ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典               P 6 
ー入門篇、神道・民俗信仰の部ー 
        
                                          参考文献日本の宗教(村上重良)
                                                 神道の成立(高取正男)
                                     
          日本の神々と社(読売新聞社)
                                                          神道事典(弘文堂) ほか
 

・・・近代(明治時代〜太平洋戦争終結まで)の神道・・・


国家神道の成立


 1868(明治元)年江戸幕府は倒れ新政府ができましたが新政府は江戸幕府が国教としていた仏教に打撃を加えてその力を弱め、神道を仏教の上に置いて新しい国教をつくろうとします。

[神仏分離] 
 新政府は1868年神仏判然令を出し従来の神仏習合を否定し神道を仏教から独立させます。
 この結果封建支配の末端として臨んでいた仏教に反発する民衆が神職、国学者、儒者、地方の役人などに指導され寺院を破壊したり経巻、仏具などを焼き払ったりする
廃仏毀釈運動が盛んになり寺院の統廃合や僧侶の還俗強制などが行われました。

[神祇官の再興]
 
神道復興のために政府は応仁の乱によって消失した神祇官の復興を目指し1869(明治2)年には太政官とならぶ最高官庁として再興し天皇中心の新しい神道で国民の教化を図ります。
 神祇官はその後太政官に属する神祇省に格下げののち教部省に改められますが1940(昭和15)年には神祇院として復活しました。

[大教宣布の詔]
 
1870(明治3)年大教宣布の詔(みことのり、大教をひろめるという天皇のおおせ)が出され天皇中心の国家の考えに立つ神道が「大教」の名で組織的に全国民に布教されることになりました。
 これは従来の神社神道(神社で行われてきた神道)と皇室神道(皇室の祭祀)を一体化しこれを「大教」として全国民に布教しようとすするものでこれが
国家神道といわれるものです。
 翌年17万を超える全国の神社はすべて国家の宗祀(国の祭祀をおこなう)と定められそれぞれ社格
(*1)を与えられ、伊勢神宮を本宗(総本山)としてその下にピラミット形に編成され官幣社、国弊社とされた神社は国の機関となり神官は官吏となりました。



神祇官の変遷
 神祇官は701年の大宝令により全官庁の最高位に置かれ宮中の祭祀をつかさどり、全国の有力な神社を官社として管掌しましたが武士の抬頭を経て室町時代には朝廷の勢いの衰えにより宮中の祭祀も行われなくなり、応仁の乱により建物も焼失してしまいました。
 明治新政府は神道復興のために、1869年神祇官を復活し、仮神殿も建てられ本格的な祭典・宣教(布教)もはじまりましたが人員的にも祭典と宣教を同時に執行することに無理があり、また太政官から独立しているために宣教政策もうまく機能せずこのために神祇官を太政官下の神祇省とし祭祀も宮中に移し宣教のみを行うことにしました。
 この宣教政策を当時盛んになってきたキリスト教にたいしても強力に対抗するために、仏教も動員しようとし1872年神祇省を廃止し教部省を設置します。
 国家神道が絶頂期を迎える1940年には神祇院として復活しますが終戦により廃止されました。


 

(*1)社格
 神社の格付けのことで1871(明治4)年政府は神社を次のようにランクづけしました
 官幣社(大・中・小・別格)、国弊社(大・中・小)府県社、郷社、村社、無格社。


教派神道の編成

 
 明治憲法は限定付きでしたが信教の自由を認めていたため国家の宗祀となった国家神道とは別に、宗教としての神道は教派神道としての活動を許可されました。
 教派神道は創唱宗教や山岳信仰の講を再編成した各教など十三教(独立派)ですが各教には丸山教や蓮門教などさまざまな民間宗教が付属協会として所属し、活動を合法化しました。

 そして国家神道は教派神道や仏教、キリスト教を超越する国教として位置づけられます。






丸山派の富士山登拝(弘文堂・新宗教事典)
 1882(明治15)年幕府は富士講を禁止したため丸山教は扶桑教の付属協会となりました。


近代天皇制国家と神道


 1889(明治22)年制定された皇室典範と明治憲法により近代天皇制国家(*2)が確立されましたが、天皇は政治上の主権者、軍事上の統帥権者(最高指揮権者)であるとともに、国家神道の最高祭司をつとめる神聖にして侵すことの出来ない現人神(あらひとがみ、人の姿になってこの世にあらわれた神)とされ、国家神道を教派神道や仏教、キリスト教の上において天皇崇拝と神社崇敬を全国民の義務としました。

[創建神社]

 
政府は従来の神社を国家神道に組み入れたほかに国家神道の教えを、そのままあらわす神社を次々につくり国家神道の普及をはかりますが、これらは次の四系統に分類されています。

 (1)天皇に忠義をつくした南朝の武将を祀る神社
     湊川神社(祭神、楠正成)
     阿倍野神社(祭神、北畠顕家・北畠親房)
 (2)近代天皇制のための戦没者を祀る神社
     靖国神社
     招魂社(のちの護国神社)
 (3)天皇・皇族を祀る神社
     橿原神宮(祭神、神武天皇ほか)
     明治神宮(祭神、明治天皇・昭憲皇太后)
     平安神宮(祭神、桓武天皇・孝明天皇)
 (4)植民地や占領地に創建された神社
     朝鮮神宮(ソウル)
     建国神廟(旧満州国)

[新宗教の興隆]

 
国家神道が確立した明治初期の1880年代を中心に天理教、金光教をはじめ、伊藤六郎兵衛がひらいた丸山教、島村みつを教祖とする蓮門教などの現世利益と民衆救済をかかげる新しい宗教が、大きく発展しました。
 民衆の生活に根をおろしてひろがったこれらの宗教につづいて、明治中期に習合神道の「大本教」が生まれ、近代の新宗教(新興宗教)の大きな源流になりました。
 大正から昭和初期には、神道系の「ひとのみち」(のちのPL教団)、天理教からわかれた「ほんみち」、大本教から出た「成長の家」などが成立し発展しました。
 同じ時期に法華系在家教団の霊友会が生まれ、日中戦争(1937〜41)の時期に、ここから立正佼正会が分立しました。

 
・大本教(おおもときょう
 大本教は1892(明治25)京都府綾部で貧しい大工の未亡人出口ナオ(1837〜1918)が神がかりして開きました。
 ナオははじめ金光教に属していましたが農民出身の宗教家出口王仁三郎(1871〜1948)を迎えて道教との習合神道系の教義を体系化しました。
 大本教は世直しによる民衆の救済をかかげ現世利益、予言、集団的な神がかりなどを通じて1910年代には全国的に進出し、金銭万能の利己主義の世の中を激しく批判し、王政復古の明治維新につづく神政復古の大正維新を予言し、軍人、知識層の入信があいつぎましたが、政府は国家神道とあいいれない邪教として弾圧し大本教を禁止しました。

 ・ほんみち
 ほんみちは1913(大正2)年天理教教師の大西愛治郎(1881〜1958)が神がかりして開いた宗教です。
 ほんみちは国家神道をうけいれて教義を改変した天理教を批判して「こふき」神話(中山みきによる人間創造の神話)に基づく教義を整え、日本の前途は危ないとの神の警告を大々的に宣伝して、天皇には天徳がなく、日本統治の資格はないと明言したため、徹底的な弾圧を受け、禁止されました。

 ・ひとのみち
 ひとのみちは1924(大正13)年、大阪で黄檗宗(禅宗の一派)の僧侶であった御木徳一(1871〜38)と子の御木徳近が開いた神道系の新宗教です。
 ひとのみちは
大正初期に関西でさかんだった徳光教をうけついで、太陽神・天照大神信仰をかかげ「教育勅語」を教典としました。
 ひとのみちでは、商売繁盛、家内和合などをもたらす実利的な生活訓を説き、病気なおしなどを通じて、都市の中間層と中小企業者の間に広がりました。
 1936(昭和11)年政府は大本教につづいてひとのみちにも弾圧を加え禁止しました。

 ・生長の家(諸教)
 
生長の家は大本教本部にいた谷口雅春が大本教弾圧後に大本教を去り、1930(昭和5)年に開いた新宗教で、さまざまな宗教、思想、哲学を折衷した近代的な教義をかかげました。生長の家の教えは宇宙を「生命の実相」であるとし、精神中心主義による内面の不安と現実の諸矛盾の解消を説きました。
 生長の家は出版物を大々的に発行して、都市の中間層、知識層。主婦層などを誌友(信者)に獲得しました。

 ・霊友会(仏教系)
 
霊友会は1919(大正8)年に生まれ、のち1925(大正14)年久保角太郎(1892〜1944)と義姉の小谷喜美(1901〜1818)を中心に再発足しました。
 久保は宮内省の建築技師でしたが法華経の功徳(ごりやく)と先祖供養を結び付けた教えをととのえました。
 霊友会はファシズムのもとで、天皇を中心に日本を一つの家とみる家族国家観がたかまると、家中心の信仰と自己抑制の道徳を説いて、都市の主婦層を主力にめざましく発展し、戦争に積極的に協力し太平洋戦争中も、東日本の農村に進出をつづけました。


(*2)近代天皇制国家
 天皇を国家権力の頂点として国を治める体制を天皇制といいますが、これが憲法によって定められているのを近代天皇制国家といい、日本では明治憲法によって成立しました。







靖国神社
 靖国神社は戊辰戦争による官軍側の戦死者の招魂慰霊のため1869(明治2)年、明治天皇の命令で創建された東京招魂社が起源です。10年後に靖国神社と改称、国家神道の要として内務省や陸軍、海軍各省の管轄下に置かれ、日清・日露戦争や第一次、第二次世界大戦の戦死者を祭神として合祀しています。1945年の敗戦で制度としての国家神道が廃止され、靖国神社は宗教法人となりました。1978年、大戦の責任者として処刑されたA級戦犯が合祀され、中国など近隣諸国の反発が大きくなりました。










大本教「みろく殿」
(弘文堂・新宗教辞典より)






生長の家本部会館全景
(弘文堂・新宗教辞典より)



霊友会(釈迦殿)
(弘文堂・新宗教辞典より)


戦時下の神道


 日中戦争から太平洋戦争終結までの15年間は国家神道以外の宗教にとっては、戦争に協力した一部の例外を除き、弾圧と干渉の時代でした。
 すべての宗教は国家神道の枠のなかでの活動しか認められず、国の統制下におかれ、戦争一色にぬりつぶされた日本社会では国家神道が拠って立つ「神ながらの道(神のおぼしめしのままに生きること)」が強調され国家権力への絶対的服従、聖戦の完遂、神州日本の不滅が唱えられるのみでした。

 神国思想教育

 
戦時下の教育を受けた作家の岡野薫子(1929〜)はこう記しています。
 「私の少女時代、天皇は現神(あきつかみ)であり現人神(あらひとがみ)であった。
 天皇は、勿体なくも人の姿をしてこの世に現れた神なのだと教師から教えられ、そう信じた。この日本は世界にゆるぎない神国なのだーといわれ私たちはそれを誇りに思った。」
     (太平洋戦争下の学校生活)

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