カタールとエジプトの旅
 
アル・アハリ・スタジアム

平成2436 火曜日 雨後晴

今年の冬は寒い日が続いていた。今日も朝から雨が降っていた。前線が関東の南岸に横たわっていた。午後からこの前線が去って、南から暖かな空気が入って来た。気温も18度まで上がった。午後4時過ぎに家を出て、三田線、山手線を乗り継いで、日暮里から京成で成田に向かった。スーツケースは30年前に買った物で、千石駅までの間にも下の車がガラガラと鳴っていた。少し早めに家を出たので、一本早い電車で成田に着いた。成田は2120分発のカタール航空便で、関西国際空港を経由して、カタールのドーハに向かった。途中関西国際空港に着陸する際に突然急上昇したので驚いた。強風のため着陸をやり直すとのことだった。二度目は無事に着陸できたのでほっとした。 

平成2437 水曜日 晴

関西国際空港を午前零時20分に離陸して、一路カタールに向かった。倉敷の辺りで西に向きを変えて、韓国、中国、パキスタンの上空を経由して、ペルシア湾の上空に至り、イランの南岸を通って、カタールのドーハに午前6時過ぎに着いた。カタールは日本との時差がマイナス6時間なので成田を出てからは15時間近くかかったことになる。日本を発ってからずっと夜間飛行だったが、ペルシア湾上空で日の出を迎え、朝日が眩しかった。ホルムズ海峡を遠くに望むことができたが、船がゆっくり往来する静かな海にしか見えなかった。乗り継ぎに7時間半ほどあったので、ドーハ市内を案内してもらった。カタールは発展途上で、ドーハはドバイなどに少し遅れて、高層ビルの建設ラッシュに入っていた。日本人に有名となった「ドーハの悲劇」のアル・アハリ・スタジアムは綺麗な芝生で、ゴールからゴールまで走った。ラクダ市場ではラクダの売買が行われていて、売られる子ラクダが激しく鳴き声を上げ、周りで大人のラクダたちがその子ラクダを悲しそうな目で見つめていた。整備された馬術競技場を見て、高層ビルの間を抜けて行くとスーク(市場)に着いた。ここは300年の歴史があり、細い路地の中に様々な店がひしめき合って、いろんな商品が並べられていた。カタールは石油と天然ガスで豊かなせいかエジプトで経験したしつこい物売りは全くなかった。そのあとコルニーシュ海岸から対岸の高層ビル群を眺めた。あと数年すれば高層ビルの数は300にもなるという。カタールが石油と天然ガスで豊かになったのは戦後のことだという。古くはポルトガル、オスマン・トルコ、近年は英国などに支配されていた。現在では外国人労働者も多く、彼らの新興住宅街は日本では高級住宅街ほどに綺麗だった。その後に通ったカタール人の邸宅街を見ると、広くて豪華というしかないほどの門構えで、この国の豊かさを表現していた。在カタールの日本大使館で日本人に職の斡旋でもしていれば、大学卒業の若者がこの地で活躍できるかもしれないと思う。午後210分発のカイロ行きでドーハを後にした。飛行中に紅海の付け根に位置するアカバやスエズ運河の入り口に何隻もの船が待機しているのが見えた。サウジアラビアの砂漠は灰色のサラサラの砂が続くというよりも、薄茶色の砂にわずかな雨が降って流れ、乾き切った後に付いた痕跡のようなものが見えていた。エジプトの首都カイロは大都会だった。上空からもギザの3大ピラミッドが見えて、エジプトに来たことを実感した。空港からホテルに向かう途中、ナイル川を渡った。中州も見えていた。車は大渋滞で、割り込みが横行していた。車線もあってないようなもので、日本にあるような交通ルールを守っていたら進むことができないほどだった。雨がほとんど降らないために町全体が埃っぽかった。エジプトのことを漢字では埃及と書くらしい。埃が及ぶとはよく言ったものだ。午後6時半過ぎにホテルに着いた。ホテルは町の乱雑さとは対照的に素敵なリゾートホテルだった。

 

ラクダ市場

スーク(市場)

コルニーシュ海岸からドーハの高層ビル群を望む

エジプト考古学博物館

カイロ、タハリール広場

スフィンクスとピラミッド

ギザ駅 
 

平成2438 木曜日 晴

この旅の予習にと31日に池袋の古代オリエント博物館に行って、エジプト関係の遺物を見学してきたが、その際に内田杉彦著『古代エジプト入門』を買って、持ってきて、読みながら来た。この本によれば、古代エジプトの人口はピラミッドが造営された紀元前2500年頃で約160万人、紀元前1250年頃には約300万人と推定されている。またその当時の平均寿命は上流階級でも30から45歳だったと推定されているという。しかし本を読んでもなかなかイメージが湧かないので、実際に遺跡を見学した方がイメージが湧いてくるのかもしれない。朝食はバイキングで、オムレツを作ってくれていた。ホテルをバスで出て、まずエジプト考古学博物館に行った。ここの収蔵品の数は20万点にも及び、発掘した本物の遺物が展示されているというよりも倉庫に保管されているようだった。唯一のレプリカがロゼッタストーンで、本物は大英博物館にあるという。大きな像から小さな装飾品まで、その数に圧倒される。2階にはツタンカーメンの黄金のマスクが鎮座していたが、ゆっくりと周囲を回りながら間近に見ることができた。昔、東京国立博物館で長蛇の列に並んで押されながら見たことを思い出した。マスクはあの時と同じ輝きを湛えていた。ミイラ室も見学した。永遠の命を得るために古代エジプト人はミイラを作り続けたのかもしれない。4000年も前の王様が今にも起き上がるような錯覚に襲われる。ここの資料の多さに比べると東京国立博物館もまだまだの感がする。見切れない遺物を後にして、タハリール広場などを見ながら、ギザのピラミッドに向かった。クフ王、カフラー王、メンカウラー王のギザの3大ピラミッドがどっしりと構えていた。近くのレストランでスッカラ・ビールを飲みながらの昼食の後、クフ王のピラミッドの中に入った。腰を屈めながら急階段を暫く登ると玄室に着いた。天井の高い広い部屋だった。かつて盗掘されたのだろう。元来た階段を下って外に出た。一つでも大変な重さの岩を数えきれないほど積み上げてこれほどのものを作るとは?最近見た『ピラミッド』という映画では、古代人が高度な近代文明を有していたに違いないという内容だった。余りにも大きいゆえに全景の写真を撮ることができないので、パノラマ展望台に向かった。ここからは三つのピラミッドを一緒に写真に収めることができた。ピラミッドの彼方にはカイロの街並みが見え、反対の西側は砂漠が広がっていた。ここではラクダに乗る体験もした。ラクダに跨って、ラクダが立ち上がるときと地面に座るときに、前につんのめりそうになって、さかんに胸を張れと言われた。それでも高い背からの眺めも格別だった。ミラミッドの近くに有名なスフィンクスもあった。人面とライオンの身体がでんと構えていた。人面の方はかなり風化していた。見学していると土産物売りが纏わり付いてきた。今のエジプトは豊かではない。帰りにフセイン・モスクの近くのスークを見学した。ちょうどお祈りが近くのモスクで行われていたので、モスクの中に入れてもらった。靴を脱いで預けた。みんながメッカの方角を向いて礼拝をしていた。靴を受け取るときに寄付を要請されたので、1ドル寄付した。ここのスークも店員が寄って来ては執拗に物を買わせようとしていた。ここからギザの駅に行った。午後8時発のアスワン行きの寝台車が来たのは、午後910分を過ぎていた。このくらいの遅れはまだよい方なのかもしれない。時間も交通ルールも守られないことが当たり前のエジプト、慣れれば規則でがんじがらめの日本よりも住みよいのだろう。ともかく列車は920分に出発した。アスワンまで13時間の列車の旅が始まった。3畳ほどの広さのコンパートメントに落ち着いた。しばらく行くとラム肉の夕食が出て、これは飛行機の機内食のようなものだった。そのあとベッドメイキングをしてもらうとやっとゆっくりできた。2段ベッドにもなるようだ。毛布はなかった。暖房の温度を上げたが、大して効かなかった。

 

 

平成2439 金曜日 晴

ナイル・エキスプレスは一路アスワンに向かった。いくつかの駅に止まりはしたが、乗降客はなかった。午前6時を過ぎるころから空が明るくなって、西の空に満月が沈もうとしていた。ナイル川が所々で豊かな水量を湛えて悠然と流れているのが見えた。ナイル川の流域は、水路を通して、畑を耕し、ヤシの木が茂っていた。それもアスワンより南は流域も狭くなり、川の近くまで砂漠が迫ってくる。ときどき農民がロバに跨っていたり、ロバに引かせた荷車に乗っていたりした。この辺りでは車よりもロバの方が交通手段になっている。ルクソールを過ぎるころには遠くに気球が六つほど浮かんでいた。エスナ、エドフと過ぎて、終着駅のアスワンに着いた。この先は鉄道はなくバスに乗り換えてアブ・シンベルに向かう。ここから先に向かうバスと車はグループを作って一緒に行くという。その時間に少し余裕があったので、近くのオベリスクの石切り場を見学した。オベリスクは一枚の岩で作るので、途中でひびが入ってしまって、未完のままに放置されたオベリスクが横たわっていた。この岩山にはほかにもヒエログリフが描かれている所や削りかけのオベリスクの場所もあって、若者がそこまで連れて行っては写真を撮らせてチップを要求していた。アブ・シンベルに向かうバスは4台、乗用車が数台でグループを組んで、出発した。ガードマンが二人バスに乗り込んできた。そのうちの一人は銃を持っていた。我々の安全のためらしい。バスはアスワンの郊外を抜けると砂漠の中の一本道を走った。薄茶色の砂の中には大小の岩が点在していた。その間をまっすぐに道路が貫いていた。280kmの距離を走って、アブ・シンベルまで来たが、出合ったのは数十人ほどの警備の要員だけだった。アブ・シンベル神殿は大小二つの神殿からなっているが、その精巧さと壮大さは素晴らしいものだった。神殿の中は列柱と壁画で飾られていた。3300年も前に作られたことを知るとエジプトの技術の高さを改めて知らされた。ダム建設によって、水位が上がって水没するので、60mも上に遺跡全体を移したという。ユネスコの協力もあったというが、その技術力も素晴らしい。書かれている文字もほとんどが解読されているので、当時のことがよく解るらしい。ラムセス2世と王妃ネフェルタリの生活が窺えるようだった。元来た道を戻りアスワンでクルーズ船に乗った。夕食はクルーズ船内のレストランで摂った。部屋番号とサインは習いたてのアラビア文字を使ったら、結構喜んでもらえた。ナイル・エキスプレスの寝台車とは雲泥の差の海を臨むゆったりした部屋でやっとゆっくりできた。

 


ナイル・エキスプレスの車窓から

アブ・シンベル神殿大神殿

アブ・シンベル神殿小神殿 

クルーズ船のサンデッキ

コム・オンボ神殿 
 

平成24310 土曜日 晴

クルーズ船がホテル替わりなので快適に過ごすことができる。なによりも移動をホテルごとしているようなものなのだ。午前8時に朝食、午前915分にクルーズ船を出て、まず香油と香水瓶の店に案内された。香油の香りをかがせてくれて、気に入った薔薇の香油を一つおみやげに買った。30グラムで30ドル、それがディスカウントで27ドルになった。日本で買うよりもずっとお得だという。その後アスワンのスークに行った。夜にガラベーヤ(民族衣装)パーティーがあるので、比較的に地味なエジプト民族衣装を買った。集合場所に戻ったときにウェストポーチのファスナーが開いていると地元の人に注意された。見ると完全に開いていた。幸い中には日程表などだけで金目のものを入れてなかったので、何も取られてはいなかった。しかし一緒に回っていた彼がポーチからカメラを抜き取られていた。初めての経験で、二人とも一切気づかなかった。大した腕だ。船に戻って昼食の後、コム・オンボに向けて出港した。ナイル川の流れがゆったりなのと、4階建ての大きな船なので、ほとんど揺れを感じることはなく、快適なクルーズとなった。屋上にはプールがあり、サンデッキになっていて、2時間半もの間、チェアーに横になって辺りの風景を見ていた。コム・オンボで下船して、ワニの神様とハヤブサの神様のコム・オンボ神殿を見た。帰りに立ち寄った博物館にはワニのミイラがたくさん展示されていた。その後エドフに向けて出港した。操舵室や舳まで行かせてくれた。夕食後の930分からガラベイヤ・パーティーが始まった。ヨーロッパ人のグループと一緒に楽しいひと時を過ごした。

 

 

平成24311 日曜日 晴

630分に船を出て、岸に降りてからエドフ神殿まで二人乗りの馬車に乗った。10分ほどかかって、エドフ神殿に着いた。その間中、御者はチップを要求し続けた。料金とチップは後でもらえることをわかっていながら、さらに要求するらしい。付き合っていたらきりがない。エドフ神殿のスケールの大きさに圧倒される。レリーフも列柱も素晴らしい。ギリシア、ローマの遺跡よりもはるかに古く、その壮大さではギリシア、ローマを凌いでいる。どのようにしてこのような高い列柱や塔門を作ったのかは、後に見るルクソールのカルナック神殿の工事現場の保存場所で明らかになる。技術力の高さを改めて感じた。帰りも馬車に揺られて船に戻った。朝食にはエジプト人シェフの手作りの味噌汁や煮魚も出た。船はルクソールに向けて出港した。午前915分からエジプト人ガイドのアデルさんによる現在エジプトの教育、兵役、結婚事情などの話があって、興味深く聴いた。エジプトでも結婚の主導権は女性の方が握っているようだ。実際に町で会う女性たちは元気そうだった。このクルーズの圧巻はエスナ水門だった。船の幅より少しだけ広い水路に2隻の船を入れて、入ったところで後ろの水門を閉めて、前の水門を開けると水位は一気に低くなった。今の時期は6メートルの差だという。夏になると8メートルぐらいあるという。岸にたくさんの物売りがいるが、はじめは船の下から声をかけていると思えば、そのうちに船の方が売り子の位置よりも下に来て上から声がするようになっていた。それだけでなくスカーフなどの品物を船めがけて投げいれて、お金を要求したりする。乗船客は品物を投げ返したりしていた。ルクソールに着くと午後330分から東岸のカルナック神殿を見学した。エジプトには世界全体の遺跡の3分の1があり、そのエジプトの遺跡の半分がルクソールにあるというので、ルクソールには世界全体の遺跡の6分の1があるという。その中でもカルナック神殿はスケールの大きな神殿だ。高い列柱や塔門の建築にはまず周りに日干しレンガを積み上げて足場を作りそこで上から仕上げながら少しずつ下まで足場を壊しながら作っていったようだ。こうすればあんなに高いところまで丁寧に彫刻もできたのだ。それにしてもあの高いところの巨大な岩が3000年以上に渡って、崩れないのは優れた建築技術のせいなのだろう。帰りにホテルの貴金属のアクセサリーなどの店に寄って、ヒエログリフで名前を入れたアクセサリーなどをおみやげに買った。暗くなってからルクソール神殿のライトアップされた魅力を堪能した。昼間見るよりも美しいと思う。夜はベリーダンスのショーがあって、女性と男性が一人ずつ踊った。女性は魅力的な衣装で官能的に踊り、男性は15分もの間廻り続けた。これもベリーダンスなのだ。


エドフ神殿

エスナ水門

カルナック神殿の列柱のレリーフ

カルナック神殿を望む

ルクソール神殿

ルクソール神殿の列柱

気球

メムノンの巨像

ハトシェプスト女王葬祭殿 
 

平成24312 月曜日 晴

510分に気球体験に出発した。暗いうちにナイル川を小さな船で西岸に渡った。そこからマイクロバスに乗り換えて、しばらく走って、気球が置かれた広場に着いた。こちらのグループは10人で、全部で28人乗りの気球にヨーロッパ人と一緒に乗ることになった。まず送風機で膨らませて、ある程度膨らんだところでバーナーを燃やして気球を立てた。28人乗りの気球は巨大だった。トラックでバックに引っ張ってかごを起こしていよいよ乗り込んだ。3人ないし4人ずつに区切られている所に乗って、飛行の許可を待ったが、他の気球が天辺を開けてしぼみ始めた。どうしたことか安全のために飛行を取り止めるという。強風が理由らしい。地上ではそんなに強い風と感じなかったが、安全のためと言われてはやむを得ない。初めての気球体験は空振りに終わった。それでもどういうものかは幾分は理解した。船に戻って朝食を摂って、午前9時からルクソール西岸観光に出かけた。太陽の昇る東岸は「生者の町」で、太陽の沈む西岸は「死者の町」と呼ばれているという。遺跡の入り口に立つ2体のアメンヘテプ像のメムノンの巨像を見て、王家の谷に入った。ここには新王国時代の歴代ファラオが埋葬されている。まずツタンカーメンの墓に入った。この墓は例外的に盗掘を免れた。ツタンカーメンのミイラもここに眠っていた。その後さらに2つの墓に入って見学した。レリーフがどれも素晴らしかった。またそこに書かれているヒエログリフを解読できて、いろいろ当時の状況が分かるようになっているという。次にハトシェプスト女王葬祭殿を見た。3層のベランダからなる広大な葬祭殿で、後ろの岩壁と調和してその美しさが際立っていた。最後に貴族の墓に立ち寄った。壁画や彫刻が美しかった。気球体験を除いてすべてを経験できた。一旦船に戻って、昼食を摂って、帰り支度をして午後5時前にルクソール空港に向けて船を後にした。ルクソールは定刻よりもいくらか早く午後730分に発って、ドーハには午後11時に着いた。

 

 

平成24313 火曜日 晴

ドーハを午前2時近くに発って、ペルシア湾を渡り、パキスタン、インド、中国を越えて関西国際空港に午後4時過ぎに着いた。そこで一度手荷物検査をして、成田には午後7時過ぎに着いた。帰りは京成で日暮里まで来て、巣鴨でラーメンを食べて、午後9時半過ぎに帰ってきた。中東のドーハを見学できたのと、エジプトの遺産の壮大さを実感できた旅だった。5000年前から2000年前まで、最先端の素晴らしい文明を築いた古代エジプト、しかし現代は欧米に後れを取っている。エジプトがかつての輝きを取り戻す日が来るのだろうか。

 


遥かなるナイル川 

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