ファミリー版 中国の歴史 P14 (その歴史と文化)
参考文献 中 国 史:山川出版社 中国の歴史(3巻):貝塚茂樹  世界歴史体系(全19巻): 山川出版社 図説・中国の歴史(全12巻):講談社 アジアの歴史:藤塚禮乃助編     岩波講座 世界歴史(全29巻):岩波書店
アジア歴史辞典(全10巻):平凡社 ほか 中国全図こちら ]U欧米列強の侵入 康熙帝から乾隆帝へと続いた清の全盛も18世紀の後半になると、あいつぐ外征による出費の増加や社会における貧富の差の拡大などによって衰えを見せ始め、おりからの人 口の爆発的増加による土地・食糧の不足とあいまって民衆の生活は大変苦しくなり、各地で民衆の反乱や抵抗運動が続発し、なかでも白蓮教徒の乱は清の国力を大きく低下さ せました。 19世紀に入り、清朝が衰退に向かっていた時期に、欧米列強は清朝中国に経済進出と侵略を開始、アヘン戦争、アロー戦争に敗れた清朝は各国に領地割譲や租界の設定などに より半植民地化が進んでいきました。 一方アヘン戦争後の混乱の中で、民衆の支持を得た洪秀全は太平天国を建国し、一時は300万人を超す勢いとなりましたが、やがて清朝軍と欧米列強軍によって平定されまし た。太平天国の乱は漢民族の勢力を強めるとともに、その後の民族運動に大きな影響を及ぼしました。 その後の日清戦争の敗北や列強諸国の盛んな中国大陸進出により、民衆の不安はさらに高まっていきましたが、山東省におこった義和団は北京に進出し外国公使館を包囲し ました。西太后ら清朝保守排外派はこれを支持して列強に宣戦を布告しましたが、義和団と清朝軍は列強の近代兵器の前に鎮圧され、列強の中国に対する干渉は更に強まり、 中国の半植民地化はいよいよ決定的なものとなりました。

(*1)ジュンガル 部 17〜18世紀に北 西モンゴルと天 山北路にいたオ イラート-モンゴ ル族とその国家。 (*2)抗租・抗糧 抗租は佃戸(小 作農)が地主に対 する小作料の減 免運動で、抗糧は 土地所有農民の 国家に対する納 税忌避運動のこ と。 (*3)半植民地 名目上は独立国 であっても、外国 資本の進出によ って経済的自由 を失った国の状 態で、19世紀後半 以降の中国やイ ランが典型とさ れます。 (*4)欽差大臣 中国の清代に臨 時に設置された 官職で皇帝から 特定の任務にお ける全権を委譲 されたものの中 で、位が三品以上 の大臣。 (*5)円明園 中国の北京北西 郊にあった清朝 の離宮。 世界一の名園と 云われましたが、 アロー戦争によ り破壊され廃墟 となりました。


円明園址
(*6)厘 金 清朝が1853年以 降、太平天国の乱 を鎮める軍事費 捻出のため、国内 各地に税関を設 けて、通過する商 品にかけた流通 税。 (*7)客 家 (ハッカ) 戦乱や生活苦の ため、華北地方か ら南方の福建・広 東・広西省や四川 省などの山岳地 帯に流れてきた 漢民族で、一般に 先住民からさま ざまな差別と圧 迫を受けながら、 貧しい生活を送 っていました。 (*8)纏 足 (てんそく) 中国で3〜4歳の 女子の足を固く 巻き、さらに7〜8 歳で脱臼させて 足の発育を妨げ、 小さくした習慣。
纏足は美人の条 件とされ、儒教道 徳の下で女性を 外に出さないこ とに役立ちまし た。 (*9)常勝軍 太平天国鎮圧の ために、英米人を 将校として、洋式 に訓練武装され た義勇軍。 (*10)甲午農民 戦争 李氏朝鮮の末期 に東学党(民俗信 仰を基礎とした 新興宗教)を中心 として起こった 政治腐敗や欧米 列強の圧迫に対 する農民反乱。 (*11)八股文 儒教の経義に対 するテーマを、煩 瑣な規則をとも なうきわめて固 定された形式の 中で論ずるもの で、科挙の試験の 中心をなすもの でした。


<清の衰退>
 康煕・雍正・乾隆と続いた清の全盛も18世紀後半になるとチベット、ジ
ュンガル部(*1)の征服などあいつぐ外征による出費、官僚の腐敗、国民
の間の貧富の差の拡大(官僚・地主・富商への土地集中、中小農民の土地
喪失と貧困化)などによって動揺しはじめ、折からの人口の爆発的増加
による土地や食糧の不足とあいまって、民衆の生活を大変苦しめまし
た。
 このため乾隆帝の時代も後半になると各地で民衆の反乱や抵抗運動
が続発するようになりましたが、これらの反乱、抵抗運動には抗租・抗
糧(*2)と呼ばれる経済闘争のほか秘密宗教結社に率いられたものが多
くありました。元末以来、明・清と根強く活動を続けてきたこれらの秘
密宗教結社は一般に白蓮教といわれますが、1774年に山東省でおきた
清水教の乱は、この時期における白蓮教結社の反乱の皮切りとなり、1
796年に始まった白蓮教徒の乱(嘉慶白蓮教の乱)は湖北・四川省を中心
に10年に及ぶ大乱となりました。清朝はこの乱の平定に苦しみました
が、清朝正規軍(八旗・緑営)の腐敗と弱体化が露呈され、反乱の平定に
はむしろ地方官や地主層によって組織された地方自衛軍(郷勇)の活躍
によるところが大きくなりました。
 また戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出費は清の国力を大
きく消耗させました。その後も白蓮教結社の地下活動はやまず、1813年
には教徒が不意をついて北京の宮城内に乱入するという天理教徒の乱
がおきています。またこの時代には「反清復明」を唱える天地会・哥老会
など会党と呼ばれる民間の政治的秘密結社の活動も盛んになりました

白 蓮 教
白蓮教の名は、遠くは東晋の彗遠の白蓮社、南宋の茅子元の白 蓮教に由来するといわれますが、反体制的な性格を持つ「革命の 宗教」として成立したのは元末であったと考えられています。 その教えの中心となるのは、弥勒下生説(釈迦仏の入滅後、56億 7000万年後に弥勒仏がこの世に現れて、人々を救済するという もの)で、弥勒が現れる直前には「天下大乱」があって、そのなか であらゆる既存の権威や秩序は滅び、弥勒の出現とともに新し い世が始まることを説いています。 元末の紅巾の乱は、こうした信仰を持つ白蓮教結社の反乱とし て展開されたものでした。明朝以降、王朝権力は白蓮教を危険思 想とみなして厳重な弾圧を加えましたが、白蓮教結社は地下に 潜伏して活動を続け、明代だけでも80数件の反乱事件をおこし ています。こうした白蓮教の活動は途絶えることなく清代に継 承され、清末の義和団も白蓮教の流れをくむといわれます。 なお、明清時代の白蓮教結社は、地域や系統によってそれぞれ 固有の名称(上記の清水教・天理教のほか混元教・聞香教・西天大 乗教・八卦教など)を持ち、一般にこれらを総称して白蓮教と呼 んでいます。
<アヘン戦争> 19世紀に入り、清朝が衰退に向かっていったその時期に、産業革命を 達成したイギリスをはじめとする欧米諸国は、強大な経済力と軍事力 を武器に中国への積極的な経済進出と侵略を開始しました。こうした 欧米列強と清朝中国との最初の武力衝突がアヘン戦争です。 この戦争で、イギリスに惨敗した中国は以後、欧米列強の激しい経済 進出と侵略にさらされ、次第に半植民地(*3)化への道をたどることに なりました。 また、この敗戦と欧米近代文化の流入は、それまでの伝統的な中華思 想、すなわち中国中心の中国文化至上の世界観を大きくゆるがしてい きました。アヘン戦争をきっかけとする欧米列強の中国進出は政治・経 済・文化などのあらゆる面で伝統的中国社会にウェスタン=インパクト と呼ばれる激しい衝撃と動揺をあたえました。その後の中国は半植民 地化の進行という困難な情勢の中で外圧への抵抗をつうじて、伝統的 社会からの脱皮を模索し、実現していかねばなりませんでした。その意 味でアヘン戦争は中国の近代化の起点といわれます。 ー清朝の制限貿易ー 18世紀になるとイギリスはポルトガル・オランダなどを圧倒して中国 貿易を独占していきましたが、清朝側は1757年の乾隆帝の決定により、 海外貿易を広州一港に限定した上、中国との取引は公行と呼ばれる清 朝指定の少数の特許商人(およそ10行ほど)との間でのみ許可するとい う厳しい制限貿易を行っていました。 このため、これを不満とするイギリスは1793年にマカートニーを、181 6年にはアマーストを派遣して制限貿易の撤廃を要請しましたが、海外 貿易をあくまで従属国からの朝貢としてとらえる清朝は、これを全く 受けつけませんでした。こうした清朝の中華思想的立場はイギリス使 節との会見に際して生じた三跪九叩頭礼問題によく表れています。 ーアヘンの流入ー イギリスの対清貿易は、当初はイギリスが中国の茶(紅茶)を一方的に 輸入し、代価を銀で支払うという完全な片貿易(イギリス側の入超)に なっており、毎年イギリスから中国へ大量の銀の流出が続いていまし た。 とくにアメリカの独立によって最大の植民地であった北米植民地を 失ってからは、イギリスは中国への銀の支払いに苦しむようになりま した。このためイギリスは18世紀になるとインドでアヘンを製造させ、 本国の綿製品をインドに輸出してアヘンを購入して、インド産アヘン を中国に輸出して茶(紅茶)の代価にあてるという三角貿易を開始しま した。 これによってアヘン吸飲の悪習が中国社会に広まり、清朝政府 のアヘン輸入・吸飲禁止令にもかかわらず、アヘンの密輸量は年をおっ て増加し、1830年代になると、ついに中国側がイギリスに対して入超に なり、代価として茶だけでは足りず、逆に中国からイギリスへ大量の銀 が流出するようになりました。こうした銀の大量流出は銀貨の高騰を 招きましたが、地丁銀制では納付すべき税額が銀貨によって定められ ていたため、銀貨の高騰は農民の負担を増大させ、生活を圧迫していき ました。 アヘン密輸の害を憂慮した道光帝はアヘンの輸入・販売・吸飲の根絶 を目指し1838年、アヘン厳禁論を唱える林則徐を欽差大臣(*4)に任命 してアヘン問題の解決に当たらせました。翌年広州に着任した林則徐 は、アヘン2万箱を没収して焼却した上、イギリスに対してアヘン貿易 を停止しないかぎり、一般貿易をも断絶するという強硬策にふみきり ました。 しかしイギリスにとっては英領インド植民地においてアヘンからの 収益金がその歳入の約6分の1を占め、インド農民にもイギリス製綿製 品に対する購買力を与えるなど、アヘンはすでにイギリスの世界貿易 体制に欠かせないものになっていました。また1834年には東インド会 社の中国貿易独占権が廃止され、中国に対する貿易自由化の要求が益 々高まっていた矢先でもありました。そこでイギリスはこれを機会に 武力によって自由貿易そのものを実現させようと1840年、中国に遠征 軍を送ってアヘン戦争をおこしました。 ー南京条約ー 戦争は近代的武器を持つイギリス軍の圧倒的優勢に終始し、北上した イギリス艦隊が北京の外港である天津に迫ったため、道光帝は動揺し て林則徐を罷免し、外国交渉による停戦を図ろうとしました。この結果 1842年に南京条約が締結されて、アヘン戦争は終結しました。 南京条約では (1)香港島の割譲 (2)上海・寧波・福州・厦門・広州の五港開港 (3)公行の廃止による完全な貿易自由化(4)賠償金2100万ドル の支払い などが決まりましたが、さらに翌1843年には虎門寨追加条約が結ばれ これは (1)領事裁判権(治外法権)(2)関税自主権の喪失 (3)一方的 最恵国待遇 などを内容とする不平等条約でした。

最恵国待遇
最恵国待遇とは、ある国が複数の国と条約を結んでいる場合、 そのうちのA国に対して、特に有利な取り決めを行った場合に その取り決めはA国以外のすべての条約締結国にも自動的に 適用されるというものです。 近代国家間では相互に最恵国待遇を与えるのが通例ですが、 清と欧米列強との条約では清国側のみが一方的に相手国に最 恵国待遇を与えるという不平等なものでした。
清朝は1844年にアメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結んで 両国にもイギリスと同様の権利を承認させられ、イギリスは1845年に 最初の租界を上海に設定しました。こうして南京条約以降、中国は主 権の一部を失った不平等条約のもとで、欧米列強の激しい進出にさら され半植民地化の道を辿ることになりました。

租 界
イギリスは虎門寨追加条約により、開港場において土地を借 り入れることを認められ、のちには借り入れた土地ではイギリ スが行政・司法・警察権を保有することを認めさせました。 このような土地を租界といい、こうした条件で土地を借り入 れることを租借といいますが、これは中国内に外国領が設けら  れるに等しいもので、やがて他の列強諸国もイギリスにならっ て各地に租界を設定し、中国の半植民地化を進めていきました。
<アロー戦争> アヘン戦争後も、欧米列強の中国への輸出は清朝の排外的態度や閉 鎖的で自給自足的な小経済圏が、地方ごとに分立するという中国の社 会経済の特質に阻まれて、期待したほどに伸びませんでした。このた め列強はより一層の貿易拡大を求めて条約改定の機会を窺っていま したが、たまたま1856年10月、広州でイギリス船籍の小帆船アロー号 が海賊容疑によって清朝官憲によって検問され、中国人乗組員十数名 が逮捕されるアロー号事件がおきました。イギリスは事件の際にイギ リス国旗が引き降ろされて侮辱されたとして、出兵を強行し、フラン スのナポレオン3世も、同年広西省でおきたフランス人宣教師殺害事 件を口実としてイギリスに同調、両国が連合して清に開戦し、アロー 戦争(第二次アヘン戦争ともいいます)が始まりました。英仏連合軍は 、広州を占領したのち北上して天津に迫ったため1858年、清朝は屈服 して天津条約を結びました。 条約は(1)各国公使の北京駐在 (2)キリスト教の信仰および布教の自由 (3)外国人の中国内地旅行の自由 (4)開港場の増設(新たに10ヶ所設定) (5)賠償金の支払い などを内容として英仏両国のほか条約改正の趣旨に同調したロシア ・アメリカも加えた4カ国の間で結ばれました。 しかし皇帝咸豊帝をはじめ、清朝の朝廷には排外的空気が強く、条約 の細部の調整が進まないうち、天津条約の批准書交換のため北京に乗 り込もうとした英仏連合公使の船が清軍から砲撃されるという事件が おき、戦争が再びはじまりました。 1860年、英仏連合軍は北京を占領し、円明園(*5)の破壊などの略奪を 行いました。 このため同年、清朝はロシア公使の仲介により、英仏両国と北京条約 を結んで講和しましたが、この条約では天津条約の内容が確認された ほか (1)天津の開港 (2)香港対岸の九竜半島の一部をイギリスに割譲 (3)賠償金の増額 などの条項が追加されました。 アロー戦争後アヘン貿易は完全に合法化され、中国市場は欧米列強 に、ほぼ全面的に解放されました。また外国商品には国内関税である 厘金(*6)が免除されたため、外国製品は中国製品に対して著しく有利 になり、大量の外国製品が流入して木綿工業をはじめとする中国の伝 統産業は大打撃を受けました。 また租界も上海のほか、広州・天津・厦門などにも設置され、中国は列 強からの政治・経済上の圧力を益々強く受けるようになり、半植民地 化が一層進んでいきました。 <大平天国> アヘン戦争後、アヘン輸入量の増加や多額の賠償金の支払いは銀価 の高騰や重税となって民衆にはねかえり、おりからの天災も加わって その生活を一段と苦しめました。失業者や流民の数は増え、地方の治 安は悪化し、会党(民間の政治的秘密結社)の活動なども活発となりま した。こうした中で広東州の客家(*7)出身の洪秀全は、科挙落第の挫 折を重ねたのちキリスト教伝道書との出会いをきっかけとして1843 年、キリスト教的色彩を持つ宗教結社「上帝会」を創始し、広西省を中 心に多くの信徒を集めました。 1851年、洪秀全は広西省金田村に信徒を集めて挙兵し、太平天国の建 国を宣言、自らを天王と名のりました。太平軍は広西から湖南、湖北を 転戦するうちに、窮乏した農民や流民、会党員などを吸収して巨大な 集団へと成長し「滅満興漢」(満州人王朝の清を滅ぼし漢人国家を樹立 する)の強烈な民族主義をスローガンに掲げ、辮髪を断って清朝打倒 の意志を表明しました。太平軍は規律の乱れた清朝正規軍とは対照的 にきわめて規律厳格であったため、いたるところで民衆の支持を受け 、漢口、武昌などを占領したのち、1853年に南京を占領して首都と定め 天京と定めました。その後太平天国は天朝田畝制度を発布してその理 想とする国の姿を掲げ、男女の平等をうたい、纏足(*8)やアヘン吸飲の 悪習を禁止するなど革新的政策を打ち出し、上帝のもとでのすべての 人間が平等な理想社会を建設しようとしました。 太平天国の信徒は1854〜55年の全盛期には300万人を数えたといわれ ますが、やがて天津近郊まで迫った北伐軍が清朝側の反撃により壊滅 したことや、天京政府首脳部の内紛により衰えはじめ、一方清朝側では 漢人地主階級を中核とする郷勇(義勇軍)が各地で組織され、弱体な正 規軍(八旗・緑営)にかわって太平軍と戦うようになりました。 また欧米列強も当初は中立を保っていましたが、アロー戦争終結後は 清朝側につき太平軍は次第に追いつめられ、1864年6月には天王洪秀全 が病死、翌月には天京が陥落して、太平天国が滅びました。 太平天国の動乱は清朝政府や正規軍の無力ぶりを明るみに出し、曾国 藩や李鴻章ら郷勇を率いて活躍した漢人官僚が政治の中枢に進出する きっかけになったほか、反乱平定に際して地方長官(総督・巡撫)に地方 の軍事・行政・財政権を委ねたことは、清朝以降の中国の政局の一大特 色をなす地方分権への道を開くものでした。また巨大な民族運動とし て、孫文や毛沢東などに大きな影響を与え、その後の民族運動や革命運 動の原点ともなりました。 <洋務運動> アロー戦争後の清朝では、幼年の同治帝にかわって叔父の恭親王奕所 が朝廷の中心となり、従来の排外主義を転換して、外国との和親や西欧 の進んだ技術を取り入れ、近代産業の育成と富国強兵による国家体制 の再建を図ろうとする洋務運動がすすめられました。 洋務運動を主導したのは、太平天国の平定に活躍した曾国藩・李鴻章・ 左宗棠や張之洞らの漢人官僚で、軍需産業を中心とする近代的工場の 設立、海軍の創建(李鴻章の北洋艦隊、左宗棠の福建艦隊など)、鉱山の 開発、鉄道の敷設、外国語学校の設立などが推進されました。 洋務運動が推進された同治年間は列強の進出も一段落して、内外共に 一時的な安定がもたらされたので、この時期を同治中興と呼んでいま す。しかし洋務運動は「中体西用」をモットーとしたように、あくまで君 主独裁にもとづく清朝の伝統的国家体制の維持を目的とするものであ り、政治体制の変革や中国社会全体の近代化を目指すものではありま せんでした。 また近代産業の導入も国家・官僚の主導で行われたため、設立された 官営または半官半民の企業は、営業独占権など強力な特権を持ち、かえ って民間企業の成長を阻害する結果となったうえ、官僚と企業の結び つきは洋務運動が官僚個人の私的蓄財に利用されるという面も持つこ とになりました。 こうしたことから洋務運動は充分な成果をあげることが出来ず、やが て清仏戦争と日清戦争の敗戦によって挫折に追い込まれました。 <日清戦争> 1876年、日本と朝鮮との間に結ばれた日朝修好条規の締結は李氏朝鮮 の宗主国の立場にあった清を刺激し、清朝側でも李鴻章が中心となっ て朝鮮に対する干渉が進められました。当時朝鮮の李朝内部では複雑 な政治抗争がおきており、これにからむ形で朝鮮半島における日・清の 対立が深まっていきました。

朝鮮での日本と清国の対立
朝鮮では1882年、当初日本に接近して内政改革を進めていた 閔妃派の政府に対して保守派の大院君が軍隊を煽動してクー デターをおこしましたが、李朝に対する干渉強化の好機とみた 清朝は大軍を派遣して大院君をとらえ閔妃政権を復活させま した(壬午政変)。この事件後閔妃派は急速に清に接近するよう になりましたが、清のこのような勢力下で李朝の安全維持をは かる一派(事大党)に対して金玉均、朴泳孝らの急進的改革によ り朝鮮の近代化を目指す一派(独立党)は日本の明治維新をモ デルとして、日本との提携を図っていきました。 1884年、清仏 戦争による清の敗戦に乗じて独立党は日本の後援下に事大党 政権打倒のクーデターをおこしましたが、清軍の出動によって 失敗に終わりました(甲申の政変)。事件後日清間に天津条約が 結ばれ、両国の朝鮮からの共同撤兵や非常時の出兵に際しての 事前通告などが約束されました。
1898年、朝鮮に甲午農民戦争(東学党の乱)(*10)がおこると李朝政府は 清に軍隊の派遣を要請し、清軍が朝鮮に出兵すると、これに対抗して日 本も直ちに出兵しました。反乱が日・清両国の朝鮮侵略を招く危険性を 察知した李朝政府と東学党は停戦協定を結びましたが、事件を朝鮮半 島における勢力拡大の好機と考える日本は清国に対して甲午農民戦争 の日・清両国による徹底鎮圧を提案し、李朝政府には内政干渉的要求を つきつけるなど事態の紛糾と拡大化をはかりました。 1894年、日・清両国による甲午農民戦争の徹底鎮圧の提案が清朝側に 拒否されると日本は7月末、清軍に奇襲攻撃をかけ日清戦争が勃発しま した。戦いは9月の黄海海戦で日本が清国海軍の主力の北洋艦隊を壊滅 させ、平壌の戦いで清国陸軍を朝鮮から退却させるなど、陸・海とも軍 備の近代化で勝っていた日本の圧勝に終わり、翌年下関条約が結ばれ、 両国は講和しました。 その結果 (1)朝鮮は独立(清は宗主国の立場を放棄) (2)日本への台湾・澎湖諸島・遼東半島(のち三国干渉に より中国へ返還されました)の割譲 (3)賠償金2億両(テール)の支払い (4)重慶・杭州・蘇州・沙市4港の新規開港と開港場での 企業経営権の承認 (5)一方的最恵国待遇 などが決定されました。 日清戦争の結果、日本は朝鮮半島から清の勢力を一掃して、大陸侵攻 への足場を築きましたが、同時にそれは極東での南下を推進するロシ アと勢力圏を接することになり、新たにロシアとの深刻な対立をひき おこしていきました。 一方それまで「眠れる獅子」としてその潜在的な力を恐れられていた 清朝は、小国日本に惨敗することで、その弱体ぶりを暴露し、これより 欧米列強と日本の中国戦略はいっそう激化していきました。 またこの敗戦によって洋務運動は最終的に挫折し、かわって敗戦の中 から清朝政治体制の変革を唱える変法運動がおこっていきました。 <列強による中国利権の争奪> 日清戦争での清の敗北は「眠れる獅子」として恐れられていた清朝の 弱体ぶりをさらけ出し、これを見た欧米・日本の帝国主義列強は租借地 の拡大や鉱山開発・鉄道敷設の利権獲得など、中国に対する野心を益々 発揮して、競って自己の勢力圏の拡張にのり出していきました。 こうして1890年代後半から、列強の中国侵略は一段と激しさを増し、 列強による「中国分割」という情勢の中で中国の半植民地化は新たな段 階に入っていきました。 ーロシアー 1891年より、ヨーロッパ=ロシアからシベリア平原を横断してウラジ ヴォストークにいたるシベリア鉄道の建設に着手し、極東での南進の 機会をうかがっていたロシアは1895年、露仏同盟により同盟関係にあ ったフランスと、対外膨張政策を推進する皇帝ヴィルヘルム2世のもと で中国分割への野心を抱くドイツを誘って日本に干渉し、下関条約で 日本に割譲された遼東半島を清に返還させました(三国干渉)。 ロシアはこの清朝に対する厚意への代償としてシベリア鉄道に接続 して東北地方(満州)経由でウラジヴォストークにいたる東清鉄道の敷 設権を獲得しました。また1898年、ドイツが宣教師殺害事件を口実に清 朝から膠州湾(山東半島)の租借権を獲得すると、ロシアも遼東半島の 旅順に艦隊を派遣して旅順・大連の租借を認めさせ、念願の不凍港を手 に入れました。こうしてロシアは清朝の東北地方を勢力圏として、さら に朝鮮半島に対する圧力をも強めることになりましたが、これは朝鮮 の利権独占を意図する日本や、北京・奉天(南満州の中心都市)間を結ぶ 京奉鉄道の敷設を進めているイギリスに大きな警戒感を呼び起こし、 極東情勢の緊張を高めることになりました。 ーイギリス、フランスー ドイツとロシアの強引な租借の成功をみたイギリスは、これに対抗し て、1898年に香港島対岸の九竜半島と山東半島東端の軍港、威海衛を租 借し、フランスは1899年に広州湾を租借しました。 また租借地のほかにも、列強は鉄道敷設権や鉱山採掘権を独占的に保 持するそれぞれの勢力圏を設定していきました。 こうして1899年ころまでに、ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イ ギリスは長江流域、フランスは華南の両広(広東・広西)地方、日本は台 湾の対岸の福建地方というように列強の勢力圏の塗りわけがほぼ定ま っていきました。 ーアメリカー 同じころ、アメリカでは共和党のマッキンリー大統領による帝国主義 的膨脹政策が本格的に進められ、米西戦争(1898)でフィリピンとグァ ム島を獲得し、太平洋から中国への進出の機運が高まっていました。 このためアメリカは、1898年に国務長官ジョン・ヘイの名で、門戸開放 宣言を発表して、中国市場の門戸開放と列国の機会均等の原則を提唱 して、翌年には中国の領土保全を唱えました。これは中国進出に遅れを とったアメリカが、先行する列強を牽制しながら、中国市場への割り込 みを意図したものでした。この宣言は、アメリカがヨーロッパの列強に 対しての希望を表明したものに過ぎませんでしたが、ヨーロッパの列 強諸国もこれに一応賛成したため、中国分割の動きは一旦緩和され、ア メリカ資本は中国市場への進出を果たすことができました。 <変法運動> 日清戦争の敗北は洋務運動を完全に挫折に追い込むとともに、中国の 知識人層に深い危機感をもたらし、特に若い知識人の間では、中国伝統 の専制体制をあくまで固守しようとする洋務運動のあり方を批判し、 中国に真の近代化のためには、伝統的な君主独裁体制そのものの変革 が必要であるという認識が強まっていきました。彼らは、西欧の近代政 治思想の刺激を受けるとともに、近代化への改革のモデルとして日本 の明治維新を強く意識し、欧米・日本の近代的政治体制と理念を取り入 れた議会政治や立憲君主制の樹立などを主張しました。 洋務運動にかわって1890年代に高揚したこのような中国の伝統的専 制体制の変革と議会政治や立憲君主制の樹立を目標とする近代化運動 を変法運動(変法自強)といい、その中心となったのが、公羊学派の儒学 者であった康有為です。 1890年代後半、帝国主義列強の中国侵略が再び激化する中で清朝と中 国の危機を救うため「君主立憲」を「君民一体」の政体へ転換する必要を 説く康有為の主張は若い光緒帝を強く動かしました。保守派の妨害を ふりきって政治改革を決意した光緒帝は1899年6月「明定国是(明らか に国是を定める)の勅令」を発布し、康有為・梁啓超らを登用して政治改 革を断行させました(戊戍の変法)。康有為らは科挙の改革(八股文(*11) を廃止し、西学を試験科目に入れる)や新官庁の創設、京師大学堂(北京 大学の前身)をはじめ、近代的学校の創設など多くの改革案を次々と発 布しました。しかし変法に反対する保守派は西太后(前帝同治帝の母) のもとに結束し、同年9月クーデターをおこして、光緒帝を幽閉し、政権 を奪取しました。康有為・梁啓超らは日本に亡命し変法派は一掃されて 戊戍の変法は僅か3ヶ月あまりで失敗しました(戊戍の政変)。 これ以後、西太后のもとで保守派が政権を握り、朝廷には排外的な傾 向が強まっていきました。 <義和団運動> 北京条約によってキリスト教の布教が公認され、教会が中国内陸部の 農村にも建てられるようになると、清朝の地方官憲や民衆と宣教師・信 徒との間にしばしばトラブルが発生し、また鉄道の敷設は大量の外国 製品の流入をもたらして、地方ごとにあった伝統的な手工業の生産機 構は破壊し、民衆の生活を不安に陥れました。とくに日清戦争後の帝国 主義列強の露骨な中国侵略の動きは、民衆の排外感情を一層刺激する ことになりました。 このため変法運動が展開されるのと同じ頃、民衆の間では、その日常 生活にまで入り込んできた外国勢力に対する排撃運動の波が、次第に 高まっていきました。地方各地に入っていったきりスト教は、しばしば 農村社会の伝統的慣習と対立する言動をとり(例:祖先神への尊崇や村 祭りへの参加拒絶)、また本国の帝国主義的侵略を積極的に手助けする 活動を行った者もあり、民衆の排外活動は、とくに教会の打ち壊しや宣 教師・信徒の襲撃といった反キリスト教運動となって現れました(仇教 運動)。 清末の華北一帯では帝国主義列強の圧迫による世情不安と生活の窮 迫を背景として秘密宗教・武術結社に入会する民衆が増えていきまし た。このような秘密宗教の中でも、山東省で起こった義和拳は白蓮教系 の八卦教の流れをくみ、拳法や棒術を熱心に修練し、お札を呑み呪文を 唱えれば、刀剣や銃弾をはね返すことが出来る(刀槍不入)といって多 数の熱狂的な信者を集めていきました。義和拳はもともと白蓮教の流 れをくむところから、仇教とともに反清的傾向が強かったのですが、清 朝の地方官憲が義和拳を排外運動に利用しようとして、これを団練(地 方自衛軍)として公認し、ひそかに支援する態度をとったことから、彼 らは新たに義和団の旗を掲げ「扶清滅洋」(清朝を扶け、西洋人を撃滅す る)のスローガンを掲げるようになり秘密宗教から武術結社となり、山 東から直隷(北京を含む現在の河北省)一帯に広がり、1900年には大挙 北上して天津・北京に迫る勢いとなりました。 同年6月義和団はついに北京に入り、各国公使館を包囲すると、これを 好機と判断した西太后ら清朝保守排外派は義和団を支援して、各国に 宣戦を布告しました。これに対して日本・ロシアを主力とするドイツ・ オーストリア・イギリス・フランス・イタリア・アメリカの八カ国は居留 民の保護を名目に共同出兵にふみきり、8月抵抗を排除して北京を占領 し、義和団は近代兵器の前に、粉砕されました(義和団事件、北清事変)。 義和団鎮圧後の1901年、清朝は列国との間に北京議定書(辛丑和約)を 結び、巨額の賠償金支払い(総計9億8000万両)、北京周辺の軍備撤廃、外 国軍隊の北京駐兵権などを認めさせられました。この和約では新たな 領土割譲こそなかったものの、列強の中国に対する干渉は更に強まり、 中国の半植民地化はいよいよ決定的なものとなりました。 前のページへ 次のページへ トップページへ

乾隆帝期の領域
清朝の支配領域は、60年に及ぶ乾隆帝の治世の後半(18世紀後半)に最大 となりました。

三跪九叩頭礼さんききゅうこうとうれい
三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対面するときの儀礼で、三度 ひざまづき、そのたびに3回づづ頭を床につけて拝礼するもので す。 マカートニーは乾隆帝との会見に際して、この三跪九叩頭礼を 求められて拒否しましたが、乾隆帝はイギリス人は礼儀を知らぬ 野蛮人であるからとして特別にこの三跪九叩頭礼を免除して謁 見を許しました。アマーストは嘉慶帝への三跪九叩頭礼を求めら れて、拒絶しましたが今度はそのために会見は許されず、むなし く帰国するほかありませんでした。

乾隆帝とマカートニー 東洋文庫蔵
マカートニーは中国式の儀礼を拒絶し、イギリス国王に対すると 際と同様に片膝をつく儀礼によって乾隆帝に謁見しました。 これは全く異例のことですが、ことさらに醜く描かれた乾隆帝の 容貌から当時の西洋人のアジアを見る目が窺われます。
 
ア ヘ ン

アヘン窟でアヘンの吸煙にふける人々
19世紀中頃 イギリスのエッチング
 
アヘンの焼却を描いたレリーフ

林則徐は没収したアヘンおよそ1400トンを塩水と生石灰の中 に投じ、23日かけて焼却しました。火で焼却しなかったのは、灰 と焦土から何割かアヘンが再製できたからです。 (山川出版社・世界史研究より)
  

アヘン戦争 東洋文庫蔵
広州を攻撃するイギリス戦艦ネメシス号(右端)
 
アロー事件の頃の広東 東洋文庫蔵


北京条約の調印式
1860年、アロー戦争の結果イギリスと清朝の間で結ばれました
 
洪秀全と「上帝会」
 洪秀全は客家の出身ですが、3回 目の郷試(科挙の地方試験)に失 敗して失意の病床にあった時に、 不思議な夢を見ました。 その夢とは自分が黒衣の老人か ら剣を授けられ、悪魔と戦うとい うものでした。 その後彼はプロテスタントの伝 道書「観世良言」と出会うことに よって、夢で見た黒衣の老人は 「上帝エホバ」であり、自分はエホ バの子、すなわちイエス=キリス トの弟「天帝」であるとの確信を 持つようになり、ついに宗教結社 「上帝会」を結成しました。上帝と はもともと儒教にいう天の神で あり、彼はこの中国古来の上帝を エホバに置き換えたのです。 広西・広東のやせた山岳地帯で 貧しい暮らしを送る農民や炭焼 き人たちは、上帝会の教えに救い の希望を託して、続々と入信し、 1851年の挙兵時には信者の数は およそ2万に達していたと言わ れます。

  
洪秀全
小学館・日本大百科全書より

イギリスと太平天国軍

天京攻防戦   東洋文庫蔵
揚子江をさかのぼっていたイギリス軍は1858年11月、天京付近で 太平天国軍と交戦しました。 不干渉・中立の態度をとっていたイギリスは清朝に加担するよう になり、ゴードンを常勝軍(*10)の指揮官として各地で太平天国軍 を破りました。

中体西洋論
洋務運動を主導した曾国藩らは、当時根強く残って いた排外主義・伝統固守の勢力に対して西洋文明導 入を合理化するために、中華の伝統文明が「体」(本体 、根本理念)であり、西洋文明は「用」(実用、応用)に過 ぎず[中学為体、西学為用]、したがってこれを導入す ることは中華の道を損なうものではなく、反対にこ れによって富国強兵を実現することで伝統文明を保 持できると主張しました。

曾国藩
山川出版社・世界史研究 より
 
日清戦争 栄城湾上陸

日本軍は清国北洋艦隊の基地威海衛攻撃のため、山東半島の 栄城湾に上陸しました。

大本営写真班撮影    小学館・大日本百科全書より
 
日清戦争 旅順攻撃

1894年、方家屯付近で攻撃中の日本軍山砲中隊

陸地測量部撮影    小学館・大日本百科全書より
 
公羊学派と康有為
公羊学派は儒教の経典「春秋]の注釈書「左氏伝」 「穀梁伝]「公羊伝」のうち「公羊伝」を正統とする学派 で、政治上の実践をとくに重視しました。 文献研究に没頭する考証学とは対照的なこの学派 はアヘン戦争後の清朝の危機のなかで危機克服の意 識と共に盛んになりました。康有為の「大同書」は公 羊学の伝統に西洋政治思想や仏教の要素も取り入れ 、斬新な発想を加えたユニークな思想書として注目 を集めました。

康有為(小学館・日本大百科全書より)
康有為は「孔子改制考」を著し、孔子はいにしえの聖 人の道を忠実に伝承したのではなく、聖人の言を借 りて当時の政治の改革を実現しようとした改革者で あったという大胆な新解釈を提示して変法運動の理 論的根拠とするとともに、知識人層に大きな影響を 与えました。
 
義和団の世界
義和団では「刀槍不入」のほかにも修練によって関羽や孫悟空などの 民衆になじみ深い英雄や神々をわが身に乗り移らせることが出来る など様々な不可思議な術が宣伝されましたが、これらは惨めな日常か らの飛翔を願う民衆の熱狂と幻想が生み出した産物でした。そうした 熱狂と幻想のなかで、民衆は外国勢力の侵入によって破壊された伝統 的村落の共同体意識に代わる、親しく懐かしい連帯と共同体の意識を とりもどし、同時に彼らを縛り付けていた既存のあらゆる価値体系か らの解放を味わったのです。

義和団事件 ミラノ市立ベルタレッリ印刷物収集館
天津西郊で義和団を攻撃する連合軍。のち「極東の憲兵」の役割 をした日本軍も描かれています。
列強による中国の勢力関係
  

西太后 (ほるぷ出版・世界伝記大事典 より)
清朝第10代同治帝の生母で同治、光緒の全代にわたり 前後47年間皇太后として政務を執り、贅沢三昧な生活 を送り、独裁的な権力をふるいました。変法運動を弾圧 し、義和団を支持、その治世のもとで清朝はますます弱 体化し、彼女の死後3 年にして滅びました。

略 年 表 (近 代) 1796 イギリスの 使節マカート ニーが北京に 来る。 1796 乾隆帝のあ とをついで仁 宗嘉慶帝が即 位。 白蓮教徒の 乱がおこる。 1804 白蓮教徒の 乱が平定され る。 1815 アヘンの輸 入を禁止する 1816 イギリスの 使節アマース トがやって来 る。 1820 嘉慶帝のあ とをついで宣 宗道光帝が即 位。 1838 林則徐がア ヘン取り締ま りの大臣とな り広州へ。 1839 林則徐が広 州でイギリス 商人のアヘン を没収する。 1840 アヘン戦争 が始まる。 1842 清が降伏し アヘン戦争が 終わる。 イギリスと 南京条約を結 び、広州など 5港を開港す る。 1844 アメリカと 望厦条約を結 ぶ。 1850 洪秀全が広 西省で挙兵し 、太平天国の 乱がおこる。 道光帝が死 に、咸豊帝が 即位。 1851 洪秀全が太 平天国を建国 1853 太平軍が南 京を占領し、 天京と名を改 め、都とする。 1856 アロー号事 件をきっかけ に、アロー戦 争が始まる。 1857 イギリス・ アメリカ連合 軍が広東を占 領する。 1858 ロシアと愛 琿(あいぐん) 条約を結ぶ。 イギリス、 アメリカ、フ ランス、ロシ ア四国と天津 条約を結ぶ。 1860 イギリス、 フランス連合 軍が北京を占 領し、円明園 を焼く。 イギリス、 フランス、ロ シアと北京条 約を結ぶ。 1862 アメリカ人 のウォードが 常勝軍をつく り、太平軍を 破る。 1863 イギリス人 のゴードンが 常勝軍を指揮 する。 1864 洪秀全が死 に、太平天国 が滅びる。 この頃から 洋務運動が起 こる。 1875 同治帝が死 に、光緒帝が 即位。 東太后、西太 后が摂政とな る。 1884 清仏戦争が 始まる。 1894 日清戦争が 始まる。 孫文らが、ハ ワイで興中会 を結成する。 1884 日清戦争が 終わり、下関 条約を結ぶ。 1898 ドイツが膠 州湾、ロシア が遼東半島、 イギリスが威 海衛を中国か ら租借して統 治する。 戊戌の政変 がおこる。 1900 義和団事変 がおこる。 八カ国連合 軍が北京を占 領する。 1901 連合軍が北 京を撤退し、 清が列強各国 と講和を結ぶ (続 く)