北インドヘの旅 
 

平成26215 土曜日 雪後雨後曇

 2週続けて東京に大雪が降った。家の周りに初めてといえるほど積もった昨夜の様子ではどうなるかと思っていたが、幸いに明け方には雨に変わり、昼前には雨も上がった。それでも道路の雪はまだほとんど融けずに残っていた。傘をささずに歩くことができたので、大して重くもないスーツケースは引いていくわけにもいかず、10分ほど抱えて地下鉄の駅まで行った。心配していた地下鉄も、山手線も、京成線もほぼ定刻通りの運行をしていて、予定通りに成田まで行くことができた。成田では雪も大して降っていないようだった。
 1720分発の全日空のデリー行で日本を後にした。初めてのインド旅行の期待のためか、ターバンを巻いたインド人らしい男性が皆哲学者のように見えた。隣の席のアメリカ人の女性はサンフランシスコから成田、デリーを経由して、バングラデシュに向かうという。口唇裂などの手術の際の麻酔をボランティアで行うためだという。タブレットにバングラデシュやエチオピアでの子供たちの唇の手術前と後の写真を見せてくれた。ボランティアなので、カネを一切取っていないと言っていた。全日空機は福岡、上海、昆明、ダッカの上空を通って、デリーには2335分に着いた。日本との時差がマイナス3時間30分なので、日本時間では、午前3時過ぎになっていた。
 デリーでは一面の霧だった。見通しは極めて悪く、よく運転できるなと思うほどだった。ラディソン・ブル・ホテルに到着したのは午前
1時を過ぎていた。

 

ホテルでの結婚式の車 


デリーからジャイプールへ向かう道路


風の宮殿


ジャンタンマンタル天文台


アンベール城


アンベール城の中庭

平成26216 日曜日 霧後晴

 午前615分から朝食を摂った。外に出ると相変わらず霧が濃かった。この霧は一昨日の雨の影響らしかった。昨日結婚式があって、今朝は車に花を飾って、着飾った女性と男性が玄関で祝福しているところに遭遇した。
 霧のデリーを後にして、バスは一路南西のジャイプールに向かった。所どころに町があって、マーケットがあるが、雑踏で、ゴミがあふれ、とても健康的とは言えなかった。野良犬と野良牛、サル、イノシシなどがうろうろしていた。ラクダに乗った人も時々見かけた。ゴミの中でもビニール袋などがいくつもごっちゃになっていて、それがかなりの塊になって放置されている。道路も荒れている個所がいくつもあった。また交通規則はあって、ないようなものなのか、割り込み、クラクションは絶えなかった。車の後ろにブロウ・ホーンとかホーン・プリーズと書いてあり、むしろクラクションで知らせてくれということらしい。バスもそんなに高くない段差でも大きく揺れた。シートベルトをつけなければ頭が危ないと思ったほどだったが、シートベルトを探しても壊れていた。途中のトイレ休憩も
1回だけで、渋滞にも所々で巻き込まれながら、6時間走り続けてジャイプールに着いた。すぐにイタリアンの昼食を摂った。意外にも地ビールは冷えていて飲み頃で美味しかった。
 ジャイプールはかなり大きな町で、相変わらずゴミが散らかっているが、ピンク・シティという一角に入ると建物は綺麗になり、風の宮殿は豪華そのものだった。風の宮殿は奥行きが非常に狭く、
5階建ての建物で、彫刻を施した窓から夫以外には顔を見せてはいけなかった宮廷の女性たちが町を見下ろしていたという。どの角度からも風が入るように工夫がされている。
 次に世界遺産のジャンタンマンタル天文台に案内された。
18世紀に建てられた天体観測のための遺跡で、星座占いのために利用されていたようで、12星座の日時計やとても大きな日時計がいくつもあって、陽が射してきて、その影の時刻を読むと分まで正確であるので驚く。
 その後、湖上の宮殿などの素晴らしい景色を見ながら、アンベール城に向かった。途中でバスが入れないので、ジープに乗り換えた。アンベール城は市の北側の小高い丘の中腹に建てられた城で、ジャイプール遷都までここが藩王国の首都だった。頑強そうな外見とは裏腹に、内部は非常に繊細な作りで、彫刻、装飾、ここからの眺めなど世界遺産として十分に素敵だった。ジャイプール・マリオット・ホテルでの夕食はインドの地ビールとワインが洒落ていた。

 

 

平成26217 月曜日 晴

 朝食が6時半、出発は8時だった。ジャイプール市内では風の宮殿の前で下車して、写真を撮影したが、その際に若い女性の売り子から小さな象が5つぶら下がっている飾りが100ルピーと安いので買った。
 その後、ジャイプールを後にしてアグラに向かった。昨日よりは道もよくなって、渋滞も少なかった。ヒンズー教はカースト制度を容認している。インドの貧富の格差の根底にはカースト制度があることは明らかだ。国自体が貧しいので、地方のインフラの整備には手が回らないらしく、極めて遅れている。
ITが盛んなインドで、地方までその恩典が行き渡るにはまだまだ時間がかかりそうだ。4時間半ほどでアグラに着いた。アグラでの昼食はターリー料理で、大皿の中に小皿がいくつも並んで、それぞれにカレーやコメ、ヨーグルトなどが入っていた。
 いよいよタージ・マハルの見学だ。タージ・マハルはムガール帝国第
5代皇帝シャー・ジャハーンが若くして亡くなった王妃ムムタズのために1632年から約22年の年月をかけて造営した。総大理石の霊廟で、白大理石に施された象嵌細工や左右対称の美しさは圧倒的な迫力で迫ってくる。そういえば正面の門の上には22個の玉ねぎ型の塔が並んでいたのは22年を表わしているらしい。周囲の4本の塔もいくらか外側に傾いて建てられていて、仮に地震などで倒れることがあっても、建物を傷つけることがないように配慮がされていた。皇帝シャー・ジャハーンはタージ・マハルの完成後に川の反対側に黒大理石で自分用の廟をつくろうと計画していたと言われている。しかし、彼は息子のアウラングゼーブによってアグラ城内に幽閉され、タージ・マハルを眺めて過ごすことになる。彼の死後、黒大理石の廟は造られることなく、今では愛妃の隣に静かに眠っていた。中は写真が禁止されていて、薄暗い中で妃と王の墓を見学した。反対側の出口から出ると高台になっていて、下に広いヤムナー川がきれいに流れていて、遠くを見ても街の喧騒は望めなかった。この有名な世界遺産にはたくさんの国の人々が大勢訪れていた。ここはアグラの町の雑踏と比較すると別天地であった。帰りに土産物店に寄ってからジェイピー・パレス・ホテルに着いた。

 


風の宮殿


タージ・マハルへの門


タージ・マハル


タージ・マハルの装飾

アグラ城


アグラ城内部の装飾


アグラ城からタージ・マハルを望む


アグラ城の中庭


クトゥブ・ミナール


フマユーン廟


フマユーンの墓


デリーの中心のインド門


国会議事堂 
 

平成26218 火曜日 晴

 朝8時にホテルを出て、アグラ城に向かった。1565年にアクバル帝によって築かれたムガール帝国の権力の象徴で、赤砂岩を使用した大きな城だ。タージ・マハルを築いたシャー・ジャハーンが幽閉されていたという牢からはヤムナー川の彼方にタージ・マハルが望めた。
 次に昼食場所の市内の日本食レストランたむらに向かった。初めて雑踏の中の道路を横断した。歩行者よりも自動車の方が優先のようで、命がけだった。ここでは幕の内を食べた。みそ汁や日本茶が付いて、日本で食べるものとそんなに変わらない美味しさがあった。
 アグラを後にして、新しくできたという高速道路で一路デリーに向かった。高速道路は渋滞とは程遠く、快適そのもので、ゴミもなく風景もきれいで、日本の農村にいるような感じがした。昨日までとは落差を感じざるを得なかった。それでもところどころに牛がいるので、インドにいることを実感できた。
 デリーに近づくと高層ビルも増えてきた。デリーでは最初に郊外のクトゥブ・ミナールを見学した。ヒンドゥーとイスラムの両様式が混ざった高さ
72.5メートルの塔で、1200年頃に北インドを征服したクトゥブディーン・アイバクによって建造された。外壁にはイスラム教の聖典コーランの文字などが精緻に刻まれていた。そのすぐわきには2倍の高さの新たな塔を造営しようとして、途中で皇帝が追われて未完に終わった塔の土台部分や、破壊された寺院跡があった。
 ついでフマユーン廟を見学した。ムガール帝国第
2代皇帝フマユーンの墓で、ペルシャ出身の妃が亡き夫を偲んで建設した。後にタージ・マハルの建築にも影響を与えた。急な階段を上って廟の中に入るといくつかの部屋に分かれて墓がいくつも並んでいた。
 その後デリーの中心部、インド門や国会議事堂、大統領府などをバスの中から見学した。立派な建物で、現在のインドの権力の象徴としてあった。
 夕刻の迫るデリーの紅茶店で紅茶を買って、夕食に生演奏を聴きながらインド料理のカレーを味わって、空港に向かった。出国手続きをして、免税店を見ながら成田行きの全日空機を待った。

 

 

平成26219 水曜日 曇

 午前125分発の全日空機でデリーを後にした。夜間飛行は余り寝られなかった。空港で買ったエアー枕をしたが、効果をあまり感じられなかった。偏西風が強くて予定よりも早く午後零時20分過ぎに成田空港に着いた。成田空港は曇っていた。雪の予想もあったようで、助かった。早めに荷物も出てきて、スカイライナーで帰って来た。午後2時半前には家に着いた。やはり寝られなかった分の疲れが出た。ラーメンを食べてから荷物の整理をした。夜ソチ五輪のテレビで竹内智香選手がスノボーの大回転で銀メダルを取った。