上條順次郎のプロフィール

1941   東京代々木に生まれ、後に埼玉県吹上町で育つ

1960   東北大学農学部に入学、中途退学

1960代 お茶の水美術専門学校で学ぶ。川口のマネキン工房で造形技術を学ぶ。陶器を製作し、全国を売り歩く。ハプニング集団「ゼロ次元」(加藤好弘主催)の活動に参加

1970代 イベント用着ぐるみをアルバイトとして頼まれ制作。その後、事業として、着ぐるみ製作工房・有限会社「ファニークラフト」を設立

2006  イベント用着ぐるみを多数受注し、多忙。腫瘍が見つかった半年後に直腸がんが見つかる

2011  直腸癌で逝去




2011年3月9日逝去後、上條順次郎を振り返る

3月に70歳で亡くなった造形家、上條順次郎と出会ったのは東北大美術部であった。その前に彼は東北大川内キャンパスを沢山の子供たちと歩いてるのをよく目撃した。後でわかった事だが彼は中江セツルメントを立ち上げ、よくその地域の子供たちの面倒を見ていた。あの時の若々しさが蘇ってくる。

鳴展(東北大OB美術展)は今年(2011)で12回目を迎える。92()から7()までせんだいメディアテークで開かれる。第1回・第2回は学生時代、仙台アメリカ文化センターと日立ファミリーセンターで開催。このときの中心メンバーが上條順次郎であった。金がなく、ペンキとコールタールで描く。

・東北大4(1965)の時、仙台アンデパンダン展が三越デパートで開催。読売アンデパンダン展が終焉し、各地でアンパンが突発。仙台もその一つ。後にも先にもそれ一回限りで、アンパンの遠心力は失われていった。ダダイスト・糸井貫二、造形家・上條順次郎と3人でストリートパフォーマンスを行う。

・ダダイスト・糸井貫二は不思議とある種の人たちには人気がある。大学卒業後職場となる日建設計の同期・建築家の敷田耕一郎(故人・初代アフガニスタン会長)とは親戚であることが分かる。上條順次郎は何故かダダカン(糸井貫二)に心酔し、加藤好弘率いる儀式集団・ゼロ次元で大活躍してからも続く。

・上條順次郎は東北大農学部からお茶の水美術学院に移り、本格的に美術に集中する。その後、大洋工芸でFRP等造形の技術を習得。この頃から本格的に陶芸を始める。とても温かみのある陶芸で私の好むところ。沢山の茶碗、小鉢、皿、壺などを作っていただいた。その器で食事をするのが今も無性に楽しい。

・本格的に作陶を始めた上條順次郎は作った陶器を持って全国的に即売展示会を始める。どのくらい売れたかは定かでないが収入源はそれだけだったので生活は差し迫ったものであったに違いない。展示会を始めて56年たったころ、ふと始めた着ぐるみ製作に手ごたえを感じ、着ぐるみ製作工房を立ち上げる。

・上條順次郎が着ぐるみ製作工房「ファニークラフト」を立ち上げたのは1980年頃でスタッフ数人とであった。驚くほど器用なスタッフがいるとは最初は知らなかった。彼は並外れた技術を持って、着ぐるみ製作に励んだ。いつの間にかファニークラフトは着ぐるみ業界では知る人ぞ知る存在となり今に至る。

・着ぐるみ製作工房「funny craft」が軌道に乗るまでは紆余曲折があったがその真摯な製作方針は一貫している。この十年は営業活動をしなくても仕事が入り、ホームページも・・までは受注できませんという案内。スタッフが5人で、すべて一品の手仕事となると1カ月に出来る着ぐるみ数は限定。

2005年頃、腫瘍が見つかり自治医科大学病院で治療。その後半年して腸の癌が見つかる。腫瘍はほぼ治ったと安心した後の事であった。上條順次郎が遺伝子治療を子供のころからの友人に勧められて、真剣に考え出したのは癌が見つかってから4年後の事であった。遺伝子治療はメキシコがいいとの事。さて

・遺伝子治療は人・癌により効果が著しく異なるとのこと。上條順次郎はいろいろ調べた結果、自分には効果がないと判断する。遺伝子治療は1千万ほどの治療費がかかり、だれでも治療を受けれるわけではない。亡くなる2年ほど前からは電話をかけると決まって「まだ生きているよ」が第1声。何とも辛い。

・上條順次郎の最後の作陶展は2011年の2月、さいたま市の画廊で、本人入院のまま行われた。亡くなる前の月であった。力が無くなった人でも自由に造形が出来る技術を考案し、それをDVDに収めた。無くなる数日前に、数々の着ぐるみ作品を世に送り出してきた着ぐるみ造形工房「ファニークラフト」は火事に遭う。

・上條順次郎が癌で逝ったのは大震災の直前、葬儀は大震災の直後であった。その後、新しく着ぐるみ造形工房「ファニークラフト」が業務を再開したとの案内がファニークラフトのホームページに載る。上條順次郎の遺志を継いだ新生・Funny Craftに期待したい。




上條順次郎のオブジェ



上條順次郎の陶器

上條順次郎と陶器作品