韓国の旅、水原・丹陽・安東・慶州・ソウル
 韓国は近いようで、私にとっては遠かった。海外は36年前のサンフランシスコから始まったが、韓国には今回が初めてで、31ヶ国目の訪問となった。日本は木の文化、中国は土の文化、韓国は石の文化と言われる。日本にとってこんなに似通った国は世界中を探しても他にはない。日本にとってはとても重要な隣国だったし、これからもそうあり続けるだろう。しかしどこか文化の違いを感じざるを得ない。日本と韓国は特別な関係にある。元寇には韓国の人が日本侵略に駆り出されたし、豊臣秀吉による朝鮮出兵もあった。近代には韓国併合という不幸な歴史を刻んだ。しかしその交流の歴史は一時期の不幸な期間を除けば、大方は友好の歴史であり、お互いに利益の増進を図ってきた。日本語と韓国語の関係も語順や助詞の使い方など明らかに同じものが多い。日本語に一番近い言語は韓国語だと思う。その反面、漢字語を除いては単語同士に共通性を見出すことは限られている。日本は文化的には古くから韓国から様々なものを受け入れてきたし、弥生時代以来の帰化人による文化の伝承も日本文化の形成に大きく寄与してきた。それにもかかわらず、固有の文化が厳然として存在する。日本と韓国との間のいささかの距離を感じながら、韓国への旅は始まった。
 

平成24328 水曜日 晴

昨日から東京はやっと春の暖かさになってきた。ソウルの冬は零下20度近くになることもあるというが、3月も終わりに近づいて、ソウルもやっと暖かくなってきたようだ。韓国は是非とも行きたい国の一つだったが、ようやく実現することになった。成田空港は春休みを利用した客で混雑していた。ソウル行きのアシアナ航空も満席だった。成田空港を定刻より10分早く1230分に出発し、仁川(インチョン)空港には午後3時に着いた。空港の周りは少し霞んでいて、見通しはよくなかった。仁川空港からは海を渡る21キロに及ぶ仁川大橋を渡って、約50km離れた水原(スウォン)に向かった。約1時間ほどで水原に着き、水原華城(スウォンファソン)を見学した。朝鮮王朝第22代世祖大王によって、1798年から2年10か月にわたって築城した雄大な城郭である。57キロに及ぶ城壁で囲まれていて、その一部を歩いた。万里の長城のようだともいうが、むしろヨーロッパの中世城郭都市に近いように思う。日本では城壁ではなく、濠を回らすところだろう。城壁からは水原の市街地が見渡せた。最後に立ち寄った華虹門(ファホンムン)の七つの水門は水原華城を横切って流れる水原川の北側に建てられた水門で、水門と橋梁、軍事防御の機能を備えていた。見学の後、近くのレストランでプルコギの夕食となり、その後バスで高速道路に入って、丹陽(タニャン)に向かった。途中、パーキングエリアに立ち寄り、飲み物などを買うと店員が素早くレジを打って、お釣りをくれた。日本よりも早いのでびっくりした。水原から160km、2時間ほどバスに揺られて丹陽のホテルに着いた。町で目にする文字はほとんどがハングルで、ゆっくり見れば、何とか発音はできるが、何のことか意味がさっぱり分からない。おまけにアルファベットが書かれているものもほとんどなかった。外国人にとっては日本も同じような珍しい文字の国に映るのだろうか。国際化された現代ではせめて英語表示くらいは多くする必要があるのだろう。ハングル文字を除けば、日本の風景とそんなに違和感はなかった。ガイドの金(キム)さんの話では、オリンピックとワールドカップで韓国は大分発展して、綺麗になったという。

 


水原華城

華虹門

高速道路のパーキングエリア

嶋潭三峰

安東河回村

御神木の欅

仏国寺天王門

仏国寺の青雲橋、白雲橋と紫霞門

仏国寺の多宝塔と大雄殿

古墳公園 

平成24329 木曜日 晴

720分に丹陽のホテルを出発した。朝食に韓国式朝定食を摂ってから、嶋潭三峰(トダムサムボン)を見た。漢江(ハンガン)の上流の南漢江(ナムハンガン)の中に三つの岩が並んでいて、真ん中の岩が夫、左が妻、右が妾だという。昔仲のよい夫婦がいたが、子ができなかったので、妾を迎え、妾は子供ができて、大きなお腹になり、妻は焼きもちを焼いて、夫に背を受けている姿だという。そこから約90km離れた安東(アンドン)に向かった。安東には約1時間50分ほどで着いた。安東河回村(アンドンハフェマウル)は600年余りにわたって、柳(リュ)という同姓の者だけが暮らしてきた同姓村で、瓦屋と藁葺屋が古建築様式のまま保存されている。日本の白川郷のような古民家を保存して、現に人が暮らしている世界文化遺産の村だ。しばらく古民家の中の道を歩くと大きな欅の木があった。御神木だそうだ。短冊に願いを書いて、周りに結ぶと願いが叶うという。昼食には安東チムタクを食べた。その後再びバスに乗って、安東から約162km離れた慶州(キョンジュ)に向かった。約2時間50分で慶州に着いた。慶州は3世紀までに六つの小国が集まって斯盧(シロ)国をつくり、4世紀後半に新羅(シルラ)国と改称した。935年に新羅が滅亡するまで慶州は王都として栄えた。新羅時代は韓国文化の最も華やかな時期だという。午後はまず仏国寺(プルグッサ)を見学した。715年に新羅の宰相の金大城(キムデソン)が両親のために起工し、その死後は国家の安寧を祈る官寺として、拡充・整備されたという。たびたび火災や地震で破損し、1592年には豊臣秀吉軍によって全山を焼かれたりしたが、その後次第に再建され、1970年から1973年には復元工事がされたという。再建されたものとはいえ、新羅の文化の素晴らしさを伝える壮大な寺院だ。国宝の多宝塔などの優れた石造品や金銅毘盧遮那仏坐像などの8世紀中頃の金銅仏を見学した。そのあと古墳公園にも寄った。主に5世紀中頃から6世紀にかけての巨大な積石木槨墳である。盛土された王の墓がいくつもあって、今は公園に整備されていた。墓の一つの天馬塚(チョンマチョン)には青銅などの出土品が陳列されていた。帰りに寄った紫水晶の店で、土産にアクセサリーを買った。夕食には海鮮鍋をつつき、夜はMISOUで新羅建国のミュージカルを見た。韓国の舞踊を取り入れた素晴らしいステージだった。

 

 
 

平成24330 金曜日 雨後曇

6時前からホテルの温泉に入った。大きな風呂と檜風の風呂と水風呂、それにサウナが二つあった。地下780メートルから湧き出す35度の温泉を41度前後に沸かしている。日本の温泉とそれほど変わらない。リラックスできた。朝7時にホテルを出発して、朝食のカルビ湯を食べて、約360km先のソウルをめざした。韓国の高速道路網はよく張り巡らされているようで、ソウルまではなるべく近道を通ったようだ。途中小高い山のあちこちに墓らしいものが見られた。韓国では土葬が行われている。朝方降っていた雨はソウルに着く頃には上がっていた。ソウルに着いて、石焼ビビンバの昼食を摂った。平成16年に上海、蘇州、北京のツアーに参加したときに一緒だった御夫妻と今回偶然にも一緒になった。知り合いの方と一緒になったのは初めてだと言っていた。上海に行ったときの思い出話に花が咲いた。ソウルでは免税店と民芸品店に寄った後、昌徳宮(チャンドックン)を見学した。創建は朝鮮王朝が始められた直後の1405年であるが、その後たびたび火災に見舞われ、その都度建て直されたという。李朝時代の宮殿がいくつもあって、それぞれが精細な彫刻や色彩豊かな柱、湾曲した瓦屋根などで飾られ、日本にもかなり影響を与えたのだろう。そこから仁寺洞(インサドン)に行って、30分ほど散策した。いろいろな店が並ぶ繁華街で賑わっていた。そのあと南大門市場(ナムデムンシジャン)へ行った。南大門(ナムデムン)は2008年に消失して再建中だった。市場では日本語が飛び交っていた。夕食に味付きカルビを1.5人分食べて、夜はナンタの公演を見に行った。5人の料理人たちのエネルギッシュで楽しいミュージカルだった。近いうちに東京公演も予定されている。

 




昌徳宮

昌徳宮の正殿、仁政殿

仁洞寺 

南大門市場

仁川空港 
 

平成24331 土曜日 曇後雨

昨日の夜ホテルに帰ったのは、10時を過ぎていたが、朝は5時半にホテルを出発した。漢江に沿って高速道路を仁川空港に向かった。途中で土産物店に立ち寄り、午前9時発のアシアナ航空便で成田に向かった。途中隠岐の島の上空を通過し、金沢付近で中部地方に入った。成田には午前1110分に着いた。近さを実感した。関東は強風が吹いていたようで、着陸の際はかなり機体が揺れたが、無事に着陸できた。千石駅に着いたとき、雨が強かったので、コーヒーショップで雨宿りをしたが、止む気配もなく、雨の中を急いで帰って来た。

 

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