乗れると思っていたのに、バスは満員でドアも開けてくれずに「満員通過します」と言われてしまいました。「えー!立ってでもいいから乗せてください」と叫んだものの、高速バスですからそれは無理でした。無情に通り過ぎたバスを見送りながら「これから、どうする」と、皆が途方に暮れる中で、一人が「坪井教会なら泊めてくれるかも知れない」と言い出して、急遽電話ボックスから電話をしました。最終バスの出る時間ですから、ほぼ深夜ですが、タクシー数台に分乗して教会へ向かいました。教会長はもう寝間着姿でしたが歓迎してくれて「せっかく来たのだから、まあ一杯やれ」と焼酎を湯飲みで出された所まで覚えています。その後の記憶は全く無く、気が付けば朝で、教会の客間に布団を敷いてもらって、二日酔いで寝ていました。夜中の電話で十数名の学生が急に泊めてくださいと言って受け入れてくださったことは、今にして思うと、恥ずかしいのと、申し訳ないのと、そして金光教の教会とは何とありがたいものかと思わされます。

こうして見ると、私の「だいじょうぶだぁ」の経験は、結局のところ神様と教会とに支えられていることに気が付きます。この度の新型コロナウイルスによる状況の変化、経済的なダメージなど、感染終息が迎えられたとしても、どうなるのだろうかと心配をし出したら恐ろしくなるばかりです。教祖様は「心配する心で信心せよ」とも「心配は神様に任せて信心せよ」とも教えて下さっています。コントの様に無責任に「だいじょうぶだぁ」とは言えませんが、神様はいつも見守って下さることを忘れないで、この度の祭典は遙拝をお願いしましたが、天地の神様は世界中どこにでもおられて、お願いすればおかげを下さいます。そして教会の門はいつも通り開いており、参拝は常と変わりません。お道にご縁をいただいてる私たちは、こういう時こそしっかりと神様に縋らせてもらい、心を強く持って、ここからの生活に励まさせていただきたいと思います。そして、不安を抱える人たちに「大丈夫、大丈夫」と言ってあげられる側でありたいと思います。

 

 

 

「真の信心無き者は、神が箕()でさびるぞ」

伏見教会長 橋本美智雄  令和2年3月号

 

これは、昨年甘木教会の布教百十五年記念祭で御挨拶に立たれた、小倉教会の桂亮子先生が引用されていた小倉教会初代夫人の桂ミツ先生のお言葉です。小倉教会は甘木教会の親教会になります。箕()とは、竹で編んだざるのような道具で、稲の籾殻と米とをより分ける時に、これを使って籾殻だけを風で吹き飛ばして、お米を箕の中に残すというものです。「さびる」というのは、「より分ける」という意味ですが、むしろ「できの悪い者を振り払う」というようなニュアンスがあるようです。ですから、ぼんやりと信心している者にとっては、大変厳しい、恐ろしい言葉です。桂亮子先生は御挨拶の中で「記念祭というのは、まことにおめでたく、ありがたいものでありますが、同時に非常に恐ろしいものです」とお話しになって、その後でこの「真の信心無き者は、神がみでさびるぞ」と仰りました。

記念祭というのは、おめでたい、ありがたいお年柄なのですが、それと同時に神様がけじめを付けられる年であるから、しっかり信心させていただきなさいということを仰ったのです。確かに記念祭というのは、めでたさに浮かれてばかりでは仕えられません。びっくりしたり、驚いたりでは済まされない大切なことが、起きてくるものだと実感させられます。伏見教会百三十年記念祭の年には、母が亡くなり、長男が入籍するなど予定外のことが、次々起きてきました。

実は甘木の記念祭当日には「みでさびる」という言葉は、聞き慣れない言葉だったので、何とおっしゃったのだろうかと思っていました。九州の先生だから九州の方言だろうか、小倉教会のある地方の言葉だろうかと思って、本当の言葉を知りたいなと願っておりました。そうしたところ、今年一月二十五日の近藤守道先生の五十年祭の折りに、桂亮子先生とお話しできる機会を頂き、これは「みでさびる」という言葉だと教えて下さいました。「さびる」は、備中地方の古い方言で、桂ミツ先生が金光にほど近い沙美のご出身だったからだそうで、今では使われていないようだと教えて下さいました。備中弁であるならば、四神様が「神のさびかえ」という御教えをされているのと、共通する言葉のように思います。

また、その時に亮子先生から「記念祭というのは、終わってからも肝心ですよ。準備は一生懸命するけれども、終わってから反省会をして『あれが駄目だった、これが駄目だった』では、せっかくの記念祭が愚痴や不足になってしまって、おかげにならないということがある。」と教えていただきました。これも大切なことです。「では、ここからどうするのか、次はどうしたらよいのか」という前向きな反省こそが、本当に必要なことなのです。

甘木と、難波と二つの祭典に参拝させていただいて、大切なことを聞かせていただき、教えていただくことが出来ました。「真の信心が、出来ていなければ、神様に振り払われてしまう」あやうい私たちであることを自覚して、気を引き締めて「真の信心」を求めさせていただきたいと思います。

 

 

 

 

令和二年の元旦を迎えて

伏見教会長 橋本美智雄  令和2年1月号

 

皆様、あけましておめでとうございます。

令和二年、教団独立百二十年の元旦をお迎えいたしました。令和になって初めてのお正月です。この元号には「和」という文字があります、平和の和であり、皆の力を足しあう和でもありますから、平和でみんなが仲良い年であって欲しいと思います。また、天地書附にある「和賀心」の和でもありますから、和やか喜びに満ちた年になって欲しいと思います。

まだまだ、世の中は暗いニュースが多いですし、争いや難儀も絶えない世界情勢ですが、そうであればいよいよ信心している私たちが、神様のおかげを頂く喜びに満ちて、その喜びの光を、周りの人たちに伝えていくということが大切に成っているのだと思います。教祖様のみ教えでは「金光とは、きんひかると書く、明るい方へは人が寄ってくる」と、教えて頂いています。私たちが暗い世を照らす光になるのだと、そのようなことを思います時に、私はボーイスカウトの集会のセレモニーのたびに歌っていた「光の道」という歌を思い出します。

「大空をわたる日の光は清く
 心地よき輝きに闇は失せ行く

 光の道を踏みゆくわれら
 とこしえに保たん明るき心」

という歌詞です。決して金光教のために作られた歌ではありませんが、まさにこれは天地の親神様のみ恵みを受けて、不安や心配を取り去っていただき、神人の道を進もうとする私たちが、わが心の神様の光を失わないように、その光で世の中を照らせるように、という意味ではなかったかと思わさせられています。

本年は教団が独立して百二十年になるそうです。特別に記念の行事はありませんが、私たち一人一人がより一層お道のためにお役に立たせていただき、世の中の光となれるように、おかげを蒙ってまいりたいと思います。

 

 

 

教祖様は伏見に来ていた?
伏見教会長 橋本美智雄  令和元年11月号

この度、立教百六十年の直会としていただいた「研究資料」に、教祖様直筆の伊勢参拝の記録が載っています。これは、江戸時代の農民が自分で記録した伊勢参拝の資料としても貴重なものです。教典には、文政十三年当時十七歳の教祖様が伊勢に行かれたことが記されていましたが、この度その行程と、道中のお金の使い道が分かりました。行程には山上様(大峰山の山上岳)講参り、高野山が含まれていたこともわかりました。

人数は十三人、小遣い一両を「もらい」と記されています。旅費が支給されたのでしょうか。庄屋の息子四右衛門さんと一緒の講参りですから、大谷村の村民を代表してお守りか何かを頂く「公務」だったのかもしれません。「両・朱」は金の単位、「貫・匁」は銀の単位、「文」は銭の単位です。この記録には二朱が八匁四分、二朱が八百十文と、当時の金と銀と銭の交換レートが記されているのも貴重です。一両は十六朱ですから、銀で六十七匁二分、銭なら六千四百八十文持っている、ということになります。一匁はおよそ百文の概算です。
 さて、行程を見ますと、まず七月十五日に出発。兵庫県の高砂では大水で一日足止め。二十一日に高野山へ参詣、洞川宿に泊まられて、二十三日には大峰山に着いて、二十四日には奈良に入り二十八日には伊勢に参宮し、八月一日に京都行き2日夜には「下り」とあって、三日朝に大阪へ入り二日間見物して、五日朝に船に乗って、六日朝に玉島の港に着いたと、記されています。

教祖様は歩き慣れているとはいえ、一日足止めを除いて五日間で高野山へ着いています。全行程歩かれたならば、早すぎです。私は、高砂の港から高野山の入り口になる九度山の港まで、船に乗られたのではないかと推察します。奈良から伊勢まで四日間で行かれていますが、どんなルートを通られたのでしょうか。インターネットのアプリを「徒歩」に設定すると、県境の高見山を越えて櫛田川沿いを下る山越えコースか、名張を通る現近鉄コースが示され、どちらも一日中歩き続ければ伊勢に着きます。四日あれば行けないことはないなと納得です。伊勢に参拝して、京都、大阪と回られますが、気になるのは京から二日の「夜に下り」、翌朝に「(大阪に)着き」という記録です。遠路を夜歩くとは思えませんし、「下り」の表記からは「船」を想像させます。京都から大阪まで船ならば、間違いなく伏見港を通過して淀川を下っています。なんと、教祖様は伏見を通られたのか。確証はありませんが何と喜ばしいことかと、小躍りしてしまいそうです。

教祖様の旅先での買い物は、お供えを除くと、高野山でお母さんの土産に「女月役守り」を買ったほか、「数珠、陀羅尼助、お神酒、火打ち石三つ、奈良の小刀、真田腰帯」などを買って、伊勢で「鶏団子」を食べられました。京都では神道の白川家から「三社の託宣」を五百文で買って、その日に百四十文使って表装しておられます。大阪では、二日間市中見物し、またお母さんのお土産に「傘」を購入しておられます。この道中で最も高い買い物は、京都の「三社の託宣」でこれは、伊勢神宮の天照皇太神・春日神社の春日大明神・石清水八幡宮の八幡大菩薩の託宣を一幅に書き記したものです。次はお母さんへのお土産の「お守り」と「傘」が高い買い物です。

不思議なご縁と思うのは。教祖様は後に、布教公認のために形だけとは言え京都の白川家に入門されます。また、明治十年、借金の無心に来た息子の正神さまに「三社の託宣」を「やれ」とお知らせがあり、お参りしなかったので翌年お参りされたときには「やるな」とお知らせがあります。その「三社の託宣」がこの時のものという証拠はないのですが、高い買い物ですから、これだろうと思います。ずっと、大切になさっていたのだと思います。

御理解に「伊勢の音頭にも、めでためでたの若松様よ枝が栄える葉も茂るとあるから、そういうおかげを受けるがよい」とあります。藤守先生によると、これは、日に何度も仰せられていたそうです。十七歳の旅行は教祖様にとって大切な経験だったのだと思います。そして、その中に伏見の景色があったとしたら、私たちはより身近に教祖様を感じることが出来ませんか。

最後に二千五十三文の買い物、四千四百二十七文の経費を使い、合計で六千四百八十文、ちょうど一両位ですが、船賃五匁をいれると少々使いすぎたと反省されているのは、人間味があって興味深いですね。

         

            

 

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