第二十四番 泉流山満蔵寺 (廃寺)〜案内図はこちら

(現在日野山徳恩寺〈高野山真言宗〉港南区日野中央2−10−14 )


 ひのやまの しんにょのてらに きてみれば
              はるははなさき あきはくれない
新編武蔵風土記稿の吉原村の条には 満蔵寺 小名、寺尾にあり、禪宗曹洞派、相模国高坐郡大庭村宗賢院の末、泉流 山と號す、古は宮下村得音寺を泉流山と號し、當寺を日野山と號せしが、 當村旱魃の患多しとて、今の如く山號を互に替改めしより、村内旱損なき 由、いかゞはあらん、姑く傳る儘を記せり、本堂四間半に七間、西北向、 本尊十一面觀音長一尺五寸、春日の作なり、金澤札所三十三番の内第 二十四番にあたれり、開山の年歴を傳へず、鎌倉治世の頃は二十一石 の寄附地ありし由、或は百石程の地とも云へば、舊き蘭若なるべし、中興 開山暁堂元龍、文禄元五月十二日示寂と云、かた了舊き地なることを知 らる、

  とありますが、横浜市史稿によると 満蔵寺は、昭和のはじめ日
  野にある光明寺に合併されましたが、大正七年に横須賀汐入
  の地に再建されました。(移転したという説もあります) 
   一方、横浜市史稿には日野にある徳恩寺を金沢霊場第二十四
  番の札所としています。また金沢三十四か所一覧の安永四年
 (1775)版では二十四番札所は 万蔵寺、昭和六年版では徳恩
  寺となっており、もとの二十四番札所であった満蔵寺は光明寺
  に合併され廃寺となり、代わって山号の互換など満蔵寺と深い
  関わりがあったと思われる徳恩寺が二十四番札所となったと考
  えられます。

 新編武蔵風土記稿の宮下村の条には次のように記載されてい
 ます。
  
  得音寺
   前に云春日明神下にあり、古義真言宗、石川寶生寺の末、日野山真如院
   と稱す、本堂七間に五間西南向、本尊阿弥陀立像一尺三寸、


  徳恩寺の創建は、京都御室仁和寺の尋清僧都が康和元年(10
  99)延命地蔵菩薩の像を背負ってこの地に来たところ霊感を得
  てここに寺と神社を建立しました。これが現在の徳恩寺と春日神
  社といわれます。寺は久安6年(1150)火災で焼失、正慶2年
(1333)には新田義貞の鎌倉攻めの余波で什宝を 焼失し、文
  禄3年(1594)には雷火によって春日神社とともに全焼して
  います。春日神社の別当職にありましたが、明治維新の神仏分
  離で職を離れました。 

  徳恩寺へは、二十三番札所安養寺を出て右に進み、信号を越え
  て直進し、清水橋信号を右折、日野インター入口を越えて春日
  神社の信号を右折すると春日神社、次いで 徳恩寺が見えてくる。

 
聖観音菩薩坐像( 徳恩寺蔵)

  



ー観音像についてー

 風土記稿には、もとの二十四番札所であった満蔵寺の本尊として
十一面観音が記されていますが、その後、昭和の始め金子隆英師
が巡礼したときは、徳恩寺の十一面観音をお詣りしています。また
同じく昭和六年編纂の『横浜市史稿』には徳恩寺の宝物として「十
一面觀世音木像、金澤札所第二十四番札所の本尊 一躯」が記載さ
れており徳恩寺に祀られていたことは確かですが、現在の徳恩寺に
は聖観音坐像が安置されているものの十一面観音像はありません。
 住職はその間の事情は全く分からないとのことです。
 横須賀汐入に再建された万蔵寺には本尊として新田義貞公の守り
本尊という十一面観音像が安置されていますが大きさは『風土記』
に書かれている一尺五寸とは違い五寸程度であり、また住職の話で
は、“昭和6年作成の『金沢霊所』や同年刊行の『横浜市史稿』に
よると札所の本尊十一面観音は徳恩寺にあり、当寺の十一面観音は
それ以前からあったようなので、札所の観音とは違うかも知れませ
ん”とのことで、結局二十四番札所の観音の所在は不明です。 
 
徳恩寺客殿 真如殿
次 へ 金沢三十四観音札所へ トップページへ