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酒呑み百姓の会について
(こんなに詳細に書くのは初めてです。)

 平成4年2月、劇団ふるさときゃらばんのミュージカル「ムラは3・3・7拍子」小諸公演実行委員会「小諸Oh援団(こもろおうえんだん)」にてShimo氏とAto氏、Shige氏が出会う。

 平成5年 梅雨が明けなかった…という空前の冷夏により、日本中で米不足が発生。「タイ米騒動」などが起こる。

 平成6年2月、同じく劇団ふるさときゃらばんの「男のロマン・女のフマン」小諸公演実行委員会「小諸かんとりぃ倶楽部」にて上記メンバーにKamo氏、Ake嬢、mattsuann氏、Uchi氏、Miyajima氏が加わる形で出会う。

 平成6年4月某日 上記公演が大成功の打ちに終了し、大塚酒造の酒蔵資料館にて打ち上げが行われる。その時、Shimo会長が平成5年の米の不作&タイ米騒動に関連して「日本人なのに、米のことを本当に知らないよな…」という言葉を発する。それが呼び水となり「米を作ろう」という話が持ち上がり、「どうせ米を作るなら、酒米を造って酒を仕込みたいよね」という、大胆な発想が生まれる。
 そして、その場に居合わせた御代田のUchi氏が田んぼの提供を申し出、Miyajima氏が、米作りの指南を駆って出る。更に、大塚酒造の社長が、素人の酒造りに関する問題点(税務署への打診と杜氏の説得)を申し出、米作りから酒造りまでの土壌が整う。 その間約10分の出来事が、あさまおろしを産むことになる。

(会長の発言のベースには、「夏子の酒」というマンガの影響が色濃く出ていたことは周知の事実である。)

 翌週、Shimo(後の会長)とKamo(副会長)、Ato(事務局)の3名が、今は無き小諸市紺屋町の居酒屋「藍屋」にて打ち合わせを行い、「水飲み?というわけにもいかないしなぁ」「いや酒呑み(笑)。」の一言で「酒呑み百姓の会(さけのみびゃくしょうのかい)」というネーミングが決まる。
  但し、きわどい名前であるため、後日、農業を大規模に営むMiyajima氏に相談に行くが、「面白い!今時の農家を笑い飛ばす勢いでやれ。」と激励され、あっさりとネーミングが決まる。

当初の参画メンバーはShimo,Kamo,Ato,Shige,Mattsuann,Ake,Uchi,Miyajima,大塚社長で始まった。

平成6年

 小諸市と御代田町の境にあったUchi氏のご両親が所有する約23aの水田にて米作りをするはじめることとなる。
 この田は前年に圃場整備が行われた場所で、綺麗に四角く整地されており、米作りが非常にしやすかった。また、初年と言うこともあり、大きな石が多く、その除去と、畦づくりに多くの時間を費やした。(単に素人だったというだけの理由かも)
 作付けの品種については、当初は酒米も検討したが、時期的(4月中旬)に酒米の籾の入手が困難だったという事もあり、「こしひかり」を作付けすることになる。

 この田んぼは、浅間山麓でも最も標高の高い場所の田んぼであったた。また、水についても近くにある真楽寺の湧水を利用していたため、水が冷たかった。そのため、冷夏=即不作という図式が成り立つ厳しい米作りのスタートとなった。

 ところが、この年は例年にない暑い夏でした。下界では雨が降らないため、水不足に泣いていたようです。が、真楽寺の湧き水を水源とするこの田んぼでは、小雨の影響をもろともせずに生育。高温+水温UPの恩恵をもろに受け、Beginner's luckの豊作となりました。

 天日干しを行ったそのコシヒカリは、指導してくれたMiyajima氏、田んぼを貸してくれたUchi氏も驚くほど美味しい米でした。

 この年、文化センターで陶芸体験を行い、ビアジョッキと蕎麦猪口を作りました。
 また、タイ米の美味しい食べ方講座で、トムヤムクンとピラフの調理講座を実施しました。

 (後日談…それまで、近辺の田んぼではシナノコガネなどの、早生(わせ:比較的早く穂が出る事)&寒冷地仕様の米を作ってきましたが、この年の我々の出来を見た周囲の農家が翌年挙ってコシヒカリを植えたそうです。)

(つづく)

 

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