第十二番 吼月山 泥牛庵(臨済宗円覚寺派)〜案内図はこちら

金沢区瀬戸町11−15


 
    ひきこしや かしのくるまに のりかえて
              これぞかたくの かどでなるん 
 
 泥牛庵は第十一番金龍院の向い側、国道16号線をはさんだ小高い丘の
上にあり、急な石段を登った所に茅葺の山門が建っています。
 このあたり一帯はかって引越村といわれ、今の寺の高さくらい迄ある切
通しになっていて、荷物を大八車で引いて越す職業の人もいたのでこの
地名がついたと言われます。
  泥牛庵は鎌倉末期の創建と考えられていますが、門前には宝暦九年(1
759)建立の「武州金沢三十四箇所第十二番引越村泥牛庵」と刻まれた
石碑があり、碑の左側面には「施主六浦村観音講中」とあり、江戸時代
には金沢札所第十二番として村人たちの篤い信仰を集めていたことがわ
かります。
 新編武蔵風土記稿によると 

   泥牛庵
    除地三畝、小名引越にあり、臨済宗鎌倉円覚寺末、吼月山と號す、
    六間半に七間んの庵なり、巽向、本尊正観音立像長二尺許行基作、
    ここも札所の一なり、開山は円覚寺第十七南山士雲和尚なり、建
    武二年十一月七日寂、当庵古は能仁寺と云寺の塔中にて、今の米
    倉丹後守の陣屋構の内にありしか、能仁寺は既に廃寺となり、当
    庵は陣屋取立の時ここに移されしと云・・・・・・ 

 とあり、創建時は京浜急行金沢八景駅裏の谷戸にありましたが、享保7
年(1722)米倉丹後守忠仰がここに陣屋を構えるにあたり、現在地に
移転したものです。

正観音立像(中央)両脇は地蔵菩薩
山門前の石碑
 
金沢合戦と泥牛庵
永享10年(1438)鎌倉公方 足利持氏が将軍足利義教に背いて おこった永享の乱により、11月 5日持氏は敗れて金沢の称名寺に 逃れます。幕府方の長尾芳伝が称 名寺に攻めよせて持氏方の一色直 兼、上杉憲直、浅間下総らが討死。 11月7日には持氏に従って戦っ た海老名尾張入道が、六浦引越の 道場で切腹自害したと伝えられて います。この引越の道場というの が、泥牛庵が現地に移る以前にあ った谷戸といわれています。 江戸名所図会では、泥牛庵の 「南一町ばかり山の上に古墳二基 あり、その一は海老長門守といへ る人の墓にして、この人泥牛庵に て自害し終われりと云い伝える・ ・・」とあります。






  江戸名所図会には

「・・・本尊は七寸ばかりの唐仏の十一面観音の像を安んず」

と記されていますが、札所第十二番の本尊が聖観音か十一面観
音かは今では正確なところはわかりません。現在の当寺には十
一面観音はなく、本尊は聖観音立像となっています。 

泥牛庵の寺伝によると
 鎌倉幕府十四代執権北条高時が新田義貞に攻められ、一族とと
もに自害した時、鎌倉円覚寺十一世南山士雲禪師に持仏の聖観
音菩薩像を託して寺を建立し、北条氏滅亡後も永久に守ってほ
しいと懇願しました。禪師は鎌倉周辺で霊場の一つとされてい
た六浦の地を選び庵を作り高時をはじめ自害した家臣たちの冥
福を祈ったのが泥牛庵のはじまりです。
 
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