中国仏教について


仏教伝来
 インドに興った仏教がいつ、どのようにして中国に伝えられたかは諸説ありま
すが、いずれにせよ紀元前後からシルクロードを往来する隊商とともに西域を経
て、順次伝来されて来たとみられています。
 伝来後200年ぐらいの間は布教者もおらず、経典の漢訳もごく僅かということも
あって、仏教は一部知識層の間に留まり、一般の民衆にまでは及ばなかったよう
です。
 宗教が広く浸透する背景には社会不安などがあると言われていますが、中国の
場合も後漢が紀元220年に滅亡して三国(魏・蜀・呉)時代となり、さらに五胡十六
国時代に入るにつれ、世の中は大変乱れ、救いを求める声が世にあふれていまし
た。
 各国の王たちは国家の鎮護と安泰を仏教に求め、競って西域の僧を招いたため、
ここに仏教は広く中国各地に根をおろすことになりました。
 こういった仏教普及の背景には、とくに五胡十六国時代には北方や西方諸民族
の支配の下で、社会が中国の伝統思想にしばられることがなかったことや国教と
されていた儒教が形式化して人々の心から離れていったことがあげられます。

渡来僧と求法僧
 渡来僧の最初は2世紀の後半、西域地方から洛陽に渡った安世高と支婁迦讖で、
安世高は小乗経典、支婁迦讖は大乗経典(般若経典や浄土経典)を伝えたといわれ
ています。また3世紀には康僧鐙(大無量寿経訳)・竺法護(法華経訳)・僧伽堤婆(阿
含経訳)などが渡来し、訳経に従事、その後4世紀に渡来した鳩摩羅什は西域の王
家に生まれ、若くして名僧の評判が高く、中国の国家的事業であった仏典翻訳に
携わり、300余に及ぶ経典を漢訳したといわれます。今日われわれが手にする「般
若心経」「法華経」「維摩経」「阿弥陀経」などの諸経は、みな彼によって翻訳された
ものです。五世紀には仏駄跋陀羅(六十華厳訳)・畺量耶舎(観無量寿教訳)・衆賢
(律蔵を伝える)、6世紀から7世紀にかけて菩提達磨(禅を伝える)・真諦(摂大乗論
訳)菩提流支(十地論訳)、さらに8世紀の初め真言密教を伝えた善無畏(大日経訳)
、これを大成させた金剛智・不空(金剛頂経訳)などは特に有名です。
 一方身命を顧みず、インドに渡り困難を克服した求法僧には法顕(仏国記、399〜
413)・玄奘(大唐西域記・629〜645)・義浄(南海寄帰内法伝、671〜695)などがいま
す。なかでも玄奘は,孫悟空の登場する「西遊記」(16世紀・呉承恩著)の三蔵法師の
モデルとしても有名です。これらの求法僧は65人にも及んだそうですが、成功し
たのは上の3名を含め僅か5名。あとの60人は無念の涙を呑んで貴い犠牲となった
のです。
 これを見ても当時の中国人が如何に真の仏法を求めて止まなかったかがわか
ります。

中国仏教の特徴
 ー中国思想との融合ー
 中国には仏教が伝わる以前から、すでに殷・周の文化や孔孟の教え(儒教)、老荘の
思想(道家)など諸子百家といわれる古くからの思想文化の流れがあり、しかもこ
れらの思想は倫理・道徳的であると共に現世利益的なものであったとともいわれ
ています。
 そこへ持ち込まれた、どちらかというと哲学的で過去や未来の世界を説く仏教が
、これら既存の文化思想の影響を受け、中国化への変質がなされたのが第一の中国
仏教の特徴です。
 仏教はまず老荘思想と接触します。般若経の「空」の思想は老子の「無」の思想を
通して理解され、道教の持つ不老長寿の神仙術や符呪(まじない)祈祷の影響を受
けて、次第に現世利益的なものへと変質していったようです。
 また儒教の影響とも思われるものに親孝行を説く「父母恩重経」とか、祖先の崇拝
供養を説く「盂蘭盆経」の創作があります。(これに基づく盂蘭盆会の行事が今日、
私どもが行っているお盆の起源といわれています)
 ー宗派の成立ー
 中国仏教の第二の特徴は十数派という宗派が出現したことです。
 インドでは「戒(道徳的基準)・定(宗教体験)・慧(絶対的真理)」を一貫とした実践
としているのに対して、中国ではその何れか一つに重点を置くと、他を軽視する風
潮があったようで、まず律宗(戒)・禅宗(定)・経宗(慧)の三派ができ、それが次第に
分派したといわれます。
 ー原典の翻訳ー
 中国仏教の第三の特徴は、仏教仏典の翻訳事業にあります。
 渡来僧あるいは求法僧によってもたらされた膨大な原典を何世紀にもわたって
翻訳し、ついに十世紀末宋代に至って漢訳大蔵経の完成をみたのです。それは仏教
伝来以後、歴代の国王が翻訳事業を国家的事業として、訳経院あるいは印経院(印
刷所)という官制まで設けて努力した賜といわれます。
 ー大乗性ー
 さらに中国仏教は小乗を捨てて大乗、しかも中国化された新大乗ともいわれる特
徴をもっています。これは大きくは中国人の民族性にもよるものとされています
が、直接的には六世紀にでた天台大師智(538〜597)や、つづいて七世紀にでた賢
首大師法蔵(643〜712)らの教相判釈(釈尊の教えを分類体系づけること)によって
小乗の教えは初歩的で幼稚な教えだと判定されたためといわれたためといわれま
す。

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    中国仏教の宗派
      律宗・禅宗・経宗の三派にはじまった中国仏教の宗派は、その後時代の変遷を経て
     、日本とも関係の深かった隋・唐の時代には概ね、次の十三宗に分かれていたよう
     です。
     毘曇宗
     説一切有部(上座部系)の論書「阿毘曇心論」「阿毘達磨倶舎論」などを研究する学派
     で、別名倶舎宗ともいわれ、法相宗の寓宗(付属する宗派)。
     成実宗
     鳩摩羅什訳の「成実論」を研究する学派で、三論宗の寓宗。智らがこれを小乗と判
     定して以来、急速に衰えました。
     三論宗
      鳩摩羅什訳「中論」「十二問論」「百論」の三論を中心に研究する学派で、吉蔵(嘉祥大
     師・549〜623)によって大成されました。
     摂論宗
      真諦訳「摂大乗論」を研究する学派でしたが、法相宗の勃興とともに衰えました。
     法相宗
      玄奘訳「成唯識論」を研究する学派で玄奘(600〜664)・窺基(慈恩大師 634〜682)を
     中心として大成されました。
     地論宗
      菩提流支訳「十地経論」を研究する学派。この論書は華厳経のなかの「十地品」を注
     釈したもので、のち華厳経が起こるとそのなかに吸収されました。

      以上の六宗はいずれも論蔵に収録されている論書を中心として、仏教を研究する
     宗派のため一般に論宗といわれ、信仰的要素よりも学究的傾向が強い宗派です。
      さらにこれらの論書が、すべてインドの仏教学者の著作であるため、インドにおけ
     る仏教哲学をそのまま延長したにすぎず、まだ中国的色彩は見当たらないといわれ
     ます。

   涅槃宗
      「涅槃教」を拠りどころとした宗派で、南北朝(5世紀半ばから6世紀末にかけて漢人
     の南朝と鮮卑=古代北アジアの遊牧民族 が対立していた時代)の頃流行していまし
     たが、天台宗の隆盛に伴って、これに吸収されました。  

     天台宗
      「妙法蓮華経」を拠りどころとし慧文(550〜577)・慧思(515〜577)・智(538〜597)
     と伝えられ・智(天台大師)によって大成されました。

     華厳宗
      「華厳経」を拠りどころとし、杜順(557〜640)・智儼(602〜668)・法蔵(643〜712)と
     伝えられ法蔵(賢首大師)に至って大成されました。

     浄土宗
      「浄土三部経」を拠りどころとする宗派ですが、この法系(仏教宗派の系統)は大き
     く分けて三つあり、そのうち曇鸞(476〜542)・道綽(562〜645)・善導(613〜681)の系
     統が主流です(わが国の浄土教はこの流れです)。

     真言宗
      「大日経」など密教経典を拠りどころとし、金剛智(571〜641)・不空(705〜774)によ
     り大成されました(空海は不空の弟子恵果に学びました)。

      以上の五宗は経蔵所収の経典を拠りどころとしていることから経宗とよばれ、
     さきの論宗に比べ、信仰的要素が強く、さらに中国化の傾向をもった宗派といわれ
     ます。


     律宗
      律蔵所収の文献を中心とする宗派で、5世紀末衆賢により伝えられ、道宣(596〜66
     7)により大成されました。

     禅宗
      6世紀の初め、梁の武帝のとき、菩提達磨(達磨大師)によって伝えらたもので、他の
     学派と違い、拠りどころとなる経論を立てないばかりか、不立文字・教外別伝を主唱
     する宗派で7世紀から8世紀にかけて大成されました。

     このように分かれていた宗派も次第に統合され、10世紀の後半、宋代に入ってから
     は禅宗と浄土宗の流れが主流になったといわれます。
 
不立文字と教外別伝
「不立文字」は文字すなわち経・論の否定で経論にとらわれ 肝心の仏法そのものをおろそかにすることを戒めたもの。 「教外別伝」は仏法の悟り(成仏)というものは経論(教)と は全く別個(外)な実践の世界においてのみ相承(別伝=心か ら心へと伝える)されるという意味です。