年譜  


1942

2月23日、東京中延に生まれる。父、光衛は大工、母、としいは理髪師。

194246

戦時中を東京・中延で過ごし、戦火を逃れて、父の故郷、宮城県宮村(現蔵王町)へ移る。

194663

小学校と中学校は2学級制で、約100人、全員の家庭環境と頭の程度が分かる。中学校の時、家の近くにバラックを立て、一人生活を始める。中学校教師、半澤健に人の生き方について強い感銘を受ける。高校は父の職業が大工ということで仙台工業高校建築科へ入るも、建築の勉強をせず、大学へ行くしか思い浮かばず。高校時、建築科の教師、志賀宏のモダンアートに心動かされる。1年浪人し、人並みに東北大学工学部に入学。高校、大学は片道2時間、往復4時間をかけて通う。3年目の学科選択のとき、アミダで電気工学科に転ぶ。美術部に属し、上條順次郎、田中信男、鈴木征一、北折佳司、永寿慎一、綿貫(旧姓坂口)桃代らと美術活動。大学中に、仙台在住の日本のシュールレアリスト画家、宮城輝夫を知る。

1964 

読売アンデパンダン展終焉後、仙台アンデパンダン展が三越デパートで開催され、出品。同時にダダイスト糸井貫二、上條順次郎とストリートパフォーマンスを行うも、陰毛が露出していると警察に連行。同時期に第1回個展フジヤ画廊(仙台)で行う。警察連行の咎で河北新聞掲載は取り消しも週刊新潮にトピックス掲載。

1965

モダンアートの志賀広と二人展をフジヤ画廊(仙台)で開催月に東北大学工学部電気工学科二村研究室を卒業。卒業論文は「経団連会館ビル1/20音響模型実験」。成績かんばしからず。4月、船越義房の縁で、日建設計工務にお世話になる。日建設計大崎寮で東京生活を始動。寮は絵画制作の空間と化す。仕事は建築平面図の裏トレースから始め、照明器具の配置等を行う。

1966

日本アイ・ビー・エム藤沢工場の電気設備設計を迫村隆毅と担当。建築は渡辺衡夫。

1967

藤沢市民会館を担当し、初めて照明器具をデザインする。公共建築の設計手法を学ぶ。建築は朝倉守美。歌の感情表現を日本ジャズ学校で日本ジャズの草分けディープかまやつに学び、赤提灯でジャズを飲む。

1968

万博リコー館を担当し、建物の見せ方をパビリオン建築で学ぶ。建築は林昌二、木村善男。

1969

第2回個展を夢土画廊(銀座)で開催。ポロック風ドリッピング手法に興味し、赤と青と黄色のラッカーペンキをシンナーと共にキャンバスに流し込む。

1970

日本アイ・ビー・エム本社ビルを山田耕造と担当する。建築は林昌二、三栖邦博、伊部宏。 設計図はすべてA3の設計用紙に書く。フォルムインターナショナルの藤田信一郎と無垢の塩ビを使った誘導灯を設計し、設置。世界で 唯一の形状の誘導灯誕生。後現場監理に遠山久、北井啓隆、伊部宏、渡辺盛生と常駐し、仕事後毎夜、居酒屋「田村」の窓から現場の進行状態を監視。

1971

日本アイ・ビー・エム本社ビルのエントランスロビーに置く流政之の彫刻「のぼり太鼓」、裏口通路に置く猫の彫刻「たんま」、裏庭に置く「心九」(THINK)の検収に林昌二、三栖邦博と四国庵治の流スタジオを訪ね、造形の自在と功知に感涙し、男の粋と男の作法を知る。流政之の案内で閑崎ひで女の地唄舞を見て、舞の動きに静の佇まいと間の美学を知る。

1972

日本アイ・ビー・エム本社ビルで照明学会照明普及賞を受賞。長岡市立劇場を担当し、雪国長岡の夜を知る。建築は池西一夫。長岡は三尺玉花火が名物で、エントランスホールにそれを模して、3m径のライティングオブジェを設計し、吊り下げる。製作はファニークラフトの上條順次郎。 制作費は200万円しかなく、経費もままならず、税を払わず納入するも、1年後税務署に呼ばれ、40万円の追徴税を徴収される。

1973

長岡市立劇場にエントランスロビーに流政之の彫刻「どんどん太郎」を設置。橋本喬行、池西一夫と流スタジオを訪れ検収。長岡現代美術館(現新潟現代美術館)には流政之の彫刻が3本コレクションされており、東京画廊経由で納入。長岡の料亭に遊ぶ。

1974

神奈川県民ホールを担当し、エントランスロビーの受付の上に2m立方の ステンレス鏡面仕上げのライティングオブジェを円筒形ポールの上に設置。多田美波の壁面レリーフ、天井面、床面を照明する。建築は岩崎孝彦、山本博、石原直次。

1975

海洋博海洋文化館を担当する。建築は只野康夫。外灯にキノコ型ライティングオブジェを設計。製作はファニークラフト上條順次郎。始めて沖縄を訪ね、沖縄人の心の温もりとやさしさを知る。個展サトウ画廊(銀座)で開催。ドリッピング手法と手書きで変形60号を10点出品。

1976

個展Galerie412(表参道)で開催。同潤会アパートにある画廊で、照明が貧しく、ライティングダクトとスポットライトを私のポケットマネーで交換。

1977

上條順次郎とオブジェ二人展をサトウ画廊(銀座)で開催 。1m径のFRP球体を1/8に分割し、光源を取り付けて、表面を赤、黒に塗る。1.5mの円盤をFRPで製作し、UFO的オブジェを展示。長岡市立劇場の3m径ライティングオブジェの型を使用。ジュエリー展示用スタンドを製作。日本アイ・ビー・エム本社ビルの表面入り口の外灯にライティングオブジェを設置。

1978

常陸太田市庁舎を担当し、エントランスロビー廻り階段の手すりの始点に透明アクリ積層板を12段 積層したライティングオブジェを設置。高さ3m、76cm径。この1/5のライティングオブジェ をレストランの入り口に設置。建築は村井敬。厚木市民会館の舞台照明設備を担当。建築は三栖邦博、岡本慶一。

1979

付き合っていた女と別れ、心のむなしさを癒すため、渡辺好章の紹介で、邦楽家石川湛月(後十一世富本豊前)の門をたたき、江戸浄瑠璃富本節の三味線を習う。石川湛月の何とも言えない三味の音に、粋を通り越した深い情念を感じ心が締まる。アフガニスタン結核研究所を担当する。日本の無償援助プロジェクト。建築は渡辺衡夫、敷田耕一郎。ロビーに12mの球体のライティングオブジェを吊り下げる。長岡市立劇場の小型版。この年より海外プロジェクトを担当。始めてアフガニスタンに行き、イスラムの生活環境にショックを受ける。勝ち気な美人ザルゴナに会う。新建築に寄稿。

1980

住友生命東京教育センターを担当する。建築は村井敬。ロビーのライティングオブジェの模型を制作するも実現できず。掛川市立養護老人ホームを担当。建築は石原直司。伊藤忠商事東京本社ビルを担当。建築は三栖邦博、岡本慶一、柴田好文。アフガニスタン稲作開発センターを担当。建築は敷田耕一郎、田中義久

1981

札幌第2ワシントンホテルを担当。建築は門脇登。フィリピン熱帯医学研究所を担当。建築は丸谷武久。フィリピンの文化、食べ物、民族性と女性の柔性・暖かさを知る。十一世富本豊前襲名披露。富本の不幸な歴史に終焉を期待。

1982

青森市文化会館を担当。建築は坂田義雄、岡本慶一。青森のお酒、肴のうまさに感激。以後駅前の市場で酒の肴を仕入れる。江戸川区総合文化センターを担当。建築は根橋宏次。カイロ大学小児病院を担当。建築家は敷田耕一郎。エジプト女性の太さに驚嘆。鳩料理を始めて食べる。美味。タイ・マハサラカム看護学校を担当。建築は馬場正三。タイの民族性と心配りに好意し、食文化に興味する。

1983

日動火災渋谷ビルを担当。建築は島倉宏。地唄舞の武原はんの武原ビルの舞台設備を担当。建築は村山博美。タイ・バンセン海洋科学センターを担当。建築は久野秀晴。初めて水族館を計し、生き物の環境について思索する。

1984

タイ・中央造林研究訓練センターを担当。建築は古川洋一。フィリピン・バターン難民センター拡充計画を担当。建築は田中義久。死の行軍のバターンを訪れ、当時の状況に思いを馳せる。フィリピン・人造りセンターを担当。建築は板野醇一、桜井潔。

1985

十一世富本豊前3回追善演奏会(国立劇場演芸場)に出演。龍ヶ崎文化センターを担当。建築は石原直次。

1986

十一世富本豊前亡き後、富本節を富本豊美喜、端唄を神楽坂まき子に師事。粋な歌詞の端唄は惚れた・はれたの色模様。神楽坂芸者の心意気を賞味。

1987

第1回牧の会(富本豊美喜・神楽坂まき子主宰)邦楽演奏会を神楽坂/割烹志満金で開催。神楽坂芸者集多数出演。神楽坂男五人衆(すずきこお、間野幸也、大阿久芳樹、筒井昭生、板木克憲)大いに張り切る。アマノ・アメリカ・マニュファクチャリングを担当。建築は和智信二郎。

1988

個展ぎゃらりいセンターポイント(銀座)で開催。約40点出品。雑誌三彩に掲載。第2回牧の会邦楽演奏会を神楽坂/日本出版クラブ会館で開催。間野幸也とジョイント邦楽コンサート/二人で一人の演奏会を料亭/牧で開催。エジプト教育文化センター(カイロオペラハウス)を担当。建築は敷田耕一郎、石原直次。

1989

中嶋安敏に師事し、ヴォイストレーニングのレッスンを受ける。第3回牧の会邦楽演奏会を神楽坂/割烹志満金で開催。間野幸也とジョイント邦楽コンサート/弥次喜多演奏会を神楽坂/喜久家で開催。バングラディシュ・リュウマチ熱リュウマチ性心疾患抑制研究所を担当。建築は古川洋一。USA・東レPAMプロジェクトを担当。建築は本郷智之。タイ・笹川記念研究所を担当。建築は畑清。セントビンセント・キングスタウン港食品市場を担当。建築は土屋潔。

1990

1回リサイタル/MY FAVORITE SONGSを赤坂レストラン/アルハンブラで開催。ダニー・ボーイほかスタンダードナンバーを14曲歌う。第4回牧の会邦楽演奏会を新宿/角筈ホールで開催。間野幸也とジョイント邦楽コンサート/気になる邦楽演奏会を料亭/牧で開催。インドネシア・ジャカルタフェア施設計画を担当。建築は久野秀晴。中国国際貿易センターを担当。建築は三栖邦博、内藤計介、土屋潔。外構歩道に石のライティングオブジェを規則的に設置。中国の民族性、歴史、食文化を知るにつけ、悠久の歴史の重みを身に染みて感じ、しばしマオタイ酒に酔う。

1991

第2回リサイタル/MY FAVORITE SONGS を四谷/ライブハウス・フォーバレーで開催。第5回牧の会邦楽演奏会を神楽坂/割烹志満金で開催。ピッコリーナマンスリーコンサートを四谷/ライブハウス・フォーバレーで開催。出演浦ひろみ、斎藤美歌子、正愛。ピッコリーナジュエリーボックスコンサートを新宿/シアター・モリエールで開催。出演:澤村美司子、シルビアほか。ミュージカル/ブロークンハートを新宿/角筈区民ホールで開催。音楽長屋のマスターを演じる。出演:正愛、安藤英夫、浦ひろみ、斉藤美歌子、夢路。

1992

戯劇団曼陀羅公演/たいこどんどん(井上はさし作)に出演し、幕間に江戸浄瑠璃富本節を大阿久芳樹、筒井昭生と唄う。深川江戸資料館小劇場。ソングフォリオを結成。第1回を雅叙園観光ホテル、第2回・第3回をレストンランシャトー南青山で開催。出演:浦ひろみ、斎藤美歌子、島川たけやす。第6回牧の会邦楽演奏会を神楽坂/毘沙門天で開催。日本ロッシュ新研究棟を担当。建築は久野秀晴。初めて研究所を設計。ホテルニッコーグアムを担当。建築は岡本慶一。

1993

イスラム開発銀行本部ビルを担当。建築は三栖邦博、和智信二郎、古川洋一。外構に石のオブジェを設置。アルコールの飲めない国に初めて入り、イスラム教のしきたりに、仏教やキリスト教の違いを知り、人間どこに生まれるかは宿命といえあまりの落差に驚く。

1994

個展地球堂ギャラリー(銀座)で開催。39点出品。昭和パックス本社ビルを担当。建築は富樫享、青木伸。光文社本社ビルを担当。建築は安田幸一。フロストガラス板を使用したシンプルな階段誘導灯を設計し、設置。デザインローヤルティは日建設計。三宅坂交番/桜田門交番/飯田橋交番/赤坂米国大使館警備派出所を担当。建築は安田幸一。一連のデザインされた交番の出現に拍車。中国・敦厚石窟文化財保存研究展示センターを担当。建築は浜田明彦、田中義久。

1995

ドバイ商工会議所ビルを担当。建築は中村光男、小比賀一史。竣工祝いに絵画「風の歌」を寄贈。エジプト・カイロ大学看護学部施設改修計画を担当。建築は吉村憲。タイ王国青少年職業訓練センターを当。建築は田中義久。

1996

在中国日本大使館公邸を担当。建築は浜田明彦、土屋潔。

1997

戯劇団曼陀羅公演/でんぶの湖(中山介山作、大菩薩峠より)に客演。三軒茶屋/シアタートラム。ノボ・ノルデスク・ファーマ郡山工場を担当。建築は持田英明。建築家の個性について考える。仙台空港新旅客ターミナルビルを担当。建築は横谷英之、向井一郎。始めて仙台の仕事で心躍る。

1998

東京大学理学系研究科・理学部1号館を担当。建築は中谷聡。テルナイト東京技術センターを担当。建築は土屋中。ホテルニッコーハノイ(サクラハノイプラザホテル)を担当。建築は土屋潔。シティバンク新宿東口支店を担当。以後シティバンクの支店設計を継続。

1999

北里看護専門学校講堂等付属棟を担当。建築は松本博樹。棟内の展示室の照明に一工夫。八千代町立図書館を担当。建築は中村耕史。間接照明を効果的に演出するのに一苦労。日本都市センター会館を担当。建築は高村光。異常に真面目な施主に、暫し戸惑う。シンプルなライティングスタンドを製作。

2000

日本フィシング会館を担当。建築は玉野和信。マルキュービルを担当。建築は本耕一。鴨川シーワールド・トロピカルワールドを担当。建築は安田幸一、登内徹夫。熱帯の海のエメラルドグリーンを照明で再現するのに四苦八苦。ディズニー/イクスピアリ・アンバサダーホテルを担当。建築は阿佐見昭彦、若林亮,山根格。茨城県立図書館を担当。建築は高村光、中村耕史、小高考司。県議会議事堂を県立図書館に用途変更。エントランスロビーに高さ3mのライ ティングオブジェを2本ソファーの背に建てる。FBRサイクル国際研究開発センターを担当。建築は中井芳男。エントランスロビーと大会議室ロビーにオブジェ風ライティングブラケットを設計、設置。第3回鳴展/東北大OB展(宮城県美術館・県民ギャラリー/仙台に絵画8点、写真4点、高さ2.7mのライティングオブジェ1点を製作、出品。日本アイ・ビー・エム本社ビルがBELCA賞(ビルのロングライフ賞)受賞。1,2階のロビー改修を期に流政之の彫刻をリノベーション。伊原秀美、高橋千秋と流スタジオで新装なった彫刻を検収。新たに真鍮で銘板を新調し、おのおの彫刻に設置。銘板に作者・流政之の心を記す。

ロビーの彫刻「のぼり太鼓」:昇れば開く末広がりバチに太鼓の花が咲く

通路脇の彫刻「たんま」  :時は待つべし急がば回れたんまは心の救いなる

・ 庭の彫刻 「心九」          :心九は心の広がる泉心の疲れ捨てるべし
上條順次郎の助言で、木製のレリーフを2点製作する。今後このシリーズを進めていくことに確かな手ごたえを得る。第7回個展/私の20世紀総括ギャラリー渋谷(渋谷)で開催。パネル展示5点、絵画37点、レリーフ2点、ライティングオブジェ8点展示。

2001

東京たばこサービス本社ビルを担当。建築は亀井忠夫、右高博之。藤久ビル東号館ビル(ジュンク堂書店池袋本店)を担当。建築は中谷聡。売り場世界一の書店誕生。大分マリーンパレス21計画の設計を担当。建築は安田幸一、登内徹夫。大妻女子大学/新千代田校図書館の設計を担当。建築は村山博美、原田由紀。大妻学院中学・高校新築工事の設計を担当。建築は村山博美、牧野健吾。第8回個展/色・色のアソビをギャラリーQ(伊豆洋らんパーク)で開催。初めての画廊企画展。33点展示。住友ベークライト宇都宮工場/情報通信材料総合研究センターの設計を担当。建築は大塚隆、鈴木健悦。オリックスリアルエステート/新宿4丁目ビルの設計を担当。建築は中谷聡。米国同時多発テロを機にアフガン関係者が集まる。

2002

第9回個展 ストリップライトを新井画廊(銀座)で開催。写真パネル28点とストリップライト40本を展示。3月、日建設計卒業。第2回アフガニスタンの会の集いを開催。夏、Stephen Todd大阿久芳樹とヨットを手に入れ、沼津から真鶴まで2日間の処女航海。第4回鳴展をスペースR(代々木)で開催。絵画2点、木製レリーフ5点、ライティングオブジェ1点を出品。日建設計の依頼で大分マリーンパレス新水族館の照明設備を中心に現場監理を行い、月2回大分に通う。湯布院、黒川温泉、日田温泉等めぼしい温泉をドライブする。

2003

茨城県立図書館がBELCA賞(ベストリフォーム賞)を受賞。敷田耕一郎とスイスにDr.Abdul Darmangerを訪ねる。第3回アフガニスタンの会の集いを開催。第10回個展/木との戯れをスペースR・代々木で開催。レリーフ43点を展示。日建設計の依頼で、新江ノ島水族館の水槽照明のアドバイザーを行う。

2004 

大分マリーンパレス水族館「うみたまご」に「うみたまご」三種のアートを設置。正面入り口近くに流政之の彫刻「海卵」・エントランスホールにコンクリートのレリーフ「海卵」および壁面に照明ブラケット「うみたまご」「うみたまご」30個はアルミの叩き、製作をさいとう工房に依頼。海の景観プールには海底からのアッパーライトを海面に拡散するための照明反射オブジェをファニークラフトの上條順次郎に依頼・製作。5月に第5回鳴展(宮城県美術館・県民ギャラリー/仙台)を開催。第4回アフガニスタンの会の集いを開催。第11階個展/Latest Reliefs & Lighting Objects SPICA Art(南青山)で開催。レリーフ24点とライティングオブジェ8点を展示。

2005

第5回アフガニスタンの会の集いを開催。AFJ代表世話人の敷田耕一郎が急性心不全で他界。長年の友を失い、しばし呆然。第6回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。キャンバス、コルク、塩ビシート、ベニア板、きり板に描いた絵画14点を展示。那須にスタジオを作り、今後の活動の拠点の一つとする。

2006

第6回アフガニスタンの会の集いを開催。第7回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画4点と照明スタンド4本を展示。

2007

第7回アフガニスタンの会を開催。第8回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画12点と照明スタンド4本を展示。第12回個展/形・色・心象をオリエギャラリーで開催。絵画72点展示。

2008

第8回アフガニスタンの会を開催。第9回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画4点を展示。

2009

10回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画4点を展示。

2010

新建築社から「日本IBM本社ビル 1972-2009 建築とファシリティマネジメントのライフタイム記録」として2010年9月別冊が発売。11回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画4点を展示。

2011

3月長年の友、上條順次郎逝く。享年70歳。12回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画4点を展示。第13回個展/小さな作品の魅力をギャラリースペースQ(銀座)で開催

2012  13回鳴展(せんだいメディアテーク・仙台)を開催。絵画4点を展示。
2013 第14回個展/小さな作品の魅力をギャラリースペースQ(銀座)で開催絵画27点
第15回個展/初めて地元のギャラリー(清川泰次記念ギャラリー内世田谷区民ギャラリー)で開催。
絵画31点
2014 9月に城戸健一先生と北海道道北・道東を旅する。オホーツク海でクジラを見る。11月に迫村隆毅に萩を案内してもらう。
2015 3月初めて金沢を訪ねる。新と旧が程よく溶け合ってとてもいい街だ。5月あしかがフラワーパークに行き、大きな藤を見て感激。大学時代以来お世話になってきた城戸健一先生が逝去。
2016 そらいろ展は15回目を迎える。第3回から参加しているがこの手の展覧会としてはいい方であろう。中学時代以来お世話になってきた恩師・半澤健先生が逝去
2018
10月母が102歳で逝去。