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                                            祇園祭2010

平成22年7月16日 金曜日 晴後一時雨
日本3大祭の一つに数えられ、1130年もの歴史があるといわれている祇園祭を、今まで一度は見てみたいと思っていたが、なかなか機会を逸してきた。東京の空は梅雨明けが近いと感じさせたので、7月16日朝の新幹線で京都に向かった。
東京駅で駅弁を買い、朝7時発ののぞみに乗り込んだ。新幹線の車内は朝日が射し込んで暑かった。窓の外は梅雨空から夏のような景色に代わっていた。岐阜辺りまで来ると所どころに雲がかかり、雨が落ちていた。岐阜県の内陸部に降った大雨で川は増水して、被害も出ているようだった。
京都には午前9時21分に到着した。幸い雨も上がっていたので、以前一度借りたことのあるレンタサイクルの店に行き、自転車を借りた。荷物をかごに入れられるだけでも助かった。さっそく堀川通を北に向かって進むと西本願寺が見えてきた。

前に訪れたときは改修工事が行われていて見れなかったが、今回は御影堂門を入ると説明書のしおりをいただいた。正面に御影堂が聳えて、靴を脱いで上がると中央に親鸞聖人の御真影が安置されていた。畳441畳敷きの外陣で、世界最大級の木造建築物だという。午前10時から、ちょうど親鸞聖人御命日日中法要が始まったところだった。30分ほどの間、読経や声明、信者らの祈り、左側の座敷をいっぱいに埋めた若い僧侶たちの読経の声、こんな大きな寺で日常的に行われている法要に町の人々も参加する、素の京都に接したように思った。この後西本願寺の中を廻った。重要文化財の御影堂と阿弥陀堂、国宝の唐門と飛雲閣など、中でも唐門は繊細な彫刻で飾られていた。飛雲閣は聚楽第の移築と伝えられているが、残念ながら公開されておらず、遠くからわずかに三層柿葺の楼閣建築の一部が望めた。

いよいよ祇園祭宵山の32箇所ある山鉾建てに向かった。油小路通を進み、高辻通を渡った所にまず太子山があらわれた。初めて見る祭なので宵山とはどういうものなのか、とんと見当もつかなかった。山鉾の土台が置かれて、その前後にたくさんの提灯が飾られていた。近くの町家に御神体とさまざまな装飾品の数々を並べて見せびらかせていた。太子山の御神体はもちろん聖徳太子で、謂れを書いた高札が山鉾の前に誇らしげに立っていた。御神体と共に真木が立ち、前懸、胴懸、見送りという豪華な刺繍が飾られる。それらすべてのものを17日の朝に組み立てるという。ちなみに太子山だけが真木は杉で他は松だという。せっかく来たのだから記念に御集印帳を買って、32箇所集めることにした。

この後、近いところから油天神山、木賊山、岩戸山、保昌山と廻った。今夜の宿のからすま京都ホテルの近くまで来たので、一旦ホテルにチェックインした。正午を少し回っていた。ここまで1時間余りで5つの山鉾を廻ったことになる。この調子では32ある山鉾の全部を回ることもわけないと思った。暑かったのと、朝早かったので、1時間近くよく冷房の効いた12階の部屋で外の景色を見ながら休憩した。

午後1時前にホテルを出て、まず鶏鉾から廻り始めた。船鉾では拝観料を払って、鉾の上に乗せてもらった。町家の二階から渡りを通って山鉾に移った。下から仰ぐのとは違って、かなりの高さだった。手すりが低いので、腰かけていても怖いくらいだった。一緒にいたのは20人ほどだったが、説明によると17日の巡航では倍の40人ほどが乗って、すし詰め状態になるという。それにガタゴトと引き廻されるのを考えるとかなり怖い気がする。

四条京町家では中を見学させてくれた。長い通路に沿って釜戸や流しが並んでいて、反対側には畳の部屋が敷居で区切られていた。一番奥のどん詰まりは小さな箱庭があって、蔵などに囲まれた小空間を成していた。

霰天神ではタペストリーにトロイア戦争を題材にした立派なものを飾っていた。

放下鉾も昇らせてもらった。よく通りが見渡せた。ここでは奥の蔵から収蔵品を運ぶために二階まで渡り廊下を渡していた。

鯉山では鯉が瀧を上って龍になったという登龍門の故事を紹介していた。黒主山は旦那が御神体からタペストリーに至るまで詳しく説明をしてくれた。最後にPRがあって、ちまきとおたべを土産に買った。32番目に鈴鹿山まで行き着くと、御集印帳が完成した。なんと午後8時に近かった。ランチに1時間ほどゆっくりした他はずっと廻っていた。このころになると人出も最高潮で烏丸通と四条通は露店と歩行者であふれていた。歩行者天国の両側には露店がぎっしりと並び、その数といったら國神社のみたま祭の十倍ほどもあるような気がした。

 


西本願寺で行われた親鸞聖人御命日日中法要


四条京町家


霰天神山前懸トロイア戦争物語


放下鉾に昇った景色


祇園祭の収蔵品を蔵から運ぶための渡し


鯉山の御神体の鯉と懸装品
 
函谷鉾の記念撮影


鶏鉾の方向換え



船鉾の方向換え


月鉾


船鉾


霊山護国神社の坂本龍馬と中岡慎太郎の墓

平成22717日 土曜日 晴

祇園祭は7月1日から準備を始めるという。そのクライマックスの山鉾巡航の日を迎えた。よく晴れて暑くなった。朝食のバイキングを済ませて、朝8時過ぎにホテルの前の烏丸通に出ると、すでに祭で賑わっていた。四条通まで行くと、長刀鉾や、函谷鉾、月鉾などが飾り付けを終えて出発を待っていた。宵山では家の中で輝いていた御神体や懸装品が日の光の中で威儀を正していた。四条通はすでに車の通行を止めて、長刀鉾を先頭に順序を整えるようにして、南北の通りから出て来る山と鉾を待機させていた。特に鉾と曳山は四条通に出てくるときには方向転換をしなければならなかった。何せ8トンから12トンもあるものだ。鉾頭までの高さは17メートルから25メートルもある。大変な労力を要する。それを見ようと見物人が何重にも囲んだ。細く切った竹を何本も車輪の下に敷いて、引手が鋭角に綱を引いて少しずつ転回をした。直角に曲がるのに45回かかっていた。その都度竹を敷き直すのに大変だった。ギイギイと音を立てて、鉾頭を左右前後にしならせながら回った。

綺麗に飾った幕の紋様は和風というよりもペルシャやインド風のものが多かった。日本には正倉院御物の頃からシルクロードを越えて異国の文物が入っているが、京都もそれを受け入れてきた名残なのだろう。かなり古くなったものは新しいものを新調するという。現在では平山郁夫画伯や上村敦之画伯なども原画を作成している。四条通で出発を一通り見たので、今度は到着する御池通に行った。ちょうど先頭の長刀鉾が来ていた。ここでは順番通りに続いて来た。ときどき間が空いたりしたが、その時には逆の方向に歩きながら見た。鉾と曳山は高く聳えていたが、その外の山は規模は小さいが、設えは立派なものだった。それぞれは故事をテーマにして、踊手がいたり、稚児が居たりで飽きさせない。河原町通との交差点まで行くと後祭の北観音山と出合った。河原町通を少し南に進むと舞妓さんが二人、山鉾から品物を受け取っていた。祭の行列が終わって、静かになった河原町通を歩いていると坂本龍馬と中岡慎太郎が遭難した近江屋跡の標識があった。今はコンビニになっていた。

四条通を歩いて昼過ぎにからすま京都ホテルに戻り、今度は自転車に乗って出発した。近くにしおりやという町家を改装したダイニングがあったのでランチにした。うなぎの寝床とはよく言ったものだ。京都のランチはデザートも洒落ていた。アイスクリームにフルーツやウェハースが付いて品がよかった。
そのまま東に進み、鴨川を渡って、地図を確認すると清水寺の近くだった。清水寺は外国人も多かった。欧米人、中国人、韓国人などで混み合っていた。観光地はどこも日本人相手だけでは成り立たなくなっているのかもしれない。帰りに下から舞台を見上げると木の枠組みががっしりと支えているのを見て甚く感心した。

清水寺の近くに霊山(りょうぜん)護国神社があり、自転車で坂を昇るのに苦労して着くと、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓をお参りした。龍馬伝の影響か人が絶えることはなかった。近江屋で遭難したのは18671115日で、明治維新の直前だった。左脇に下僕の藤吉の墓もあった。

この後、円山公園に行き、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像を見て、八坂神社の神輿の出発を見学した。3台の神輿が並び、いずれも金箔で覆われ、江戸の神輿とは随分趣が異なっていた。上方は掛け声も上品だった。最初の神輿が出た後、残った2台の神輿はさらに長い2本の担ぎ棒を綱でしっかりと結んでから出発した。その担ぎ棒が相当長かったので、担がれると神輿はゆっくりと前後に揺れた。これまでの平安京の歴史が担がれているように錯覚した。

 

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